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各地を転戦して戦功を挙げたが、本能寺の変の際に信忠と共に二条御所で討死した。

斎藤利三(さいとう としみつ) 1534~1582

元斎藤義龍の家臣で、後に明智光秀の家老を務める。

母は明智光秀の妹で、光秀の甥に当たる。

有能な武将であったが山崎の敗戦後に近江で捕らえられ斬首。

娘は徳川家光の乳母・春日局。

斎藤朝信(さいとう とものぶ)   ?

 ~1591

上杉謙信・景勝の重臣で下野守を称す。

越後刈羽郡赤田城主。

謙信の奉行職を務め、越中方面攻略や下野佐野城攻めで活躍。

御館の乱の際には景勝側につき軍功をたて、後に越中富山城や信濃海津城の守将を務めた。

斎藤信利(さいとう のぶとし)   ?

 ~1610

越中の国人で通称次郎右衛門。

はじめ信和を名乗り、のち上杉謙信に従う。

謙信没後は織田方につき信利と改名した。

天正九年には逆に上杉景勝側につき佐々成政に抗するが敗れ、義父の飛騨三木良頼を頼った。

斎藤義龍(さいとう よしたつ) 1527~1561

元美濃国主土岐頼芸の子とも言われ、その生まれをめぐり父道三と対立し、家臣団も二派に分かれた。

しかし大勢は義龍に傾き、長良川河畔での道三との戦いの末その首を取る。

体が大きく合戦にも強かったとされるが、若くして病死した。

斎村政広(さいむら まさひろ) 1562~1600

播磨の名族赤松政秀の子。

通称弥三郎、左兵衛佐。

諱は広道(通)・広英(秀)とも。

藤原惺窩から漢学を学んだことで知られる。

秀吉の中国平定の際に龍野城で降伏、蜂須賀正勝の配下となる。

のち秀吉から取り立てられ天正十四年には但馬竹田城二万二千石の主に。

関ヶ原の際、初め西軍に属すが途中で東軍に寝返り、宮部継潤の鳥取城を攻める。

その際城下に放火したため徳川家康の怒りを買い、十月に自刃させられた。

酒井重忠(さかい しげただ)  1549~1615

徳川家康の家臣、河内守。

竹千代時代からの家臣で、家康の三河統一期には石川家成の配下に属した。

はじめ三河西尾城主、次いで武蔵河越一万石に移り、最終的には上野厩橋三万三千石の城主に。

酒井忠次(さかい ただつぐ)  1527~1596

徳川家康の竹千代時代からの家臣で家康の養育係。

「徳川四天王」の一人に数えられ宿老を務めたが、信康切腹事件以後はやや疎まれ遠ざけられた。

これは、信長から信康の行状不審をとがめられたとき、忠次が一言も信康の弁護をしなかったため、家康から後々まで恨まれたと伝えられている。

坂井久蔵(さかい きゅうぞう)  ?

 ~1570

政尚の子。

織田信長家臣で信長が足利義昭と共に上洛する際、まだ十三歳ながらも近江箕作城攻めで活躍、義昭から感状を得た。

しかし2年後の姉川の合戦では父政尚と共に先陣を務めたが、浅井家の猛将磯野丹波守員昌の猛攻の前に激闘の末、力尽きて討死した。

酒井正親(さかい まさちか)  1521~1576

松平清康・広忠・家康三代に仕えた譜代の家臣で、雅楽頭(うたのかみ)を称す。

家康が駿府へ人質として送られたときに同行、大高城兵糧入れの際には小荷駄奉行を務めた。

翌年三河西尾城を攻略して与えられ、松平宗家譜代家臣初めての城主として知られる。

坂井政尚(さかい まさひさ)   ?

