日文原版现代日本的开化夏目漱石.docx

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日文原版现代日本的开化夏目漱石

――現代日本の開化

――明治四十四年八月和歌山において述――

夏目漱石

 

 はなはだお暑いことで、こう暑くては多人数お寄合いになって演説などお聴きになるのは定めしお苦しいだろうと思います。

ことに承(うけたまわ)れば昨日も何か演説会があったそうで、そう同じ催しが続いてはいくらあたらない保証のあるものでも多少は流行過(はやりすぎ)の気味で、お聴きになるのもよほど御困難だろうと御察し申します。

が演説をやる方の身になって見てもそう楽ではありません。

ことにただいま牧君の紹介で漱石君の演説は迂余曲折(うよきょくせつ)の妙があるとか何とかいう広告めいた賛辞をちょうだいした後に出て同君の吹聴通(ふいちょうどお)りをやろうとするとあたかも迂余曲折の妙を極めるための芸当を御覧に入れるために登壇したようなもので、いやしくもその妙を極めなければ降りることができないような気がして、いやが上にやりにくい羽目に陥(おちい)ってしまう訳であります。

実はここへ出て参る前ちょっと先番の牧君に相談をかけた事があるのです。

これは内々ですが思い切って打明けて御話ししてしまいます。

と云うほどの秘密でもありませんが、全くのところ今日の講演は長時間諸君に対して御話をする材料が不足のような気がしてならなかったから、牧さんにあなたの方は少しは伸ばせますかと聞いたのです。

すると牧君は自分の方は伸ばせば幾らでも伸びると気丈夫(きじょうぶ)な返事をしてくれたので、たちまち親船(おやぶね)に乗ったような心持になって、それじゃア少し伸ばしていただきたいと頼んでおきました。

その結果として冒頭だか序論だかに私の演説の短評を試みられたのはもともと私の注文から出た事ではなはだありがたいには違ないけれども、その代り厭(いや)にやり悪(にく)くなってしまった事もまた争われない事実です。

元来がそう云う情ない依頼をあえてするくらいですから曲折どころではない、真直(まっすぐ)に行き当ってピタリと終(しま)いになるべき演説であります。

なかなかもって抑揚頓挫(よくようとんざ)波瀾曲折(はらんきょくせつ)の妙を極めるだけの材料などは薬にしたくも持合せておりません。

とそう言ったところで何もただボンヤリ演壇に登った訳でもないので、ここへ出て来るだけの用意は多少準備して参ったには違ないのです。

もっとも私がこの和歌山へ参るようになったのは当初からの計画ではなかったのですが、私の方では近畿地方を所望したので社の方では和歌山をその中(うち)へ割り振ってくれたのです。

御蔭(おかげ)で私もまだ見ない土地や名所などを捜る便宜を得ましたのは好都合です。

そのついでに演説をする――のではない演説のついでに玉津島だの紀三井寺などを見た訳でありますからこれらの故跡や名勝に対しても空手(からて)では参れません。

御話をする題目はちゃんと東京表(とうきょうおもて)できめて参りました。

 その題目は「現代日本の開化」と云うので、現代と云う字は下へ持って来ても上へ持って来ても同じ事で、「現代日本の開化」でも「日本現代の開化」でも大して私の方では構いません。

「現代」と云う字があって「日本」と云う字があって「開化」と云う字があって、その間へ「の」の字が入っていると思えばそれだけの話です。

何の雑作(ぞうさ)もなくただ現今の日本の開化と云う、こういう簡単なものです。

その開化をどうするのだと聞かれれば、実は私の手際(てぎわ)ではどうもしようがないので、私はただ開化の説明をして後はあなた方の御高見に御任せするつもりであります。

では開化を説明して何になる?

 とこう御聞きになるかも知れないが、私は現代の日本の開化という事が諸君によく御分りになっているまいと思う。

御分りになっていなかろうと思うと云うと失礼ですけれども、どうもこれが一般の日本人によく呑(の)み込めていないように思う。

私だってそれほど分ってもいないのです。

けれどもまず諸君よりもそんな方面に余計頭を使う余裕のある境遇におりますから、こういう機会を利用して自分の思ったところだけをあなた方に聞いていただこうというのが主眼なのです。

どうせあなた方も私も日本人で、現代に生れたもので、過去の人間でも未来の人間でも何でもない上に現に開化の影響を受けているのだから、現代と日本と開化と云う三つの言葉は、どうしても諸君と私とに切っても切れない離すべからざる密接な関係があるのは分り切った事ですが、それにもかかわらず、御互に現代の日本の開化について無頓着(むとんじゃく)であったり、または余りハッキリした理会(りかい)をもっていなかったならば、万事に勝手が悪い訳だから、まあ互に研究もし、また分るだけは分らせておく方が都合が好かろうと思うのであります。

