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6木村宣彰论文090103revised

佛教教育的機遇與挑戰

木村宣彰

日本大穀大學校長

1、序論——問題所在

當今時代,“人類”本身已成為世界性的問題。

對於人類自己來說,人類已成為疑問的符號並問題化。

在現代社會,人類自己已不能認清自己,即“人為何物”“人的價值是什麼”“人應如何生活為好”等,對於現代人來說,實難確定。

自己不明白自己,是現代社會人類問題的新現象。

現代社會的特色,無疑更重視“科學”的價值觀,而且正變為沒有宗教的社會。

人類的宗教教育已被社會所冷落,取而代之的是自然科學所代表的科學見解與思維方法。

雖然人類通過觀察與試驗等科學方法而增加了知識,但僅為片面的知識而已,難以保持知識的統一性和完整性。

一般知識雖確有增長,但另一方面,人類卻變得自己不明白自己。

這已成為當今世界人類問題的現狀。

2、佛教教育的機遇

科學觀的特質在於從“外”觀察事物。

即使關於人的價值,與其說作為“內”心問題加以捕捉,不如說追求人類“外”部的生活環境更加便利、高效、舒適,這就是科學技術。

而且,它是“合理”的。

有益於它的實現的人,就是“人材”。

日本諸多大學,與其說是將人作為人培養成優秀的“人物”,不如說是培養成對社會有益的“人材”。

這不是將人作為人來培養,而是作為實現目的的手段,是人之機械化、非人化的表現。

在現代社會的所有方面,喪失人性的現象日益顯著。

雖然這一點眾所周知,相反卻不將其視為問題,這就是最大的問題。

人類迷失自己,不能像人一般的生活,最終導致不明人為何物,這就是日本社會的現狀。

當真正的人明白自己被像機械一樣對待時,人也就失去了生活的感動與感激。

即使自己獲得比機械還要優秀的好評,人也決不能沾沾自喜。

這時,自己在知道自己為被非人而像機械一樣對待的自己與現在像機械一樣發揮作用的自己之間,必然產生自我分裂。

可以說最近日本社會發生在青少年身上的奇妙而悲慘的事件,就緣於這種自我分裂。

正是在這種時代背景下,培養人“心”的教育成為必然。

因此,這裏就出現了育“心”教育、即佛教教育的機遇與挑戰課題。

3、佛教教育的挑戰

曾留學中國並學習佛教的最澄(767-822)著《山家學生式》,指出根據佛教教育,應培養成為“國寶、國師、國用”級的人物。

同樣,遠渡中國學習真言密教、廣泛見聞當時中國學校情況的空海(774-835)著《綜藝種智院式》,創立了與國立學校不同的“綜藝種智院”。

在《綜藝種智院式》一書中,有“物之興廢必由人,人之升沉定在道”之論述。

講述了事物興與衰的原因在於與之相關的人。

其人之興衰,必然取決於佛道的實踐方面。

鑒於日本佛教教育的這種傳統,終於在江戶時代孕育出稱為“寺子屋”的教育機構。

其目的在於根據佛教精神,將人作為人來培育,追求徹底的佛教教育。

因此,在擁有這種歷史背景的日本,在初、中、高等教育方面存在眾多佛教界創辦的學校。

在高等教育方面,雖有70餘所佛教方面的大學,然今後應有何作為、其意義何在,正在受到眾人的廣泛關注。

日本佛教方面大學的佛教研究以文獻學為中心。

換言之,佛教的根本在於人類成長過程中的實踐方面,卻難說在這方面的教育與研究必會引起廣泛重視,因之被評為“佛教學盛而佛教衰”。

鑒此,必須重新審視佛教研究和佛教教育的存在方式與關係。

