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20语203
2009年全国硕士研究生入学考试日语试题
一基礎知識
にゅうがくしき入学式をお終えた( 1 )のいちねんせい一年生らしいこども子供がははおや母親につ連れられてある歩いているすがた姿をみ見たとたん途端、「ああ、かわいそうに」とわたし私ははん反しゃ射てき的におも思った。
きょう今日からこのこ子もべんきょう勉強という、あのいや嫌でいや嫌でたまらないものをなら習い、おぼ覚えさせられるのかというおも思いである。
わたし私はじぶん自分がしょうがくいちねんせい小学一年生になったひ日から、それまでゆめ夢のなか中のしふく至福だったせいかつ生活から、とつぜんほう突然放りだ出され、いじめっこ子やこわ怖いせんせい先生のいるしゅうだんせいかつ集団生活にい入れられたとお遠いとお遠いむかし昔のことを( 2 )おも思いだ出したのである。
だから、ほんらい本来ならば「おめでとう」といわねばならぬのが「ああ、かわいそうに」とかん感じて( 3 )のだろう。
もちろん、わたし私のかん感じかた方はせいとう正当ではないしこじんてき個人的すぎるにちがいない。
しかし、わたし私にはしょうじき正直いってちかごろ近頃のこ子どもがあわ哀れでしかた仕方がない。
それはあさ朝からばん晩まで教育、きょういく教育というお母さんたち( 4 )ひ引きずりまわ回されているからだ。
しょうがっこういぜん小学校以前にもゆうめいこう有名校ににゅうこう入校するためのじゅく塾があってようじ幼児たちはそこにかよ通わされているそうだ。
しょうがっこう小学校にはい入ればはい入ったで、がっこう学校のあともべんきょうじゅく勉強塾にい行かされる。
わたし私はこういうことを( 5 )「きょういく教育」とはおも思っていない。
こども子供のきょういく教育とはこれとはまったくいしつ異質だとかんが考えている。
わたし私はにんげん人間がしあわ幸せなのはしょうがっこうじだい小学校時代までだ、とおも思う。
みな皆さんもむかし昔のことをおも思いだ出していただきたい。
とくしゅ特殊なじじょう事情のなったかた方はべつ別として、ふつう普通われわれがじぶん自分のじんせい人生を( 6 )、「しあわ幸せだったなぁァ」とおも思えるのはようねんじだい幼年時代やしょうねんじだい少年時代までではなかったろうか。
それはおや親のあい愛につつ包まれ、まいにちなん毎日何の心配もなくす過ごせたじき時期だからである。
このじき時期をす過ぎるとわれわれはたしょう多少はおとな大人になり、おとな大人になったが( 7 )いろいろ色々とくろう苦労もしなければならない。
そうかんが考えると、そのみじか短いようねんじだい幼年時代やしょうねんじだい少年時代をじゅけんべんきょう受験勉強させるために、「あそ遊ぶ」こともできず、じゅくがよ塾通いにふ振りまわ回されるまいにち毎日をこども子供にさせていいのか。
それ( 8 )ほんとう本当ににんげん人間の「きょういく教育」というものなのか、わたし私はしんけん真剣におや親たちがかんが考える( 9 )だとおも思う。
このずけい図形がさんかく三角か、しかく四角か、せいさんかっけい正三角形のへん辺がみなおな皆同じなが長さだなどということは1010さい歳になってし知ればよ良いことであって、5さい歳、6さい歳がおぼ覚えねばならぬことではないはずだ。
5さい歳、6さい歳がおぼ覚えねばならぬことは、いぬ犬やねこ猫がどんなにかわい可愛いか、しらゆきひめ白雪姫がどんなにかわいそうか、ゆうや夕焼けのいろ色がどれほどうつく美しいかなどである。
そしてあそ遊びのたの楽しさがこども子供たちのじんせい人生のおも思いで出につながるようなまいにち毎日なのである。
わたし私はいま今のすべてのじゅけんきょういく受験教育はすなお素直にの伸びるべきにんげん人間をぼんさい盆栽をした仕立てるようにむり無理にねじま曲げるものだとおも思うきも気持ちがこころ心の( 10 )ある。