それについては少し学究めきますが、日本とか現代とかいう特別な形容詞に束縛されない一般の開化から出立してその性質を調べる必要があると考えます。

御互いに開化と云う言葉を使っておって、日に何遍も繰返(くりかえ)しているけれども、はたして開化とはどんなものだと煎(せん)じつめて聞き糺(ただ)されて見ると、今まで互に了解し得たとばかり考えていた言葉の意味が存外喰違っていたりあるいはもってのほかに漠然(ばくぜん)と曖昧(あいまい)であったりするのはよく有る事だから私はまず開化の定義からきめてかかりたいのです。

 もっとも定義を下すについてはよほど気をつけないととんでもない事になる。

これをむずかしく言いますと、定義を下せばその定義のために定義を下されたものがピタリと糊細工(のりざいく)のように硬張(こわば)ってしまう。

複雑な特性を簡単に纏(まと)める学者の手際(てぎわ)と脳力とには敬服しながらも一方においてその迂濶(うかつ)を惜まなければならないような事が彼らの下した定義を見るとよくあります。

その弊所をごく分りやすく一口に御話すれば生きたものを故(わざ)と四角四面の棺(かん)の中へ入れてことさらに融通が利(き)かないようにするからである。

もっとも幾何学などで中心から円周に到(いた)る距離がことごとく等しいものを円と云うというような定義はあれで差支(さしつかえ)ない、定義の便宜があって弊害のない結構なものですが、これは実世間に存在する円(まる)いものを説明すると云わんよりむしろ理想的に頭の中にある円というものをかく約束上とりきめたまでであるから古往今来変りっこないのでどこまでもこの定義一点張りで押して行かれるのです。

その他四角だろうが三角だろうが幾何的に存在している限りはそれぞれの定義でいったん纏(まと)めたらけっして動かす必要もないかも知れないが、不幸にして現実世の中にある円とか四角とか三角とかいうもので過去現在未来を通じて動かないものははなはだ少ない。

ことにそれ自身に活動力を具(そな)えて生存するものには変化消長がどこまでもつけ纏(まと)っている。

今日の四角は明日の三角にならないとも限らないし、明日の三角がまたいつ円く崩(くず)れ出さないとも云えない。

要するに幾何学のように定義があってその定義から物を拵(こしら)え出したのでなくって、物があってその物を説明するために定義を作るとなると勢いその物の変化を見越してその意味を含ましたものでなければいわゆる杓子定規(しゃくしじょうぎ)とかでいっこう気の利(き)かない定義になってしまいます。

ちょうど汽車がゴーッと馳(か)けて来る、その運動の一瞬間すなわち運動の性質の最も現われ悪(にく)い刹那(せつな)の光景を写真にとって、これが汽車だこれが汽車だと云ってあたかも汽車のすべてを一枚の裏(うち)に写し得たごとく吹聴(ふいちょう)すると一般である。

なるほどどこから見ても汽車に違ありますまい。

けれども汽車に見逃してはならない運動というものがこの写真のうちには出ていないのだから実際の汽車とはとうてい比較のできないくらい懸絶していると云わなければなりますまい。