在佛教方面的大學裏,開發佛教知識和見識之“研究”與將其向社會開放的“教育”,必須像車之雙輪、鳥之雙翼那樣同時進行。

無論是研究佛教,還是進行佛教教育,不可或缺的就是宗教信念。

所謂宗教信念,就是覺悟到在有限的自己之內與無限絕對之間的關聯。

也就是對生活並感恩於永遠“生命”之中的自覺,或者說對自己置身於永遠之光、生活於佛《綜藝種智院式》絕對的“自信”。

所謂佛教教育的挑戰,只能自己轉換舊有的觀念和價值觀,即自助努力。

4、大穀大學的教育理念

在佛教不再成為我們人生觀和世界觀核心的今天,日本人喪失了生活的(精神)根據,並深感生活的空虛。

這是因為沒有徹底貫徹以前在日本實行的佛教教育,亦即當今佛教未向社會開放的佐證。

我們大谷大學致力於佛教面向世界的開放。

本校首任校長清澤滿之(1863-1903)在明確本校“建學精神”的《開校致辭》中說,“對於我們來說,最大事件是在確立自己信念的基礎上,將信仰傳於他人,即養成應儘自信教人信的人物”。

本校的教育與其他學校不同,以“養成應儘自信教人信的人物”為目標。

佛教的“信”中含有“自信”的意思。

那不是憑自己的智慧瞭解自己,而是依其“根本”覺悟到佛光普照以及自己生活的情況,切身感受到存在於自己之中的如來本願。

自己明白如來的本願,就是“遇如來”“遇本願”。

這就是自己覺悟到佛光普照的意義所在。

更準確地說,就是只有被動自覺、或者讓我們自覺了,才能自覺。

這種人類的自覺,絕非產生於現代文化主流的科學角度。

在自己之“外”以人為觀察物件的科學,是不會在自身之“內”覺悟到人類本源的。

人作為人而“生活”,只有在明白永遠生活於佛光普照之下才得以明確。

這就是佛教教育的重要課題。

5、結語——佛教教育與佛教未來

不單是佛教教育,所謂“教師”,就是通過教他,自己也獲得教育和提升。

通過教而受到教育的自己,更能進一步教授他人。

這種迴圈于“自信教人信”的人就是“教師”。

因此,與教育相關的人,應該確保擁有這種宗教性的人生觀、世界觀。

然而,許多的日本大學宣稱專業教育,因而只教授學生們特殊技能與知識。

這樣的教育,已經偏離了將人作為人並培養成優秀“人物”這一中心目標。

總之,當今教育的出發點是(培養的人)“有益乎?

無益乎?

”,或者“損乎?

得乎?

”,現代日本將其稱為“實(用)學”並予以高度重視。

而且,培養那些一步入社會能夠迅速發揮作用的速效型人材,即“人材教育”已經成為主流。

因此,與其說人是有個性的、內省型的,不如說更重視人對組織的重要性。

這種“人材教育”,由於沒有突出人的個性與本質,所以也就產生了人生目的及“生活”意義變得曖昧的人。

日本僧人親鸞(1173-1262)根據彌陀五劫思惟,言“為親鸞一人”。

親鸞這句名言,並不是親鸞一人獨享佛陀的本願、排斥他人的意思。

這充分表明了佛之大慈悲及如來本願,毫無保留而完全惠及親鸞。

這種切身感受就是所說的“親鸞一人”。

得到這種宗教真髓的人,才能教他、育他,這就是佛教教育的根本。

雖然將過去的佛教思想體系作為教理加以學習很重要,但是如果單純學習過去所信奉的思想,佛教與現代就會脫節。

在根據文獻解釋的基礎上學習過去信仰的佛教思想的同時,覺悟到現在真實的自己也非常重要。

因此,作為人間宗教的“佛教”與作為學問的“佛教學”結合起來,將過去的佛教思想運用於當今社會並加以展開。

有必要從根本上結合現在和過去,開展佛教教育。

只有這樣,才能保證佛教的未來。

(李賀敏譯)