織田信長家臣ではじめ盛種を名乗り、のち美濃の坂井下総守(異説あり)の養子となり政尚を名乗る。

佐々成政の兄と伝えられ、姉川の合戦では織田軍の先陣を務めた。

援軍として赴いた近江堅田の合戦で浅井・朝倉連合軍と激闘の末、奮戦むなしく討死。

榊原康政(さかきばら やすまさ)1548~1606

徳川四天王の一人で、後に上州館林十万石の城主。

関ヶ原の後に本多正信・正純親子と対立して次第に遠ざけられ、秀忠付きとなる。

小牧の役の際、徹底的に秀吉を蔑みあざけった文言の立て札を立て、それが却って秀吉に感心されたというエピソードを持つ勇将。

相良武任(さがら たけとう)   ?

 ~1551

正任の子で大内義隆の重臣。

中務丞のち遠江守を称す。

文官肌で主君義隆に取り入り大内家の家宰を務めたが、次第に義隆の寵を得て権勢を振るう。

これを快く思わなかった武官の重臣・陶晴賢(当時は隆房)と対立し、晴賢の謀反の際に筑前花尾城で殺された。

相良正任(さがら ただとう)  生没年不詳

大内政弘・義興の臣で遠江守、のち出家して沙弥正任(しょうじん)と号す。

特に政弘の側近として活躍、義興の初期にかけて奉行人を務めた。

有職故実に通じ、連歌にも堪能な文人として知られる。

陣中日記「正任記」を著した。

相良長毎(さがら ながつね)  1574~1636

肥後人吉城主義陽の二男で初名は頼房、通称四郎次郎、宮内大輔を称す。

兄忠房没後に家督を相続、秀吉の傘下に入り佐々成政の寄騎となった。

関ヶ原でははじめ西軍に属し大垣城に籠もるが、決戦直後に水野勝成を通じ東軍に寝返り、城内で熊谷直盛らを謀殺して戦後所領を安堵された。

相良義滋(さがら よししげ)   1491~1546

肥後相良氏十三代長毎の子で十六代当主。

八代古麓鷹ヶ峰城主で初め長唯を名乗る。

兄瑞堅とともに十五代長定を国外追放した際、長男を養嗣子とする条件で上村頼興の協力を取り付けて家督を嗣ぐことに成功、八代・芦北・球磨三郡を統一した。

相良義陽(さがら よしひ)   1544~1581

肥後八代古麓鷹ヶ峰・人吉城主で、修理大夫を称す。

同国八代・芦北・球磨三郡を支配し、一時は日向の一部に勢力を拡げたが北上する島津氏との間に激戦を展開、後に降伏に近い和睦を結び島津方に転じる。

その後程なく1581年に益城響ヶ原にて肥後の名将・甲斐宗運と戦って戦死した。

佐久間真勝(さくま さねかつ)1570~1642

河内守政実の長子で、諱は実勝・直勝とも。

河内守、伊予守あるいは将監とも称された。

初め秀吉の小姓を務め、後に徳川家康・秀忠・家光三代に仕えた。

慶長十四年の名古屋城築城の際には普請奉行を務めたが、武士としてより茶人として高名。

古田織部に茶を学び、山隠宗可あるいは匿藪斎と号し、京都大徳寺に寸松庵を建立した。

佐久間信盛(さくま のぶもり)1527~1581

織田家譜代の重臣で、近江長光寺城主。

数々の合戦に戦功を上げ信長の信任も厚かったが、本願寺との石山合戦では苦戦し膠着状態に陥る。

このことをずっと後になって信長から過去にさかのぼってその怠慢を咎められ、高野山へ子の正勝とともに追放され、さらに高野山から紀州日高郡寒川郷に移り、同地で病歿した。

佐久間正勝(さくま まさかつ)1556~1631

不干斎。

元織田信長家臣で信盛の子。

通称甚九郎、諱は信栄とも。

天正六年には信長のために茶会を催すなど茶の湯に堪能で、千利休や堺の高名な茶人たちとも交流があったが、結局これが徒となって父信盛とともに高野山へ追放される憂き目を見た。