御存じの琥珀(こはく)と云うものがありましょう。

琥珀の中に時々蠅(はえ)が入ったのがある。

透(す)かして見ると蠅に違ありませんが、要するに動きのとれない蠅であります。

蠅でないとは言えぬでしょうが活きた蠅とは云えますまい。

学者の下す定義にはこの写真の汽車や琥珀の中の蠅に似て鮮(あざや)かに見えるが死んでいると評しなければならないものがある。

それで注意を要するというのであります。

つまり変化をするものを捉(とら)えて変化を許さぬかのごとくピタリと定義を下す。

巡査と云うものは白い服を着てサーベルを下げているものだなどとてんからきめられた日には巡査もやりきれないでしょう。

家(うち)へ帰って浴衣(ゆかた)も着換える訳に行かなくなる。

この暑いのに剣ばかり下げていなければすまないのは可哀想だ。

騎兵とは馬に乗るものである。

これも御尤(ごもっとも)には違ないが、いくら騎兵だって年が年中馬に乗りつづけに乗っている訳にも行かないじゃありませんか。

少しは下りたいでさア。

こう例を挙(あ)げれば際限がないから好加減(いいかげん)に切り上げます。

実は開化の定義を下す御約束をしてしゃべっていたところがいつの間(ま)にか開化はそっち退(の)けになってむずかしい定義論に迷い込んではなはだ恐縮です。

がこのくらい注意をした上でさて開化とは何者だと纏(まと)めてみたら幾分か学者の陥りやすい弊害を避け得られるしまたその便宜をも受ける事ができるだろうと思うのです。

 でいよいよ開化に出戻りを致しますが、開化と云うものも、汽車とか蠅とか巡査とか騎兵とか云うようなもののごとくに動いている。

それで開化の一瞬間をとってカメラにピタリと入れて、そうしてこれが開化だと提(さ)げて歩く訳には行きません。

私は昨日和歌の浦を見物しましたが、あすこを見た人のうちで和歌の浦は大変浪(なみ)の荒い所だと云う人がある。

かと思うと非常に静かな所だと云う人もある。

どっちがよいのか分らない。

だんだん聞いて見ると、一方は浪の非常に荒い時に行き、一方は非常に静かな時に行った違から話がこう表裏して来たのである。

固(もと)より見た通なんだから両方とも嘘(うそ)ではない。

がまた両方とも本当でもない。

これに似寄りの定義は、あっても役に立たぬことはない。

が、役に立つと同時に害をなす事も明かなんだから、開化の定義と云うものも、なるべくはそう云う不都合を含んでいないように致したいのが私の希望であります。

が、そうするとボンヤリして来る。

恨(うら)むらくはボンヤリして来る。

けれどもボンヤリしてもほかのものと区別ができればそれでよいでしょう。

さっき牧君の紹介があったように夏目君の講演はその文章のごとく時とすると門口から玄関へ行くまでにうんざりする事があるそうで誠に御気の毒の話だが、なるほどやってみるとその通り、これでようやく玄関まで着きましたから思いきって本当の定義に移りましょう。

 開化は人間活力の発現の経路である。

と私はこう云いたい。

私ばかりじゃない、あなた方だってそういうでしょう。

もっともそう云ったところで別に書物に書いてある訳でも何でもない、私がそう言いたいまでの事であるがその代り珍らしくも何ともない。

がこれすこぶる漠然(ばくぜん)としている。

前口上を長々述べ立てた後でこのくらいの定義を御吹聴(ごふいちょう)に及んだだけではあまり人を馬鹿にしているようですが、まあそこから定めてかからないと曖昧(あいまい)になるから、実はやむをえないのです。

それで人間の活力と云うものが今申す通り時の流を沿うて発現しつつ開化を形造って行くうちに私は根本的に性質の異った二種類の活動を認めたい、否確かに認めるのであります。

 その二通りのうち一つは積極的のもので、一つは消極的のものである。

何か月並のような講釈をしてすみませんが、人間活力の発現上積極的と云う言葉を用いますと、勢力の消耗を意味する事になる。

またもう一つの方はこれとは反対に勢力の消耗をできるだけ防ごうとする活動なり工夫(くふう)なりだから前のに対して消極的と申したのであります。

この二つの互いに喰違って反(そり)の合わないような活動が入り乱れたりコンガラカッたりして開化と云うものが出来上るのであります。

これでもまだ抽象的でよくお分りにならないかも知れませんが、もう少し進めば私の意味は自(おのずか)ら明暸(めいりょう)になるだろうと信じます。

元来人間の命とか生(せい)とか称するものは解釈次第でいろいろな意味にもなりまたむずかしくもなりますが要するに前(ぜん)申したごとく活力の示現とか進行とか持続とか評するよりほかに致し方のない者である以上、この活力が外界の刺戟(しげき)に対してどう反応するかという点を細かに観察すればそれで吾人人類の生活状態もほぼ了解ができるような訳で、その生活状態の多人数の集合して過去から今日に及んだものがいわゆる開化にほかならないのは今さら申上げるまでもありますまい。

さて吾々(われわれ)の活力が外界の刺戟(しげき)に反応する方法は刺戟の複雑である以上固(もと)より多趣多様千差万別に違ないが、要するに刺戟の来るたびに吾が活力をなるべく制限節約してできるだけ使うまいとする工夫と、また自ら進んで適意の刺戟を求め能(あと)うだけの活力を這裏(しゃり)に消耗して快を取る手段との二つに帰着してしまうよう私は考えているのであります。

で前のを便宜(べんぎ)のため活力節約の行動と名づけ後者をかりに活力消耗の趣向とでも名づけておきましょうが、この活力節約の行動はどんな場合に起るかと云えば現代の吾々が普通用いる義務という言葉を冠して形容すべき性質の刺戟(しげき)に対して起るのであります。