仏教教育のチャンスとチャレンジについて

                           木村宣彰

大穀大學長

■はじめに ―問題の所在

現代という時代は、世界的に「人間」自體が問題となっている。

人間が、人間自身にとって疑問符となって問題化している。

現代の社會では、人間自身が自らを見定められなくなりつつある。

すなわち「人間とは何か」、「人間の分限とは何か」、「人間としてどう生きたらよいのか」ということが、現代人にとって甚だしく不確実になっている。

自分で自分自身が分からなくなってきたのが、現代社會における人間問題の新たな様相である。

現代社會の特色は、何よりも「科學的」な価値観が重視され、宗教不在の社會になりつつあることである。

宗教による人間教育が社會から欠落し、その欠けた部分に自然科學に代表される科學的な見方や考え方が入り込んでいる。

観察や実験などの科學的方法によって人間に関する知識は増大したが、それらは人間の部分に関する斷片的知識である。

その知識の統一性を保つことが困難になっている。

人間一般に関する知識は確かに増大したが、その反面、自分自身のことが分かなくなっている。

これが今日の世界における人間問題の現狀である。

■仏教教育のチャンス

科學的な立場は、物事を「外」から観察するところに特質がある。

人間の分限についても「內」なる心の問題として捉えることよりも、人間を取り巻く「外」の生活環境を便利に効率よく快適にすることを追求するのが科學技術である。

しかも、それが「合理的」なことであり、その実現に役立つ人間を「人材」として扱っている。

日本の多くの大學では、人間を人間として立派な「人物」として育てることよりも、社會の一機能として役立つ「人材」に育てることを目指している。

これは、人間を人間としでなく、目的を実現するための手段として扱っているのであり、人間の機械化、非人間化である。

現代社會のあらゆる面で、人間性を喪失し人間不在の相貌が次第に顕著になりつつある。

そのことは誰の目にも明かであるのに、逆にそのことが問題にならないところが最も重大な問題である。

このような日本社會の現狀は、人間が、人間自身を見失い、人間らしく生きることができず、ついには人間とは何かが分からなくなっている。

人間らしい人間ならば、自分が機械と同じように扱われていることが分かれば、人間として生きていることの感動や感激を失ってしまう。

自分が、機械よりも優れた働きをしていると評価されても、人間的な人間なら決して喜ぶことはできない。

自分が、人間でなく機械のように扱われていると知る自己と、現に機械のように機能している自己との間には必ず自己分裂が生じる。

最近の日本社會における青少年による奇妙で悲慘な事件は、このような自己分裂の情況から生じていると言ってもよい。

このような時代にこそ、人間の「心」を育てる教育が必要になる。

ここに、「心」を育てる教育、すなわち仏教教育のチャンスとチャレンジという課題が生まれる。

■仏教教育のチャレンジ

かつて中國に留學して仏教を學んだ最澄(767-822)は、『山家學生式』を著わして仏教教育によって「國寶・國師・國用」となるべき人物の養成を目指した。

また同じように中國に渡って真言密教の仏教を學び、當時の中國における學校事情を広く見聞した空海(774-835)は、『綜芸種智院式』を著わして國の學校とは異なる「綜芸種智院」を開校した。