信盛の没後許されて織田信忠のち信雄に仕え、その後秀吉・徳川秀忠のお伽衆を務めて江戸で病没した。

佐久間盛政(さくま もりまさ)1554~1583

盛次の嫡子で柴田勝家の甥、加賀国尾山城主。

信長からも属目された勇猛な武将で、鬼玄蕃の異名を持つ。

信長の越中攻めの際には前田利家らとともに奮闘、上杉方の松倉城を抜く。

しかし秀吉と対した賤ヶ岳の合戦では緒戦に中川清秀を討ち取るも、度重なる勝家の退却命令に背き深入りして大敗。

退却中に捕らえられ、京の市中を引き回された後に斬首された。

佐久間安政(さくま やすまさ)1555~1627

盛政の弟。

弟の勝之とともに執拗に秀吉に抵抗したが力及ばず降伏。

後に織田信雄→北条氏政→蒲生氏郷→徳川家康と渡り歩く。

関ヶ原では東軍に参加し、大坂の陣にも従軍した。

最終的には信濃飯山三万石の城主に。

桜田元親(さくらだ もとちか) 生没年不詳

伊達氏の宿老で通称玄蕃。

政宗のもとで天正十七年初陣を迎え、父資親と駒ヶ峰城攻めに加わる。

後に白石の役にも戦功を挙げ、特に仙台築城時に小人が暴動を起こした際には茂庭石見の命によりこれを鎮圧。

のち秀宗に従い宇和島へと赴任した。

佐治信方(さじ のぶかた)   生没年不詳

尾張知多郡大野浦の土豪・佐治左馬允為平の子で為興ともいう。

桶狭間の合戦後に織田信長に臣従、妻は織田信長の妹・お犬。

信長の嫡子信忠に従って長島一向一揆掃討戦に参陣した際に討死した。

佐竹義昭(さたけ よしあき)  1531~1565

義篤の子で右京大夫、常陸の戦国大名。

天文二十年、北条氏康に平井城を攻略された関東管領山内上杉憲政に頼られ、管領職と上杉氏の名跡継承を申し込まれるがこれを拒否したため、憲政は越後の長尾景虎を頼る。

領国拡大のさなかに35歳の若さで歿した。

佐竹義重(さたけ よししげ)  1547~1612 

義昭の子で常陸介、はじめ義廉を称す。

「鬼義重」と呼ばれ恐れられた北関東・常陸の大大名。

伊達政宗と四つに組んで戦った勇将で、根強い土豪勢力の抵抗に苦しみながらもこれを一掃し、江戸重通の水戸城を攻略して常陸一国を統一。

また次男義広を蘆名家、三男貞隆を岩城家、四男宣家を多賀谷家に送り込んで嗣がせ、版図を飛躍的に拡大した。

佐竹義宣(さたけ よしのぶ)  1570~1633

義重の子で通称次郎、右京太夫を称した初代秋田藩主。

最終官位は左中将。

初めは水戸城主として父の跡を継いで常陸国五十四万石余の所領があったが、関ヶ原では家康の出陣要請に従わず軍を動かさなかったため、出羽久保田(秋田)二十万石へ減封された。

佐々成政(さっさ なりまさ)  1539~1588

通称内蔵助。

信長の重臣で、本能寺の変後は柴田勝家に属し富山城を預かる。

勝家と同じく秀吉嫌いで知られ、勝家滅亡後に秀吉に降伏。

肥後を任されたが失政により一揆が蜂起、鎮圧に失敗して秀吉からその罪を咎められ摂津尼ヶ崎にて切腹した。

佐藤清信(さとう きよのぶ)  ?

 ~1563

美濃上有知(こうずち)の土豪。

道信の子で秀信とも。

通称六左衛門尉、鉈尾山初代城主。

美濃守護土岐氏(斎藤氏)の被官となり天文十年に鉈尾山城を築いた。

武儀郡中央に武威を振るい上洛を企てるが長屋氏広に阻まれ断念、後に和睦した。

織田信長の美濃侵攻に際して降伏、以後は信長に従った。

佐藤為信(さとう ためのぶ)   ?