従来の徳育法及び現今とても教育上では好んで義務を果す敢為邁往(かんいまいおう)の気象(きしょう)を奨励するようですがこれは道徳上の話で道徳上しかなくてはならぬもしくはしかする方が社会の幸福だと云うまでで、人間活力の示現を観察してその組織の経緯一つを司(つかさ)どる大事実から云えばどうしても今私が申し上げたように解釈するよりほか仕方がないのであります。

吾々もお互に義務は尽さなければならんものと始終思い、また義務を尽した後は大変心持が好いのであるが、深くその裏面に立ち入って内省して見ると、願(ねがわ)くはこの義務の束縛を免(まぬ)かれて早く自由になりたい、人から強(し)いられてやむをえずする仕事はできるだけ分量を圧搾(あっさく)して手軽に済ましたいという根性が常に胸の中(うち)につけまとっている。

その根性が取(とり)も直(なお)さず活力節約の工夫(くふう)となって開化なるものの一大原動力を構成するのであります。

 かく消極的に活力を節約しようとする奮闘に対して一方ではまた積極的に活力を任意随所に消耗しようという精神がまた開化の一半を組み立てている。

その発現の方法もまた世が進めば進むほど複雑になるのは当然であるが、これをごく約(つづ)めてどんな方面に現われるかと説明すればまず普通の言葉で道楽という名のつく刺戟(しげき)に対し起るものだとしてしまえば一番早分りであります。

道楽と云えば誰も知っている。

釣魚(つり)をするとか玉を突くとか、碁(ご)を打つとか、または鉄砲を担(かつ)いで猟に行くとか、いろいろのものがありましょう。

これらは説明するがものはないことごとく自から進んで強(し)いられざるに自分の活力を消耗して嬉(うれ)しがる方であります。

なお進んではこの精神が文学にもなり科学にもなりまたは哲学にもなるので、ちょっと見るとはなはだむずかしげなものも皆道楽の発現に過ぎないのであります。

 この二様の精神すなわち義務の刺戟に対する反応としての消極的な活力節約とまた道楽の刺戟に対する反応としての積極的な活力消耗とが互に並び進んで、コンガラカッて変化して行って、この複雑極(きわま)りなき開化と云うものができるのだと私は考えています。

その結果は現に吾々が生息している社会の実況を目撃すればすぐ分ります。

活力節約の方から云えばできるだけ労働を少なくしてなるべくわずかな時間に多くの働きをしようしようと工夫する。

その工夫が積(つも)り積って汽車汽船はもちろん電信電話自動車大変なものになりますが、元を糺(ただ)せば面倒を避けたい横着心の発達した便法に過ぎないでしょう。

この和歌山市から和歌の浦までちょっと使いに行って来いと言われた時に、出来得るなら誰しも御免蒙(ごめんこうむ)りたい。

がどうしても行かなければならないとすればなるべく楽に行きたい、そうして早く帰りたい。

できるだけ身体(からだ)は使いたくない。

そこで人力車もできなければならない訳になります。

その上に贅沢(ぜいたく)を云えば自転車にするでしょう。

なおわがままを云い募(つの)ればこれが電車にも変化し自動車または飛行器にも化けなければならなくなるのは自然の数であります。

これに反して電車や電話の設備があるにしても是非今日は向うまで歩いて行きたいという道楽心の増長する日も年に二度や三度は起らないとも限りません。

好んで身体を使って疲労を求める。

吾々が毎日やる散歩という贅沢も要するにこの活力消耗の部類に属する積極的な命の取扱方の一部分なのであります。

がこの道楽気の増長した時に幸に行って来いという命令が下ればちょうど好いが、まあたいていはそう旨(うま)くは行かない。

云いつかった時は多く歩きたくない時である。

だから歩かないで用を足す工夫(くふう)をしなければならない。

となると勢い訪問が郵便になり、郵便が電報になり、その電報がまた電話になる理窟(りくつ)です。

つまるところは人間生存上の必要上何か仕事をしなければならないのを、なろう事ならしないで用を足してそうして満足に生きていたいというわがままな了簡(りょうけん)、と申しましょうかまたはそうそう身を粉(こ)にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするない冗談(じょうだん)じゃねえという発憤の結果が怪物のように辣腕(らつわん)な器械力と豹変(ひょうへん)したのだと見れば差支(さしつかえ)ないでしょう。

 この怪物の力で距離が縮(ちぢ)まる、時間が縮まる、手数が省(はぶ)ける、すべて義務的の労力が最少低額に切りつめられた上にまた切りつめられてどこまで押して行くか分らないうちに、彼の反対の活力消耗と名づけておいた道楽根性(こんじょう)の方もまた自由わがままのできる限りを尽して、これまた瞬時の絶間なく天然自然と発達しつつとめどもなく前進するのである。