その『綜芸種智院式』には、「物の興廃は必ず人に由る。

人の昇沈は定んで道に在り」と述べている。

物事が盛んに成ったり、滅んだりするのは、それに関わる人間に原因がある。

その人間が栄えたり、衰えたりするのは、必ず仏道の実踐に由るのであるというのである。

このような日本の仏教教育の伝統は、やがて江戸時代には「寺子屋」と呼ばれる教育機関を生み出した。

仏教精神によって人々を、人間として育み、仏教教育の徹底を図った。

このような歴史をもつ日本には、現在、初等・中等・高等教育において數多くの仏教系學校が存在する。

高等教育においても、70餘の仏教系大學が存在するが、そこで今、何を為すべきか、その意義が問われている。

日本の仏教系大學における仏教研究は文獻學が中心である。

換言すれば、仏教の本質である人間形成に関わる実踐面での教育・研究は必ずしも重視されているとは言い難い。

このことを「仏教學が栄えて仏教は衰える」と評される。

仏教の研究と仏教の教育との在り方や関係性が問い直されなくてはならない。

仏教系大學では、仏教の知識や知見を開発する「研究」と、それを世間に開放する「教育」とが、あたかも車の両輪、鳥の両翼の如くに行なわれなくてはならない。

仏教を研究するにしても、教育を行なうにしても、それに関わる人に宗教的信念を欠くことができないのである。

宗教的な信念とは、有限な自己の內に、無限の絶対的なものとの繋がりを自覚することである。

永遠の「いのち」に生き、それに生かされていることの自覚である。

あるいは、永遠の光に自己が貫かれ、それに照らされて生きていることの自覚である。

そのような自覚によって世界のあらゆる移り変わりを超え、有限な自己の人生に、超越的な根拠が與えられる。

そこことが自らの「內」に目覚めさせられるのが仏教の「信」である。

その「信」に由って自己の「內」に絶対の「自信」が生まれる。

仏教教育におけるチャレンジとは、規制の観念や価値観を自ら転換していこうとする自助努力にほかならない。

■大穀大學の教育理念

仏教が、我々の人生観や世界観の核心になり得なくなっている現在、日本人は生きる上での根拠を喪失し、そのために生活の全般にわたって何か空虛なものを感じながら生きている。

それはかつての日本で行なわれていたような仏教教育が徹底していないからであり、今もって仏教が世間に開放されていない証左でもある。

我々の大穀大學では、仏教の世界への開放を目指している。

本學の初代學長の清沢満之(1863-1903)は、本學の「建學の精神」を明確にした『開校の辭』において「我々において最大事件なる自己の信念の確立の上に、その信仰を他に伝える、即ち、自信教人信の誠を盡くすべき人物を養成する」と宣言している。