もちろん、わたし私のこのぶんしょう文章を( 11 )はんたい反対されるふけい父兄(ふけい)はおお多いだろう。
「そんなことすればこ子どもがしゃかい社会にで出てけっきょく結局、ふこう不幸になる」というのがそのかた方たちのごいけん意見にちが違いない。
わたし私にもそれぐらいはよくわかる。
しかし、ふこう不幸とかこうふく幸福とかはなん何のしゃくど尺度(しゃくど)ではか計ってき決めるのだろうか。
おや親のこうふくかん幸福感や、じんせいかん人生観がそのままかれ彼らのしていきょういく子弟教育にはんえい反映するとすれば、「社会的出世」など
( 12 )こうふく幸福とはかんけい関係ないことをしゅちょう主張できるおや親がにほん日本にもいてよいのではないか。
二A読解
「一」
せいようしょこく西洋諸国のがほう画法のきほん基本は、しゃしん写真(まこと真をうつ写す)というものであって、にほん日本のがほう画法とはおお大いにこと異なる。
そのためわふう和風・ちゅうごくふう中国風の画をか描くひと人たちはこのせいようがほう西洋画法をたいへんきかい大変奇怪なものとかんが考えて、そこからまな学びと取るべきものがあるなどとはおも思いもせず、どうあつか扱ったらよいかわからぬままに、これはが画というものではない、さいく細工をこ凝らしてつく作りあ上げたものだなどというしゃ者まであるしまつだ。
ばかげたことである。
もともとざいく細工とはせいみょう精妙なこまかなぎほう技法のことをい言う。
わふう和風のが画でもちゅうごくふう中国風のが画でもほそが細画はみなよう要するにほそが細画なのであって、ひと人のもうはつ毛髪やひげなどをいっぽんいっぽんか一本一本描きわ分けているものもある。
せいよう西洋のがほう画法でもうはつ毛髪をか描くときはいっぴつ一筆でか描くのだが、それをみ見ればちゃんとほそ細いけ毛にみ見える。
せいようがほう西洋画法では、わかん和漢のがほう画法でい言うようなひっせい筆勢とかひつい筆意とかにはこだわらないのである。
ふで筆とはもともとが画をせいさく製作するためのどうぐ道具にほかならない。
それなのに、たとえばうし牛をか描いてもそれがうし牛であることがしめ示されずに、ただひつい筆意のみがで出ているというのでは、いちてんた一点垂らしたすみ墨もうし牛だとい言うことになってしまう。
それはちょうどいしゃ医者がびょうき病気をなおすのにくすり薬をつか使うのにに似ている。
くすり薬はつまりえのぐ絵具であり、いしゃ医者はふで筆であり、びょうき病気はが画にあたる。
いしゃ医者(ふで筆)がりょうやく良薬(えのぐ絵具)をもち用いてびょうき病気をなお治そうとするのに、そのびょうき病気(が画)がそもそもどこから、なぜはっせい発生したのかをし知りもしないで、ただいしゃ医者のこころがま心構え(ひつい筆意)ばかりをきょうちょう強調しているようなものである。
が画についてもりくつ理屈はおな同じなのだ。
せいようが西洋画はひつい筆意というようなことより、ただしぜん自然のしんそう真相をとら捉えることのみがんもく眼目(じゅうてん重点)とするのである。
それにくら比べればわかん和漢のかいが絵画はたん単なるなぐさ慰みもの者にすぎず、もののよう用にた立たない。
そのうえ、せいようが西洋画のがほう画法では、のうたん濃淡によって、たいしょう対象たるぶつ物のめいあん明暗や、おうとつ凹凸や、えんきん遠近や、しんせん深浅のど度をあらわして、そのしゃ者のしん真のすがた姿をせいかく正確にさいげん再現する。
そのことによってもじ文字とおな同じようにじょうほう情報・ちしき知識のでんたつ伝達にやくだ役立つのだが、とく特にぶつ物のけいじょう形状などはもじ文字でいくらと説いてもわからず、けっきょくが結局画によらないかぎ限りつた伝えることはできない。
( あア )、せいよう西洋のしょせき書籍にはがず画図によってものをせつめい説明しているものがおお多いのである。
