最新岛津氏与关原合战岛津义弘的参战情况与德川的岛津处分文库.docx

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岛津氏与关原合战——岛津义弘的参战情况与德川的岛津处分文库

『译稿』岛津氏与关原合战——岛津义弘的参战情况与德川的岛津处分

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本帖被後藤茶檎执行提前操作(2010-08-14)作者:

鹿儿岛大学 四本健光

原文发表于《鹿児島大学教育学部研究紀要-人文?

社会科学編》第十八期。

 

序言

在关原合战中作为反德川战力发挥了有力作用的岛津氏战后与毛利等氏相比较,受到了德川氏的宽大处置。

领国未减,家臣也未处罚一人。

在此之间究竟有哪些情况呢?

关于这一疑问,笔者将就着之前的研究根据史料加以检讨。

 

Ⅰ 史料

1 德川家文书研究  中村孝也著

本书系德川家康文书之集大成者,其中岛津宛文书自其参考史料《后编萨藩旧记杂录》以下二十三则史料中之关系文书编纂而成。

其数量达一百零五通之多,可谓详尽。

(德文)

2 史料综览  史料编纂所编

据典之数更凌驾于前者。

前者引用的黑田文书之外六则史料也有收录,所据史料综述达百余,以年表记事共记录三十五项。

与1中文书也不抵触,两者并用颇为便利。

(史综)

3 岛津世禄记  (世禄)

4 岛津国史  (国史)

5 后编萨藩旧记杂录  (萨杂)

6 德川实纪(东照宫御实纪,东照宫御实纪附录)  (德实)

7 藩翰谱  (藩谱)

8 宽政重修诸家谱  (宽谱)

9 岛津史料集(惟新公关原御合战记,庄内阵记)  北川铁三校注(合战)  (庄阵)

10 家康史料集(庆长记)  小野信二校注  (庆长)

11 岛津义弘公记

12 鹿儿岛外史  (鹿外)

13 历代御制度  (历御)

14 义弘公关原始终记  (始终)

15 西藩野史  (西史)

16 鹿儿岛县史  (县史)

17 江户时代史  栗田元次著  (江史)

18 大日本古文书(岛津文书之三)  (岛文)

注:

(1)末尾括号系引用时之省略。

  

(2)引用史料(德文)有收录者据(德文),唯其不收录者据(萨杂、国史、岛文)等。

 

Ⅱ 庄内事件(幸侃事件)

所谓庄内事件,系庆长四年伊集院忠栋(幸侃)遭岛津忠恒暗杀以致其子忠真据守庄内之地向岛津氏发起叛乱,于庆长七年为忠恒所杀之事件。

因本稿目的不在于此,关于事件内容之说明便省略了,然而岛津氏步向关原合战的序曲却正是以这一事件为舞台奏响的。

一般认为,岛津氏在贵久时代从守护大名向战国大名推移,然而丰臣秀吉却给战国大名岛津带来了危机。

即秀吉的岛津征伐,那是贵久之子义久之时的事情。

天正十五年义久降伏于秀吉军门之下,萨摩、大隅、日向之领国获得安堵,然而依文禄检地义弘之所领却不过十万石(1、2)。

战国大名既以领国的一元统治为其一大特点,这种情况自然会招致岛津支配权的不稳,此事大坂之阵丰臣方催促出兵之时于义弘言辞之中也曾出现(3)。

虽以文禄庆长役之勋功返还了出水与石田、细川分五万石(4、5),但伊集院忠栋的八万石却还留着(6)。

如新井白石所言,虽说岛津所以能领国安堵全靠忠栋的功绩(7),但身为家老的忠栋竟然获得秀吉直接发放的朱印状,而且虽说可能有些夸张,但忠栋目无主上的行为大概也确实成了忠恒不得不啥的原因了吧(8)。