紀伊守、陸奥伊具郡小斎城主。

はじめ相馬盛胤の家臣であったが、父伊勢守好信が桑折左馬之助の讒言により失領。

天正十四年に援軍として入城した左馬之助を殺害、ただちに子の勝信を人質に伊達氏に臣従した。

のち小斎・金山城攻めに活躍するが、佐沼の役の際に討死した。

佐藤秀方(さとう ひでまさ)  ?

 ~1594

清信の子で通称六左衛門尉、従五位下隠岐守。

美濃鉈尾山二代城主。

名は「ひでかた」とも。

織田信長の臣で母衣衆を務めた。

妻は金森長近の姉。

山崎合戦以降は豊臣(当時は羽柴)秀吉に属し所領を安堵され、天正十一年には織田信孝方の郡上城主遠藤慶隆を立花山に戦い破る。

以後紀州攻め・小田原役・文禄役に参陣。

文禄二年に隠居して家督を方政に譲り、翌年没した。

里見忠義(さとみ ただよし)  1594~1622

義康の子で通称太郎、安房守、従四位下侍従。

忠義の「忠」の字は将軍秀忠からの一字拝領。

義康の早死によりわずか十歳で家督を継ぐ。

妻が大久保忠隣の孫であったことから忠隣失脚の際に連座して改易となり、伯耆倉吉へ配流され失意のうちに没した。

没時に近臣八人が殉死したことから、のちに『里見八犬伝』のモデルとなったのではないかとされる。

里見義堯(さとみ よしたか)  1507~1574

安房久留里城を本拠とした戦国大名実堯の子。

刑部大輔・安房守を称す。

小弓御所・足利義明と連携して第一次国府台合戦で北条氏綱軍と戦ったが大敗、義明は討死した。

この後一旦安房国へ逃れたが上杉謙信と誼を通じ、勢力を徐々に回復した。

小田原北条氏は共に親子二代にわたって戦ったライバル大名。

里見義弘(さとみ よしひろ)  1530~1578

義堯の子で安房佐貫城主、左馬頭・陸奥守を称す。

北条氏の氏綱・氏康親子と何度か戦ったが、第二次国府台合戦で北条綱成軍に大敗した後上総国へ脱出。

二代後の義康の時に安房一国は何とか保ったものの、その子忠義は大久保忠隣の失脚に絡み、伯耆倉吉へ転封となった。

真田大助(さなだ だいすけ)  1602?