せいようが西洋画は、だからけっしてわかん和漢のが画のように、しゅせき酒席のよきょう余興にいっぴつうで一筆腕をふるってあそ遊ぶ、といったきがる気軽なゆうぎ遊戯などではありえない。
しん真にじっさい実際のよう用にやくた役立つぎじゅつ技術であり、またせいきょう政教のどうぐ道具でもあるのだ。
「二」
かりにのうしかんじゃ脳死患者のぞうき臓器が、それがなければし死をまぬが免れないなんにん何人かのかんじゃ患者のせいめい生命をすく救うとかんが考えよう。
とするならば、ほんひと本人のいし意思のいかんにかかわらず、ぞうきいしょく臓器移植が許されるのであろか。
それがゆる許されるとするかんが考えかた方は、けんりがいねん権利概念からはぜったい絶対にで出てこ来ない。
( あア )、ひと一つのせいめい生命よりふた二つのせいめい生命、ふた二つのせいめい生命よりみ三つのせいめい生命のかた方が、りょうてき量的にまさ勝ることはいうまでもない。
しかし、そのことはひとひと一人のせいめい生命より、さんひと三人のせいめい生命のほうがとうと尊いということをいみ意味しない。
なぜならひと一つひと一つのせいめい生命はじんかく人格のそんげん尊厳のきばん基盤だからであり、じんかく人格はひかく比較をこば拒むところにそのほんしつ本質があるからである。
にんげん人間からじんかく人格をはいじょ排除するときにのみ、にんげんどうし人間同士のひかく比較やた足しざん算、ひ引きざん算がかのう可能になるのである。
じんかく人格がひかく比較をこば拒むのは、それぞれのじんかく人格がかけがえのないそんざい存在だからである。
かけがえのないそんざい存在であるからこそそのせいめい生命はぎりぎりのところまでそんちょう尊重されねばならないのである。
そのことはのうしじょうたい脳死状態のにんげん人間でもまった全くおな同じである。
かりにかす微かなかのうせい可能性があるならば、そのわずかなかのうせい可能性にかけるのが、じんけん人権のたちば立場なのである。
それでは、ぞうき臓器のふぜん不全でし死をまぢか間近にしたかんじゃ患者のたちば立場は、どうかんが考えたらいいのであろうか。
もちろん、かれ彼あるいはかのじょ彼女らのいのち命のおも重さに、さ差がないことはいうまでもない。
( いイ )、ぞうきていきょう臓器提供をう受けるかんじゃ患者は、ぞうきいしょく臓器移植をけんり権利としてしゅちょう主張できるわけではない。
それはあくまでのうししゃ脳死者のじんけん人権をさいだいげんはいりょ最大限配慮したご後に、はじめてかのう可能となるてテーまマなのである。
りょうしゃ両者のたちば立場のちが違いをあいまいにしておくことは、ぞうき臓器のみならず、ひとからだぜんたい人体全体のしょうひんか商品化へみち道をひら開くことになるてん点で、ひじょう非常にきけん危険とい言わねばならない。
にんげん人間のいのち命のかけがえのなさが、まさにぞうきいしょく臓器移植のようないりょうげんば医療現場でするどくもんだい問題となっている。
いっぱん一般にい言って、けんりかんかく権利感覚はこうりつほんい効率本位のかんが考えかた方とはあいい相容れないものである。
こうりつ効率をだいじ大事にするもの者は、そんざい存在するものはさいだいげん最大限にりよう利用したいとかんが考えるであろうし、しょうらいせい将来性のあまりないそんざい存在に、ひよう費用をそそ注ぎこ込もうとはしないであろう。
かぎ限られたしげん資源をさいだいげんゆうこう最大限有効にりよう利用するのが、こうりつほんい効率本位のかんが考えかた方であり、またそれがさいだい最大のりえき利益をほしょう保障するわけである。
しかし、けんり権利をたいせつ大切にかんが考えるもの者は、たとえむだ無駄であってもかけがえのないそんざい存在をさいご最後までまも守ろうとするであろう。
わたしじしんじゅうすうねんまえ私自身十数年前にはは母をがん癌でなくしたけいけん経験があるが、そのとき時にのうしじょうたい脳死状態のはは母にこうがく高額のちりょうひ治療費がかかったことがあった。