幸侃诛杀自然引起了其子忠真的叛乱,岛津为了平叛烦恼不已。

秀吉死于庆长三年八月,幸侃事件的庆长四年三月阶段,正是三成与家康的对立激增,开始策划讨伐家康的时期。

从而,两者可以说都开始谋划将岛津拉入自己一方。

三成告知岛津幸侃怀有二心而迎合其意,结果反倒使家康得以施恩于岛津。

忠真反叛即庄内之变一起,家康就派遣了援兵助其平叛,岛津这才勉强得以将忠真安置于颖娃一万石。

以上简述了幸侃事件之经纬。

鹿儿岛外史所言“依秀吉之命云云”虽不可信,但不可否认凭御朱印得领知的伊集院幸侃的存在确实有着某些可茲利用的可能。

不论如何,岛津大体算是稳定了其支配。

同时德川通过一面施恩一面拨给伊集院忠真一万石堪忍分使得岛津氏至少不能站到反德川势力一边去,其安置可谓成功。

注释:

(1)文祿四年六月廿九日朱記書賜松齢公(義弘)五十五万九千五百三十三石又於其中十万石係貫明公(義久)養地八万三千石八斗四升係伊集院忠棟邑一万石係島津以久邑二十六万六千五百三十三石係給人領三千石係寺社領而公所食実十万石(国史)

(2)合(薩摩国,大隅国,日向国諸県郡)五拾七万八千七百三十三石

   内今度以検地之上壱万石御蔵入六千弐百石

   石田治部少輔三千石幽斉氏分相除之

   五十五万九千五百三拾三石(譜翌)令扶助訧全可有領地者也

    文禄四稔六月廿九日  太閤御朱印

   羽柴薩摩守どのへ  (世祿)

(3)薩隅日三州之地亦削日州之大半僅賜諸県一郡且削薩摩之地出水高城二郡為公領削隅州之地始羅郡之内加治木為公領又削同国肝付郡以朱賜我家臣伊集院右衛門太夫式以六千弐百石賜石田治部少輔以三千石賜細川幽斉是以進退齷齪遺恨豈不啻睚眦之際哉雖然以時不利暫属秀吉公旗下而巳(略)(世祿)

(4)於今度朝鮮国泗川表大明朝鮮人催猛勢相働候之処父子被及一戦則切崩敵三万八千七百余被切捕之段忠功無比類候依之為御褒美薩州之内御蔵入給人分有次第一円ニ被宛行訖(略)

  慶長四年正月九日  輝元 景勝 秀家 利家 家康 (徳文)

 羽柴薩摩少将殿

(5)御知行方目録

一、四百六拾五斛壱斗五升五合(薩摩国出水領内上こしき村)

  (略)

 都合壱万九千七百弐拾八石六斗九升五合

一、壱万石 出水領内羽柴対馬守当知行分

一、壱万石 大隅薩摩内御蔵入

一、六千三百石 薩摩国石田治部少輔之分

一、三千石 薩摩国幽斉之分

 惣五万石

 右於今度朝鮮国云々(同4)(世祿)

(6)伊集院右衛門入道知行之分

一、八千八百参拾九斛四升七合    日向諸県之領之内宮古城村

一、四千百九斛壱斗七升六合     同 三ケ相

一、三千百弐斛六合         同 梶山相

一、弐千弐百出九斛七斗六升九合   同 山田相

一、壱万三百廿五斛八斗五升     同 五ケ村

一、六千八百出斛七斗壱升九合    同 安 長

一、千五百六拾六斛弐斗四升六合   同 のの美屋

一、九千七百廿五石弐斗八升九合   同 高 城

一、壱万弐千参百七拾五石弐斗壱升  大隅之內末吉

一、弐千四百三斛八斗壱升三合    同 恒 財

一、四千三百卅七斛壱斗壱升九合   同 財 部

一、千四百七拾三斛四斗七升九合   同 めぐり

一、千弐百九角斗弐斗七升七合    同 市 成

一、千七百五拾六斛五斗壱升八合   同 もひき

一、八拾石             同 平房内

一、弐千三百甘石七斗九升七合    同 内之浦

一、七千弐百六拾四斛壱斗壱升    同 大 崎

 合八万三斛八斗四升

 (文祿四年六月廿九日 大閤朱印)

(7)ここに島津が家人伊集院右衛門大夫入道幸侃といひしは,天正十九年主の島津が既に亡ぶべかりしに,この幸侃関白の御陣に参て,欺き申せしに因て義久兄弟が罪ゆるされ,本領を安堵す。