~1615

幸村の長男で、母は大谷吉継の娘竹林院。

諱は幸昌あるいは信昌と伝える。

幸村の九度山配流後、同地に生まれる。

大坂の役の際に幸村とともに大坂城へ入城して戦い、幸村戦死後の慶長二十年五月八日、豊臣秀頼に殉じて自刃した。

法名「頤神院殿直入全孝大居士」。

真田信尹(さなだ のぶただ)  1547~1632

幸隆の四男で昌幸の弟。

武田氏の家臣加津野氏の養子となり加津野市右衛門信昌を名乗るが、武田家滅亡後は北条氏の臣を経て徳川家康に仕え隠岐守信尹を称す。

北条綱成の拠る深沢城攻めの際に「地黄八幡」の旗を奪ったり、大坂の陣の際には家康の命で真田幸村のもとに「信濃一国」を条件に説得に出向いたことで知られる。

真田信綱(さなだ のぶつな)  1537~1575

武田信玄・勝頼の臣。

幸隆の長男で昌幸の長兄。

通称源太左衛門、武田二十四将の一人に数えられる勇将で信濃上田城主。

青江貞次三尺三寸余の豪刀を揮い、上杉謙信との川中島合戦や北条氏政との伊豆韮山合戦、徳川家康との三方ヶ原合戦を始め、数々の戦いで武功を顕わす。

天正二年に父幸隆が没して家督を嗣いだが、翌年長篠合戦において弟の昌輝とともに討死した。

真田信之(さなだ のぶゆき)  1566~1658 

昌幸の子で伊豆守を称す。

幸村の兄で妻は本多忠勝の娘。

家康の上杉討伐時に世に言う「犬伏の別れ」で父昌幸や弟幸村と決別し、徳川方に付く。

関ヶ原の敗戦で切腹処分が当然の父や弟の助命に奔走、舅の本多忠勝(榊原康政・井伊直政とも)らの後押しもあり高野山配流にとどめた。

これ以後は徳川家に忠節を尽くし、後の松代藩真田本家の祖となった。

真田昌輝(さなだ まさてる)  1543~1575

幸隆の二男で昌幸のすぐ上の兄。

通称徳次郎、兵部丞、兵部少輔。

兄信綱とともに信濃上田城を守備した。

武田信玄の騎馬大将を務め、信玄の出陣の際には常にそれに従い、「一之先衆七千」の一手を務めたという。

長篠合戦の際には佐久間信盛と戦い首級十六を挙げるなど奮闘するが、深手を負い奮闘虚しく兄の信綱とともに討死した。

真田昌幸(さなだ まさゆき)  1547~1611

幸隆の三男で戦国屈指の策謀家。

元武田信玄の近従で初め武藤喜兵衛を名乗っていたが、長篠合戦で二人の兄が相次いで戦死したため当主に。

関ヶ原の合戦では西軍につき、戦後高野山へ流され九度山善名称院(真田庵)で病没。

「表裏なき人」と言われながらも謀略の限りを尽くし、小大名真田家を戦国期の荒波から守った名将。

真田幸隆(さなだ ゆきたか)  1513~1574

真田家の祖で、父は信濃小県(ちいさがた)の豪族・海野棟綱。

謀略に非常に長けた智将で、初め海野小太郎を称した。

信玄に仕えてからは山本勘助とともに村上義清や長尾景虎らとの幾多の合戦で戦功を挙げて信玄を助けたと伝えられ、陰の軍師ともいわれた。

後に一徳斎を称した。

真田幸村(さなだ ゆきむら)  1567~1615  

昌幸の子で本名は信繁。

妻は大谷吉継の娘竹林院。

関ヶ原合戦の際は父昌幸とともに上田城に籠城、徳川秀忠の軍勢を足止めした。

後に昌幸とともに紀州九度山へ配流されるが、大坂の陣の際に豊臣秀頼に請われて入城。

元和元年の夏の陣では赤備えの軍団を率いて家康の本陣に迫り、島津家の士に「真田日本一…」と言わせたほどめざましい奮戦をするも、ついには衆寡敵せず力尽き安居天神境内にて戦死した。

その見事な兵の進退と鬼神のような武勇を敵からも讃えられ、遺品は髪の毛一本に至るまで奪い合いになったという。

佐野房綱(さの ふさつな)     ?

 ~1601

下野唐沢山城主豊綱の二男で昌綱の弟。

剣術の達人で無双の強将と恐れられ、天徳寺了伯と号す。

子のなかった甥の唐沢山城主宗綱が長尾昭長に討ち取られたとき、北条氏から跡継ぎをと考えた家中と対立し出奔、上洛して秀吉を頼り御咄衆となる。

小田原攻めの際に秀吉に従い唐沢山城を落とし、それにより同城三万九千石の主となった。

佐野昌綱(さの まさつな)   1530?

~1574

下野唐沢山城主で豊綱の子。

永禄二年に家督を嗣いで以来、紆余曲折はあったが古河公方足利義氏に従い、主に北条氏康に与して何度も上杉謙信と戦った。

後に謙信から遣わされた猶子虎房丸を受け入れ、色部勝長らが唐沢山城番として入城した。

猿渡信光(さるわたり のぶみつ) 1534~1587

島津氏家臣。

信資の子で通称掃部兵衛、越中守を称す。

はじめ薩摩加世田、のち同羽月地頭。

主に肥前龍造寺氏との戦いに従軍、島原方面で活躍した。

天正十三年には山田有信と筑後へ侵攻、堀切城・江浦城を攻略。

しかし同十五年、秀吉の九州征伐に遭い、根白坂の合戦において秀吉方の大軍に敗れ戦死した。

佐脇良之(さわき よしゆき)    ?