それでもぬく温もりのあるはは母のしんたい身体がびょうしょう病床にあるかぎ限り、とうきょう東京にびょういん病院になんど何度となくあし足をはこ運びかんびょう看病をしたことがあった。
だいさんしゃ第三者からみれば、むだ無駄なしゅっぴ出費とみ見えるかもしれないが、それがとうじ当時のわたし私にとってさいだい最大のしごと仕事であり、い生きがいでもあった。
けんりかんかく権利感覚はさいしゅうてき最終的には、かけがえのないこべつ個別としてのにんげん人間、それがどれほどこうりつ効率がわる悪く、て手のかかるそんざい存在であろうとも、そのようなそんざい存在にたい対するふか深いおも思いにね根ざすものなのである。
「三」
らじおラジオもてれびテレビも、さまざま様々なじょうほう情報をほとんどやす休みなくはっしん発信し、しかも、それをひとびと人々はきゅうそく休息するかてい家庭のなか中にまでとど届けてくれます。
にゅニュースについてい言えば、いわゆるそくほうせい速報性をとくちょう特徴としていて、じけん事件がお起こるとどうじ同時にそのしんこう進行とへいこう並行して、こっこく刻々にじょうきょう状況をし知らせてくれます。
また、そのふた二つのめでぃあメディアにはへんざいせい遍在性とでもいうべきせいしつ性質があって、じょうほう情報はばしょ場所とじかん時間をえら選ばず、ひとびと人々のもとにむ向こうからやってきます。
これによって、にじゅうせいき二十世紀のにんげん人間はじんるいしじょうはじ人類史上初めて、おびただ夥しいじけん事件のけいか経過そのものに、た絶えま間なく、どこでもいつ何時でもた立ちあ会わされることになりました。
さらにらじおラジオとてれびテレビのけっていてき決定的なとくしつ特質は、それがかつてのいんさつ印刷めでぃあメディアとはちが違って、もじ文字によることば言葉のでんたつりょく伝達力にたよ頼らないということです。
かつじ活字によるじょうほう情報は、ひとびと人々のきょういくていど教育程度によってじゅよう受容がけっていてき決定的にさべつ差別され、けっか結果としてめでぃあメディアのかいそうぶんか階層分化をつく作りだ出していました。
もじ文字をし知らないひと人がはいじょ排除されるのはもちろんのこと、ぶんぽう文法やぶんたい文体についてきょうよう教養のさ差があれば、それはう受けと取るじょうほう情報のりょう量としつ質にもさ差がでく出来ることをいみ意味していました。
それにたい対して、かた語りことば言葉とおんきょう音響とえいぞう映像にたよ頼るでんぱ電波めでぃあメディアは、じょうほう情報のむかいそうか無階層化をかくめいてき革命的にすす進めました。
(ちゅうりゃく中略)
しかし、じょうほう情報のほんしつ本質からみ見てよりけっていてき決定的であったことは、それによってじょうほう情報のも持つたいけいてき体系的なせいかく性格、いわばいちぼう一望できるこうぞう構造がいちじる著しくつ突きくず崩されたということでしょう。
しょもつ書物のばあい場合であれしんぶん新聞やざっし雑誌のばあい場合であれ、もじじょうほう文字情報は、たと例えばめつぎ目次のく組みた立て、しょう章とせつ節のくぶん区分、みだ見出しのたしょう多少などによって、そのこうぞう構造をめ目にみ見えるたい体けい系としてしめ示すことができます。
う受けて手はじょうほう情報のぜんたい全体をくうかんてき空間的にてんぼう展望し、そのなか中にあるろんりてき論理的なちつじょ秩序、かちてき価値的なかいそうかんけい階層関係をいちもく一目でよ読みと取ることができるのです。
( あア )、こっこく刻々につた伝えられてはなが流れさ去るでんぱじょうほう電波情報は、そのときどき時々のぶぶん部分のいんしょう印象のつよ強さにくら比べて、ないよう内容のぜんたいぞう全体像をつた伝えるちから力はよわ弱くなります。