されば関白にも彼が忠を感じ給ひ,大隅の内一郡の地を分ち賜ふ。

かかる奉公の者なれど,如何なる故にかありけん,慶長四年三月九日陸奥守忠恒伏見の館にして,これを誅す。

幸侃が郎等既に軍せんとひしめく。

徳川殿忠恒が許に御使あって御加勢賜はるべきよしを仰せ下さる。

恣に討って都のさわざ仕出しければ忠恒其咎を悼りて高雄の麓に蟄居す。

徳川殿豊臣家の奉行等に仰せらるる旨あって忠恒その咎を免かる。

徳川殿頓て数十騎の兵して忠恒を伏見の家に迎へ入れ給ひ,忠恒本国に還る事を得たり。

幸侃が子源二郎父が討れしを聞て,日向国庄内の城に立篭り,要害あまた構て島津と戦ふ。

(藩譜)

(8)殿下の覚他に異にして御帰落の御供し島津家々老の高席にして,倍々威厳強大にして栄頃地をかへたり。

毎に御前に眤近し国主大名に等く,国家の政事大小となく幸侃が指揮に出すと云ことなし。

門前には汗馬の市をなし,堂上には賓客群集す。

殊に五奉行石田治部少輔三成に睦をとりて,(略)

斯て忠棟入道幸侃は伏見に屋敷を横へ,造営結構に出来,君主の居宅も及び難く,さながら国主大君の会釈にて,驕奪日頃に十倍せり。

今迄は太閤の御前を憚りて,幸侃が逆意を察し乍ら兎角もたし玉ひけるが,今は太閤も薨去ある上は,何をか憚り何をか期す可き(略)

其頃奉行中石田治部少輔三成元来太閤取立の大名なる老中職たりしが,内大臣家康公天下の政務を預り奪んことを察しければ,兼て快からず何卒して内府を亡し若君を御世に為知たてまつらんと内謀を巡らす最中なれば,偏に御家を頼み奉らんと恩ければ,忠棟入道が陰謀のこと,忠恒公へ一々密に御注進申上られける。

爰に於て惟新公忠恒公急度仰合され,今は事延々にしては謀の漏ることも計り難し。

幸三成註進に就き速に誅罪有る可し。

(略)(庄陣)

(9)内府様江参候事又私宅へ入御之事少モ偽なく条々有やうニ令口能候,曽別なる儀ヲ不申入不承候(略)

  慶長四年正月三日  竜伯

 又八郎殿 兵庫頭殿    (島文)

(10)敬白起請文前書之事

一、被対秀頼様御疎略有間敷之由尤候事

一、対御父子御両三人疎略毛頭有之間敷候付抜手表裡有之間敷事

一、佞人之族在之而御間相さまたくる輩雖有之直談申互相晴可申事

 梵天云々(略)

 (慶長四年卯月二日 家康より義弘·忠恒宛)

(11)御下以後不申入候間以使者申候 仍伊集院源次郎于今城を相抱申由承候 為御譜代家人之身加様之儀為自今以後候間早々御成敗尤候 雖然無聊爾人数等無異儀様被仰付肝要候委細者彼使(山口直友)者口上ニ申候

 (慶長四年七月九日 家康より忠恒宛)

(12)御下以来不中人候問以書状申候 偽伊集院源二郎居城相抱在之由承候問嶋津父子為見廻使者差下候 竜伯父子被仰次第自身御立候御馳走尤候(略)

 (慶長四年七月九日 家康より伊東豊後·相良左兵衛宛) (徳文)

(13)先書申入候伊集院源次郎于今不致下城之由不届儀共候,依之寺沢志摩守方指下申候。

為自今以後候間寺沢志摩被相談自身有御出陣被誅果尤候(略)

 (慶長四年八月廿日 家康より島津忠豊宛)

 同文同日付者,財部之秋月,飫肥之伊東,人吉之相良,延岡之高橋宛 (徳文)

(14)起請文前書之事

伊集院源次郎到寺沢志摩守殿当家江者堪忍仕間敷候由以墨付申候儀雖遺恨深重候内府様御嗳候条差捨候然者源二郎罷出候て奉公上者以来之儀無異儀可召仕候(略)