この道楽根性の発展も道徳家に言わせると怪(け)しからんとか言いましょう。

がそれは徳義上の問題で事実上の問題にはなりません。

事実の大局から云えば活力を吾好むところに消費するというこの工夫精神は二六時中休みっこなく働いて、休みっこなく発展しています。

元々社会があればこそ義務的の行動を余儀なくされる人間も放り出しておけばどこまでも自我本位に立脚するのは当然だから自分の好(す)いた刺戟(しげき)に精神なり身体なりを消費しようとするのは致し方もない仕儀である。

もっとも好いた刺戟に反応して自由に活力を消耗すると云ったって何も悪い事をするとは限らない。

道楽だって女を相手にするばかりが道楽じゃない。

好きな真似(まね)をするとは開化の許す限りのあらゆる方面に亘(わた)っての話であります。

自分が画がかきたいと思えばできるだけ画ばかりかこうとする。

本が読みたければ差支ない以上本ばかり読もうとする。

あるいは学問が好(すき)だと云って、親の心も知らないで、書斎へ入って青くなっている子息(むすこ)がある。

傍(はた)から見れば何の事か分らない。

親父が無理算段の学資を工面(くめん)して卒業の上は月給でも取らせて早く隠居でもしたいと思っているのに、子供の方では活計(くらし)の方なんかまるで無頓着(むとんじゃく)で、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて机に靠(もた)れて苦(にが)り切っているのもある。

親は生計のための修業と考えているのに子供は道楽のための学問とのみ合点(がてん)している。

こういうような訳で道楽の活力はいかなる道徳学者も杜絶(とぜつ)する訳にいかない。

現にその発現は世の中にどんな形になって、どんなに現れているかと云うことは、この競争劇甚(げきじん)の世に道楽なんどとてんでその存在の権利を承認しないほど家業に励精(れいせい)な人でも少し注意されれば肯定しない訳に行かなくなるでしょう。

私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様(ごんげんさま)だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレヴェーターが宿の裏から小高い石山の巓(いただき)へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。

実は私も動物園の熊のようにあの鉄の格子(こうし)の檻(おり)の中に入って山の上へ上げられた一人であります。

があれは生活上別段必要のある場所にある訳でもなければまたそれほど大切な器械でもない、まあ物数奇(ものずき)である。

ただ上ったり下ったりするだけである。

疑もなく道楽心の発現で、好奇心兼広告欲も手伝っているかも知れないが、まあ活計向(くらしむき)とは関係の少ないものです。

これは一例ですが開化が進むにつれてこういう贅沢(ぜいたく)なものの数が殖(ふ)えてくるのは誰でも認識しない訳に行かないでしょう。

のみならずこの贅沢が日に増し細かくなる。

大きなものの中に輪が幾つもできて漏斗(じょうご)みたようにだんだん深くなる。

と同時に今まで気のつかなかった方面へだんだん発展して範囲が年々広くなる。

 要するにただいま申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわちできるだけ労力を節約したいと云う願望から出て来る種々の発明とか器械力とか云う方面と、できるだけ気儘(きまま)に勢力を費したいと云う娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜(さくそう)して現今のように混乱した開化と云う不可思議な現象ができるのであります。

 そこでそう云うものを開化とすると、ここに一種妙なパラドックスとでも云いましょうか、ちょっと聞くとおかしいが、実は誰しも認めなければならない現象が起ります。

元来なぜ人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を発現しつつ今日に及んだかと云えば生れながらそう云う傾向をもっていると答えるよりほかに仕方がない。

これを逆に申せば吾人の今日あるは全くこの本来の傾向あるがためにほかならんのであります。

なお進んで云うと元(もと)のままで懐手(ふところで)をしていては生存上どうしてもやり切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく発展を遂げたと言わなければならないのです。

してみれば古来何千年の労力と歳月を挙(あ)げてようやくの事現代の位置まで進んで来たのであるからして、いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。

けれども実際はどうか?

 打明けて申せば御互の生活ははなはだ苦しい。

昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだと云う自覚が御互にある。

否開化が進めば進むほど競争がますます劇(はげ)しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。

なるほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化は贏(か)ち得たに相違ない。

しかしこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔げられたという訳ではありません。

ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至っては同じことであるごとく、昔の人間と今の人間がどのくらい幸福の程度において違っているかと云えば――あるいは不幸の程度において違っているかと云えば――活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至ってはけっして昔より楽になっていない。

否昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。

昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。

それだけの努力をあえてしなければ死んでしまう。

やむをえないからやる。

のみならず道楽の念はとにかく道楽の途(みち)はまだ開け

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