 ~1572

尾張海東郡荒子(あらしこ)城主・前田利昌の五男で利家の実弟。

信長家臣の佐脇藤右衛門の養子となり、信長の初期の直臣として活躍。

後に信長の勘気を被り追放され、家康の下で三方ヶ原の合戦に出陣したが討死した。

山本寺景長(さんぽんじ かげなが) ?

上杉謙信・景勝の家臣で越後西頸城郡不動山城主。

定長の弟で名は孝長とも。

謙信の直太刀の衆(一門衆)として活躍するが、御館の乱の際には景勝方に付き、景虎方に付いて敗れた兄に代わり家督を嗣いだ。

後に越中魚津城の守備に就くが、天正十年織田方柴田・佐々・前田勢らの猛攻を受け落城、他の守将らとともに自刃した。

山本寺定長(さんぽんじ さだなが) 生没年不詳

上杉謙信の家臣で越後西頸城郡不動山城主。

名は景定とも、また伊予守を称す。

謙信の直太刀の衆(一門衆)として活躍するが、御館の乱の際には景虎方に付いて敗れたため、家督は景勝方に付いた弟の景長が嗣いだ。

《武将編し:

椎名康胤~神保長職》

椎名康胤(しいな やすたね)    ?

 ~1576

越中新川郡守護代椎名氏の嫡流で松倉城を本拠とした土豪。

父は慶胤。

はじめ上杉謙信の傘下にあったが、武田信玄に応じて離反したため城を逐われた。

越中一向一揆と結び謙信に抗したが、天正元年長尾顕景を通じて帰参を申し入れる。

しかし謙信はこれを許さず攻め滅ぼされた。

四王天政孝(しおで まさたか)   ?

明智光秀の家臣。

元は丹波氷上郡柏原(かいばら)庄平井の土豪で通称又兵衛、但馬守を称す。

天正三年、光秀の丹波侵攻の際にその配下となり、以後忠実な臣下として活躍した。

波多野秀治の八上城攻略時に、一説に彼を捕らえたのは政孝とする。

本能寺の変の際には光秀に従い、森蘭丸を討ち取ったと伝えられる。

しかし続いて起こった山崎の戦いで敗れ、光秀に先立ち戦死した。

塩屋秋貞(しおや あきさだ)    ?

 ~1583

飛騨の土豪で吉城郡塩屋城主、筑前守を称す。

はじめ大野郡尾崎城(金鶏城)に拠ったが、永禄七年武田方飯富(山県)昌景に攻め落とされ吉城郡蛤城に後退、のち塩屋城を築いて移った。

上杉謙信に属して越中に進出するが、謙信没後には織田信長を頼った。

天正十一年、越中侵攻戦のさなかに討死。

志賀親次(しが ちかつぐ)   1566~ ?

母は大友宗麟の娘で、受洗名ドン・パウロ。

猛将島津義弘に一歩もひけをとらず、天正十四年の島津氏の豊後侵攻に際しては岡城に籠もって奮戦、義弘が「天正の楠木」と賞賛した大友家の勇将。

主家没落後には福島正則から小早川秀秋と渡り歩き、最終的には細川忠興に仕えた。

敷根頼賀(しきね よりいわ) 生没年不詳

島津氏家臣で中務少輔を称す。

もと大隅の有力国人敷根氏第十四代当主。

所領の大隅敷根は肝付氏と島津氏の境界にあり、弘治年間から島津氏に属して所領を守り、天正四年には義久からこれを賞された。

のち文禄四年には垂水田上領主、慶長十七年には大隅市成地頭となった。

宍戸隆家(ししど たかいえ)  1518~1592

元家の嫡子で安芸甲立五龍城主。

毛利元就・輝元の家臣で、妻は元就の娘だったことから一門衆と同格に扱われた。

主に尼子氏との合戦に活躍、吉田郡山城の戦いでは尼子詮久(晴久)を撃退するなど大功をあげ、元就の版図拡大に貢献した。

志道広良(しじ ひろよし)   1467~1557

元良の子で口羽通良の兄。

安芸毛利氏一族坂氏の出自で毛利家譜代の家老。

毛利元就の家督相続時

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