 (慶長五年二月廿九 忠恒·竜伯より山口勘兵衛宛) (島文)

(15)其表之様子被仰越具承候伊集院儀可被討果被相極処重而山口就指下少将殿被及御異見赦免之上勘忍分壱万石被宛行之由尤候(略)

 (慶長五年三月廿日 家康より竜伯宛) (徳文)

(16)慶長五年三月十日

是ヨリ先大隅帖佐ノ島津惟新ノ兄同竜伯及ビ子同忠恒徳川家康ノ調議ヲ容レ伊集院忠真ノ罪ヲ赦シ一万石ノ地ヲ給ス又是日忠貢降り諸城ヲ致ス。

 (史綜)

(17)伊集院忠棟受大封称直覲格御目見衆秀吉寵遇無有出其右(略)亦受秀吉密命竊鴆今世子而謀己子忠真以義弘聟立之奪宗室,石田三成首与之。

然至秀吉薨後謀滅家康石田迺変心白陰事於忠恒而厚其親 於是忠棟不軌悉発覚,三月世子忠恒召忠棟於下邸茶室親起斫之。

 (鹿外)

(18)寺沢,高橋,秋月諸将の救兵是又内府公の姦滑なり。

 (庄陣)

 

Ⅲ 义弘的参战情况

庄内事件于庆长五年三月告终,五月义弘于大坂城会见家康以答谢其调停之劳,此时的家康行将出征陆奥会津。

承蒙家康恩顾的岛津氏为何参加了反德川一派呢?

关于这一点鹿儿岛县史写到“义弘受家康之托留守伏见城,却为伏见城留守役乌居所拒,无可奈何之下加入了石田方”。

义弘公记、乡土史大系等也多持此论。

其根据大略系世禄记、岛津国史、关原合战记等(19,20,21,22)。

伏见城留守一事,从庆长五年卯月廿七日惟新书信与同年五月二十日家康书信及庆长记、宽政重修诸家谱等中也可窥见一二(23,24,25,26,27)。

然而德川实纪、藩翰谱并未提及此事,是否家康未借寒暄之名暗喻牵制之意向惟新嘱托伏见城留守之事呢?

出发之时未置一词、伏见城留守之乌居等不准入城一步等事无不令人做如此推想。

七月十五日,义弘决心加入石田方(28),战后义弘致信黑田长政,澄明其是受到石田方以对秀赖之誓纸为借口痛斥之下无可奈何才加入石田方的,宽政重修诸家谱也强调了这一点(29,30)。

然而,义弘真正的想法,只怕还是料到以手下两百多兵力即便加入家康一方出任伏见城的留守番也无法与石田方对抗,这才参加石田一方的吧(31,32)?

伏见城一事,不仅庆长记、庆长六年舟越景直书状加以否认,也成为了将下述处分问题引向有利一面的原因之一。

(26,33)

注释:

(19)島津義弘は家康に請ばれて伏見城に留守を依頼されたが,世情騒然たると共に急速国元へ向けて手兵の不足を告げて後続を依頼した。

然るに鳥居元忠等本丸に在って義弘が薩摩より来った新納旅庵を遺したるも納れしめなかった。

 (県史)

(20)如是故欲守伏見之城就其留後鳥居彦右衛門尉内蔵藤弥次右衛門尉再三請之不得其許諾不得己而遂与石田合焉。

 (世緑)

(21)(慶長五年七月十七日)

先是神祖従容謂公曰景勝不庭会当東征請以伏見城為託至是公遣使詣鳥居元忠求共守城元忠弗許会新納旅庵自薩摩復遣旅庵閉門不納乃欲固畳自守而兵未集麾下止有二百余人恐為大兵所禽而長盛正家等書適至責以送住事居之義於是公不得己而応之。

 (国史)