本學の教育は、他の學校とは異なり「自信教人信の誠を盡くすべき人物の養成」を目標とするものである。

仏教における「信」には「自信」という意味が含まれている。

それは自分の知性でもって自分のことを知るというようなことではなく、自分が生かされて生きていることを、その「根本」において自覚することである。

自分を生かしている如來のはたらきが実際に感得されることである。

自己が、如來のはたらきを知ることが「如來に出遇う」「本願に出會う」ということである。

それは、自分が、生かされているものとして自覚することである。

より正確にいえば、自覚せしめられて自覚するということである。

このような人間の自覚は、現代文化の主流である科學の立場からは決して生まれてこない。

自己の「外」に人間を対象的に観察する科學の立場では、自己自身の「內」に人間の本源を自覚することはできない。

人間が人間として「生きている」ことは、何処までも生かされて生きているということが知らされてはじめて明確になるのである。

ここに仏教教育の重要な課題がある。

■ むすびに ―仏教教育と仏教の未來

仏教教育に限らず「教師」というものは、他を教えるということに依って自分が教えられるのである。

教えることによって教えられた自分が、更に他を教える。

そのような「自信教人信」の循環に立つ者が「教師」である。

教育に関わる者には、このような宗教的な人間観、世界観が確保されていなくてはならない。

ところが、日本の多くの大學では専門的教育と稱し、特殊な技能や知識を教授することのみが行なわれている。

そのような教育からは、人間として立派な「人物」を育てるということが中心ではなくなる。

要するに、今日の教育は「役立つか、役立たないか」「損か、得か」という視點からのみ教育が行なわれている。

これを現代の日本では「実學」と稱して重視している。

また、社會に出て直ぐに役立つ即効的な人間を育てる「人材教育」が主流となっている。

人間が、個性的、內省的であることよりも、人間が組織にとって役立つことがより重視される。

このような「人材教育」においては、人間としての個性や本質がはっきりせず、人生の目的や「生きている」ことの意義が曖昧な人間が生まれてくる。

日本の仏教者である親鸞(1173-1262)は、彌陀の五劫の思惟をよくよく考えれば「親鸞一人がため」と語っている。

この親鸞の有名な言葉は、彌陀の本願を親鸞ひとりで獨佔するとか、他人を排除するという意味ではない。

親鸞自身の上に、仏の大慈悲がそのままに、如來の本願が余すところなく完全に及んでいるということの端的な表明である。

この実感が「親鸞一人」という言葉である。

このような宗教的な核心を得た人が、それを他者に教え、他者を育てていく。

ここに仏教教育の根本がある。

過去の仏教思想の體系を教理として學ぶことは大切であるが、ただ単に過去に信じられていた教えを學ぶだけならば、仏教が現代に生きた形で関與することがなくなる。

過去に信仰されていた仏教思想を文獻解釈に依って學ぶと共に、現在の実存の自己自身のうえに自覚することが大切である。

そのことによって、生きた宗教としての「仏教」と、その學問である「仏教學」とが一つに結びつき、過去の仏教思想が現在において生きて展開する。

現在と過去を根源的に結びつけるという次元で仏教教育を展開する必要がある。

このことによって仏教未來が保証されるのである。

 

TheOpportunitiesandChallengesforBuddhistEducation

ProfessorSenshōKimura

PresidentofOtaniUniversity,Japan

Introduction:

theLocationoftheProblem

Inthecontemporaryworld,humanbeingshavebecomeaproblemglobally.Humanshavebecomeproblematizedandhavebecomeaquestionmarkforthemselves.Incontemporarysociety,itisbecomingmoreandmoredifficultforhumanbeingstoascertainwhotheyare.“Whatisahumanbeing?

”"Whatistheproperrole(bungen分限)ofhumanbeings?

""Howshouldweliveashumanbeings?

"Theseissueshavebecomeextremelyuncertainforcontemporaryhumans.Thefactthatpeopleareunabletounderstandthemselves,isthenewaspectoftheproblemofhumanbeingsincontemporarysociety.

Thecharacteristicfeatureofthiscontemporarysocietyis,aboveall,thatitis"scientific."Itisincreasinglybecomingasocietyinwhichreligionisabsent.Humanisticeducationbasedonreligionhasbrokendownanddisappeared,anditsplacehasbeentakenbyscientificviewsandpatternsofthoughtasrepresentedbythenaturalsciences.Althoughknowledgeabouthumanbeingshaveincreasedthroughtheuseofscientificmethodssuchasobservationandexperiments,suchknowledgeareallfragmentarypiecesofinformationdealingwithdifferentaspectsofhumanbeings.Itisbecomingdifficulttogainedunifiedknowledgeofhumankind.Although,ontheonehand,knowledgeconcerninghumanbeingsingeneralhasincreased,ontheotherhanditisimpossibletounderstandone'sownselfanymore.Thisisthestateofpresentsociety.

TheOpportunitiesforBuddhistEducation

Acharacteristicfeatureofthescientificstandpointisthatitobservesthingsfromthe"outside."Insteadofunderstandingtheproblemofhumanbeingsfromthe“inside,”asamatterofthemind,scientifictechnologylooksatitfromthe“outside”andseekstomakethehumanenvironmentmoreconvenient,efficientandcomfortable.Thisisconsideredtherationalthingtodo.Moreover,humansaretreatedas“humanresources”forrealizingthis.

ManyJapaneseuniversitiesdefinethegoaloftheireducation,notasfosteringthe"character"oftheirstudents,butascreating"humanresources"thatareusefulforthefunctioningofsociety.Thisistreatinghumans,notashumanbeings,butastools.Thisisnoneotherthanthemechanizationanddehumanizationofhumanbeings.Itisbecomingincreasinglyevidentthatcontemporarysociety,inallofitsaspects,isexperiencingthelossofhumanity.Althoughthisshouldbecleartoeveryone,itdoesnotbecomeanissue.Andthefactthatitdoesnotbecomeanissueisthebiggestproblemofall.

Undersuchcircumstances,peopleofcontemporaryJapanhavelostsightofwhatitisthatmakesthemhuman.Theyareunabletoliveasgenuinehumanbeingsandhaveultimatelybecomeunabletounderstandwhatitmeanstobehuman.Oncetheyrealizethattheyarethesameasmachines,humans,inasmuchastheyaretrulyhuman,willloseallenthusiasm,andloseallsenseofmeaning,inlivingashumanbeings.Althoughtheymaybepraisedasperformingbetterthanamachine,h

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