い言いか換えれば、じけん事件がも持っているじかんてき時間的なぜんたいぞう全体像、さらにいえばれきしてき歴史的なけいか経過のこうぞう構造が、もじじょうほう文字情報のばあい場合にくら比べてはひじょう非常によわ弱くなります。
らじおラジオをき聞きてれびテレビをみ見ているにんげん人間にとっては、はんつきまえ半月前のだいじしん大地震よりも、きょうお今日起こったちい小さなかじ火事のほうがきょうれつ強烈なしげき刺激をあた与えます。
このことはにゅニューすスじょうほう情報にかぎ限らず、どらまドラマやしょショーのような、ほんらい本来はこうぞうてき構造的なせいかく性格のこ濃いふぃくしょんフィクションのばあい場合にもあ当てはまります。
げきじょう劇場のどらまドラマにくら比べててれびテレビやらじおラジオのそれはこっこく刻々のしゅこう趣向がおもしろ面白く、そのか代わり、ぜんたい全体のしゅびけっこう首尾結構がよわ弱いのがふつう普通です。
いちぺん一篇のさくひん作品のなか中ではつね常にみ見せば場(おもしろ面白いばめん場面)をつく作り、れんぞく連続ドラマのまいかい毎回ごとにやまば山場(くらいまっくすクライマックス)をもう設けるのがほうそう放送どらまドラマのとくしょく特色だとい言えるでしょう。
「四」
しんじんるい新人類なるめいしょう名称がある。
もっとも、しんじんるい新人類などというじんるい人類のがくもんてき学問的なきてい規定はどこをさが捜してもはっけん発見できない。
じっさい実際、このめいしょう名称は、さだ定まった「ていぎ定義」がそんざい存在しない。
また、なにごと何事もそうであるが、とくてい特定のせだい世代をとらえてひと一つのしゃくど尺度ではか測るのは、おお大いにきけん危険をともな伴うものである。
しんじんるい新人類とい言われているせだい世代には、あるいみ意味ではわたし私たちがたいけん体験してきたきょうれつ強烈なじだいてき時代的ないんぱくとインパクトはそんざい存在していないのである。
しんじんるい新人類のせだい世代にはじゅけんせんそう受験戦争があるというかもしれぬが、そんなものはむかし昔からつうか通過せざるをえ得ないがくせいじだい学生時代のたいけん体験であって、かくべつ格別、いま今のわかもの若者にきび厳しいわけではあるまい。
つまり、きょうれつ強烈なせだいたいけん世代体験のないせだい世代をむかし昔のきょうれつせだい強烈世代ぱたパターんンで、いっしょ一緒くたにする(しょうじしゃこん为いち谈将二者混为一谈)にはいささかのぎもん疑問をも持たずにいられない。
いっぽう一方、じだい時代をきょうゆう共有するほどのきょうれつ強烈なじだい時代のいんぱくとインパクトをも持ちあ合わせない(とも共にも持っていない)ことは、こじんてき個人的なじんせいかん人生観のせんたくし選択肢のおお多さを、いみ意味することになるのではないだろうか。
だいたい大体、わか若いじき時期はみじゅく未熟なため、とう当のほんにん本人が、じぶん自分をじゅうぶん十分にりかい理解しているかどうかおお大いにぎもん疑問だ。
じぶん自分をあるていどわ程度分かるようになったにんげん人間のことをいま今はきゅうじんるい旧人類とか、おじんオジン(おじい爺さん)とかい言っているのではないだろうか。
そして、もうひと一つ。
にほん日本のようなへんかく変革をしこう志向しないこくみんせい国民性、あんていしこうせい安定志向性のつよ強いくに国において、は果たしてしんじんるい新人類とよ呼ばれるにあたい値するようなきょくたん極端にかちかん価値観のこと異なったせだい世代が、こつぜん忽然とはっせい発生するであろうか。
そうではなく、むしろ「しんじんるい新人類はきゅうじんるい旧人類のこぴコピー」ではないのだろうか、とかんが考えるのである。
( ア )しんじんるい新人類はしじ指示したことはもんく文句なくやるものの、それいじょう以上のことはあま余りやろうとしない、といっぱんてき一般的にしてき指摘される。