(22)西国の大名小名壱人として従はざるはなし。

義弘にも其催促ありといへども同年七月二日より同十七日にいたり固辞すること数辺,且又家康公堅命あるによって伏見の城に入警衛せん事を請ふこと再三に及ぶ。

然りといへども城主鳥居彦右衛門尉元忠内藤弥次右衛門尉家長敢てゆるさず。

此時に家臣新納旅庵薩州よりはせ来る。

是に於て旅庵を伏見の城に遺し元忠,家長と共に城を守らんと達す。

然れども両将又聞入れず。

三成等重て曰今度の事全く私の遺恨にあらず,秀頼のために企る所なり。

兼曰上進の誓紙の旨趣且秀吉公の厚恩忘却なくば義兵に与し忠戦をなすべしと理を尽していふ。

 (合戦)

(23)今朝内府様へ罷出庄内一著之御礼申上候別而御気色能入来院又六善哉坊被召出御前ニ而御食被下侯(略)就夫伏見之御城可致御留守番之由御面を以拙者へ被仰付候 当座言上候ハ何も御意之段承候 於様子者御問之使迄可申上由申候而御前を罷立候 然者爰元御知人中へも尋申侯 各被仰候ハ何之道ニても公儀候条御下知次第仕候而可然候ハん由被仰事ニ候 伏ミの御留守ニ相定候ハゞ人数等丈夫ニ不召置候者御家之御為も不可然儀共候 其上天下之取沙汰も如何ニ候ハん哉と存候条御人数の儀急皮着候様ニ可被仰付候 伏見御城請取申候者諸口多々有之儀候条人数等過分ニ入可申候 よくよく被成御談合兵粮以下相調急速可被仰付候 庄内在陣わき諸将侍もめいわくニ被存候 雖然爰元百石ニ三人役ニ被仰奥州へ出張之由申候 当方之儀者御留守番候条百石ニ壱人役ニ被仰付候者可相調歟と存候(略)(慶長五年卯月廿七 惟新より竜伯宛) (徳文)

(24)其元緩々与仕置等仰付左右次第御上洛尤候(略)

 (慶長五年五月廿日 家康より忠恒宛) (徳文)

(25)六月内府発大坂留家鳥居元忠等而守伏水城。

始家康言以伏水城托義弘然至発更無其言諸侯多帥師随行内府東下義弘亦送至山科家康温言謝之且憑以鳥居等守伏水眷顧而指揮之義弘諾帰伏水 (鹿外)

(26)兵庫の頭に御預ケ候はんと沙汰候つるが御預なく若狭少将殿へ御預ケ候 (慶長)

(27)これよりさき東照宮惟新におほせありけるは上杉景勝所領会津にこもりて上洛せず,よりて伊奈図書昭綱をかの地に下され実否を糺さる。

もし景勝不軌を謀るの事実事たるにをいては,われ会津に発向し彼を討つべし。

しかるときは伏見の城は惟新に預けらるべしとなり。

惟新謹て諾したてまつるのところ,のちふたたびその命なし。

 (寛譜)

(28)今度内府貴国江出張ニ付輝元秀家を始大坂御老衆小西大形少治部少被仰談秀頼様御為ニ候条貴老御手前同意可然候由承候間拙者も其通ニ委曲石治より可申上候

 (慶長五年七月十五 惟新より景勝宛) (薩雑)

(29)抑今度御弓箭御企之儀拙者式へ不被仰聞候間曽不存申候 就中内府様制厚恩之儀是又雖無忘却奉対秀東様永々可抽忠貞之旨□社上巻誓紙候て上置候 其旨無相違者今度応御下知一致心得之旨御奉行衆より以御墨付条々被仰付候間君臣之道難背ニ付候て不及力御人数一分ニ罷出候

 (慶長五年十一月四日 惟新より黒田長政宛)

(30)ここにおいてやむことをえずして催促に応ず。

姪島津中務大輔豊久これをきき,いま東西の形勢をみるに干戈まじはるにいたらば,かならず関東の勝利ならん。

詮なきことに与し,累代の家をほろぼされんこと歎はしきにあらずや,しかのみならず年ごろ関東の御恩遇他に異なるを,今にはかに讐をもってむくひまいらすべきにあらず。

すみやかに御味方に属せらるべしと諫む。

惟新こたへ,われもまた其思慮なきにあらず,しかれども誓詞は信をもって要とす。

たとひ今ちかひを背き,関東の御味方となるとも,島津家の誓詞は信じかたしとて,たのもしからずおぼしめされん,しかるときは永く家の暇瑾たるべし。

芳志の厚きは忘れたてまつるにあらず。

よりて兵を国にめさず僅にありあふ人数を率ひ,ただ敵陣に駈いりて討死を急ぐところなり。

 (寛譜)

(31)依之惟新公諸臣ヲ会テ議ス。

皆曰方ニ日州ニ事アリテ薩隅ノ軍悉ク忠恒公二従フ,ユエニ君ノ軍数百ニ満タス,伏見ニハ入ル事ヲ得ス,独立ハ成難シ,進退実ニ究ル,三成カ言モ又理アリ,是ニ属シテ不義トスヘカラス,惟新公止ム事ヲ得スシテ三成ニ属ス (西史)

(32)朝鮮国におひて軍矛の労を致し七ケ年を経て帰朝し直に上方に至り勲労をなす。

臣等漸くに国に返し,且又家臣伊集院源次郎忠真日州庄内に拠て逆意を起す。

故に従ふ所の諸士其地に趣くもの多く,今や旗下の士卒僅弐百余人に過す。

少寡の兵を以てしかと三成り求めに応せさる時は忽ち死亡に至ん事必定なり。

只壱人の死亡而己にあらす忠恒夫人義弘の夫人及び領国諸士の妻子等に至るまて質と成りて皆大坂にあり。

渠等悉く死をのかれさらんと思ふに所なし故に義弘已む事を得す終に三成り催促に応す (合戦:

始終)

(33)一、関原表合戦之刻御覚悟之様子扨々無比類被作様与内府様始而其外諸人感申候事不成大形候 殊御下々迄無越度被召連被成御退候事前代未聞御手柄と各御取沙汰是而己候事

   一、御身上如跡々無御別儀趣候間早々相済候様ニ御談合尤存候 治少色立之刻貴老伏見城へ御籠可被成との首尾立庵具御物語之通即内府様へ中上候 更以貴老逆意と不思召儀候(略)

 (慶長六年正月晦日 舟五郎右より惟新宛)

 

Ⅳ 岛津氏处分

最终决定对岛津氏的处分是庆长七年四月的事(34),此时距合战终了已过了一年半了。

岛津忠恒于庆长七年十二月上洛向家康谢罪,然而值得注意的是,尽管其一直磨磨蹭蹭到决定发布为止,岛津却并未受到什么损失。

关于这一点,栗田元次氏提出相比毛利被家康玩弄于股掌之中,岛津凭借武备恭顺之策可谓获得了绝大之成功(35)。

庆长五年九月二十八日,以文书与井伊直政、寺泽正成、山口直友(36,37),揭开了岛津糺明的序幕。

寺泽、山口两人悉庄内事件之事家康派往萨摩支援者,九月十五日关原战败后岛津家臣本田亲贞父子与新纳旅庵三人为山口所捕,遣为促岛津谢罪使归国,这一层的关系也是有的(38)。

首先开始听取的,是义弘的反逆是否有义久、忠恒同谋一事的情况。

对此,十月忠恒、龙伯致辩解信与寺泽,义弘也投书本田亲贞,澄明这是义弘的个人行为,且最初也并未参与石田等人的阴谋,等等(39,40)。

尔后又托黑田长政、近卫信尹、本田正胜、福岛正则等为之说项。

一方,家康命毛利辉元讨伐岛津,对宮崎的伊东、人吉的相良、财部的秋月等在庄内事件中曾受命支援岛津氏的方方面面也下达了讨伐的命令,而岛津则在国内向关原从军的家臣派发恩赏并进宫宮崎的伊东(41,42)。

家康的岛津征伐虽然在庆长六年二月划上了休止符,但将岛津同八月颁布的法度(43)与庆长九年法度相比较就可以发现,“出陣之時云々”条与“諸侍めしつかふ云々”条在九年版中是没有的,变成了“諸侍衣服”条,因而可以判定这是临战体制下的法度。