そこでかんが考えてみると、わか若いときにはがい概してあま余りきくば気配りができないもの、けんりいしき権利意識はあっても、ぎむいしき義務意識にか欠けるとか、い言われつづ続けてきたものではなかっただろうか。
「ほうれんそうがかいしゃ会社をつよ強くする」などともい言う。
ほうこく告・れんからめる絡・そうだん談しましょう、というのである。
こうしたこぴコピーが、はや流行るところにすで既にしじま指示待ちしゃかい社会としてのそしきぶんか組織文化がはんらん氾濫しているのではないのか。
「ほうれんそうしましょう」などと、まことめんめ眞面目にかた語っているかいしゃ会社はきょうふ恐怖である。
こんなあ当たりまえ前のことがひつよう必要におう応じててんかい展開できていないから、いいおとな大人にむ向かって、こんなはつげん発言をしなくてはならないのだろう。
ようちえん幼稚園のこども子供にまなマナーをおし教えるようなものだ。
そうしたしじま指示待ちしゃかい社会のじっそう実相をにゅうしゃいぜん入社以前にしゅうしょくじょうほうし就職情報誌かなんかで、じゅくち熟知しているわかもの若者もいるかもしれまい。
B翻訳
41.くさ草もき木もしゅ種をみの実らせ、しゅ種をつち土にお落とす。
お落ちたしゅ種はつち土をかぶってあめつゆ雨露のめぐ恵みをう受けると、ないぞう内蔵されたせいめいりょく生命力がめざ目覚め、はつが発芽してちじょう地上にとうかく頭角をあらわ表す。
ひかり光とみず水とひりょう肥料とにめぐ恵まれ、そのおさないしょくぶつたい植物体はどんどんせいちょう成長して、やがててん天にむ向かっていきお勢いづいていく。
せいちょう成長するしょくぶつ植物のさいしゅう最終のもくてき目的は、はな花をさ咲かせじつ実をむす結ばせることにある。
42.しょくぶつたい植物体そのものは、にんげん人間のちえ知恵でいろいろにりよう利用されはするが、それはしょくぶつじしん植物自身がも持つもくてき目的ではなかろう。
い生きのよろこ喜びとしてはな花をさ咲かせ、やがてじつ実をむす結ぶのが、ひと独りしょくぶつ植物とのみいわず、こたい個体のせい生 ぞん 存、しゅぞく種族のほぞん保存をほんのう本能にもつすべてのい生きもの物のもくてき目的とかんが考えてよさそうだある。
にんげん人間にしてもてんじゅ天寿を全うしてこころざ志すぎょう業をと遂げたうえ上でごこと後事をたく託すべきこ子にめぐ恵まれてお終わるのが、ひと人みなのねが願うところであろう。
43.しょくぶつ植物がせいちょう成長をと遂げはな花をさ咲かせるのは、にんげん人間がこうな功成りなと名遂げ、けいしょう継承のこ子にめぐ恵まれて、み満たされたしんきょう心境にとうたつ到達するのにひと等しい。
しょくぶつ植物のかいか開花はじこけんげん自己顕現のさいこう最高のほうほう方法であり、そのはな花によってよきじつ実をむす結ばせえれば、そりによってかれ彼のせいめい生命のえいたもつ永存をき期することができ、い生きることのいみ意味において、にんげん人間のばあい場合とまった全くこと異なるところはない。
しん秦のはじめすべらぎ始皇のように、ふし不死のくすり薬をもと求めるのはおろ愚かである。
おのれのせいめい生命はこ子にう受けつ継がれることによって、ひさしある永存をき期しう得るのであって、それはあらゆるせいぶつ生物にきょうつう共通なうご動かしがたいしんり真理なのである。
つまり、はな花をさ咲かせたところがそのせいぶつ生物のちょうてん頂点で、そのはな花がよきじつ実をむす結べば、とうぜんかれ当然彼のいちこ一個のせいめい生命はしめい使命をは果たし、そのときお時終わりをつ告げるのである。
4444.ことしさ今年咲いてち散り、またらいねんはなひら来年花開くねんねんきょらい年々去来のはな花のどうり道理も、ひと人のこ子やまご孫が、ちち父やそふ祖父とおな同じはな花をさ咲かせることをおも思えば、それとなん何らか変わったところはない。
ひと人はひとこ一個のこたい個体のしゅうまつ週末をかだいし過大視してむじょう無常