正如栗田氏所指出的,岛津作出一副武备恭顺的姿态这一点是显而易见的。

井伊、山口、寺泽频频要求龙伯上洛,而龙伯一边嘴上宣称上洛一边却以生病或其他理由拒不落实(44,45,46,47,48)。

这恐怕是因为得知了庆长五年十月毛利氏收到藤堂高虎、井伊直政等连署的起请文领国大半遭没收一事的关系吧。

收到家康的安堵状之后龙伯似仍然表示反对(49),忠恒还是在惟新的劝说下才踏上上洛之途的。

途中为了断庄内事件的祸根又在日向野尻诛杀伊集院忠真,灭其一族,庆长七年十二月二十八日会见家康谢罪,岛津处分这才降下了帷幕(50)。

回顾此间交涉,为了防止重蹈毛利辉元的覆辙,岛津氏直到庆长六年年中都是一边整顿和战两样的体制一边进行和平工策,在其申辩之中还一直强调家康与岛津共同向秀赖呈递誓纸与伏见城留守等事。

庆长八年家康出任征夷大将军,在其为否定丰臣政权哪怕一天也必须今早建立德川政权的庆长七年的时间点上,避免不必要的纷争也正是家康所愿吧。

能够确认岛津确无判意就没有必要在远隔之地发动战争了,这是第一点理由。

第二,毛利的濑户内海乃是自本愿寺之乱以来就发挥着无比威势的水军的根据地,同时还是令堺这样的商业港口都市繁荣起来的海上商业交通要冲。

近世以来,经济条件成为了政权不可欠缺的条件之一,此时将濑户内海委任于毛利必然会成为对德川政权的不稳定因素。

然而对岛津就不存在与此对应的条件。

笔者认为,以上两点正是德川未对岛津氏领国出手的原因。

注释:

(34)両度使者祝著候 然者薩摩,大隅,諸県之儀此間被相抱候分相違有間敷候 少将事其跡被相讓事候間不可有別儀候 兵庫頭殿儀者竜伯ニ無等閑候間異儀有間敷候 日本国大小神祇別而八幡大菩薩毛頭不可有表裏者也

 (慶長七年卯月十一 家康より竜伯宛) (徳文)

(35)毛利氏の大失敗に反して最善後策に成功したのは島津氏であった。

島津氏は義弘が逃れて帰って以後,一面家康に対しては恭順の意を表し,周旋に努めると共に,国内では武備を厳にして敵の来攻に備へ,国中焦土となるまで死守する覚悟を極めた。

このため家康も或は毛利氏,或は立花氏等に島津征伐の先鉾を命じたこともあるが,容易に手をつける事ができず,先づ島津義久を上洛せしめんとして,本多正信,山口直友から義久,義弘,忠恒の身の上及び領国の安堵を保証した起請文を送り,更に家康自ら同様な起請文を与えたけれども,義久は病と称して従はなかった。

当時義久は最強硬で,義弘は寧妥協に傾いていたが,忠恒は義弘の勧により慶長七年十月初めて上坂し十二月伏見城に家康に謁した。

この満二年余の武備恭順策は恰も小牧陣後に於ける家康の秀吉に対する態度に髣髴たるものであるが,家康がこれによって従来の勢力を保持し得たと同様,島津氏もこのため薩隅日に亘る本領の安堵を得たのである。

 (江史)

(36)態申入候 仍今度惟新御逆意之段無是非次第候 竜伯御父子御同意候也 又各別之御存分候也 様子具御報ニ可預示候 以其趣内府へ可申上候

 (慶長五年九月廿八 寺沢志摩守正成·山口勘兵衛直友より 義久忠恒宛) (徳文)

(37)急度啓達候 今度天下之仕合無是非次第候 兵庫頭殿御下之事候間被仰談其御国之儀御理被仰早々御出仕御尤候 内府前之儀自最前御手次之事候間随分御馳走可申候 御用之儀御座候ハ者御書付可被下候 委細山口助兵衛可申達候条不具候

 (慶長五年十月十日 井伊直政より忠恒宛) (徳文)

(38)内府様被成御存此人九州江被下候条無異儀可有御通候 為其如此候

 (慶長五年十月十日 本田归国之際,山口直友路次御改之衆中宛通行手形) (徳文)

(39)今度御弓箭之成立惟新罷下巨細致承知候惟新事最前御談合之御企曽不被仰聞由候 殊内府御厚

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