日本文学选读日本文学史详细自考重点资料1Word格式.docx
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3、地下和歌で有力な幽斎門流は弟子の松永貞徳(まつながていとく)と木下長啸子である。
Ⅱ、和歌の革新:
着瀬三之(きせさんし)、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)、戸田茂睡(とだもすい)
1、戸田茂睡(江戸):
「梨本集」などによって、二条派の古今伝授や用語制限論を批判した。
2、下河辺長流(大阪):
「万葉集」を研究し、「万葉集管見」を著した。
3、僧契沖(けいちゅう)は従来の秘伝的な研究を打破して、「万葉代匠記」を著して、「万葉集」全部の歌に詳細な注釈を加え、大成した。
また、記紀歌謡、「古今和歌集」、「伊勢物語」などの注釈や仮名遣いの研究にも業績を残した。
Ⅲ、国学の発展:
1、荷田春満(かだのあずままろ):
契沖に師従し、古典を研究し、儒教、仏教に影響されない古典に表れた日本の古代精神を明らかにしようとし、「道の学び」としての国学を確立した。
2、賀茂真淵(かものまぶち):
荷田の門人で、国学と歌を一つの頂点に達させた。
(1)国学の面:
道を明らかにする古道主義思想を唱えた。
(2)和歌の面:
①「万葉集」を研究し、和歌の実作に万葉主義を持ち込んだ。
彼は自然のままの素直な心を尊び、万葉復古の「ますらをぶり」と「古ぶり」を主張した。
②晩年には、「万葉考」、「祝詞考」を著し、記紀歌謡に理想を移した。
③真淵の門人は彼の屋号「県居」(あがちい)に因んで(ちなむ)、彼の流派を県居派もしくは県門(あがたもん)と称した。
その門下には田安宗武、加藤千陰、村田春海を始めとする十二大学や多くの学者が出たが、古学を大成したのは本居宣長(もとおりのりなが)である。
3、本居宣長:
(1)古典を研究するとともに、漢意を排して、古代の神ながらの道を尊重し、古(「新古今集」)の「まことの道」を追求して、国学を完成した。
①「古事記伝」:
35年間で完成し、「古事記」の注釈書として、古今を通じて最大のものである。
②「源氏物語玉の小櫛(おぐし)」:
物語の本質として、道義的な見解を排して、「もののあらわれ」の文学観を提唱した。
(2)宣長は歌人として「もののあらわれ」の立場から「新古今和歌首」を重んじて、新古今風の歌を詠んだ。
その一門は「鈴の屋派」という。
(3)宣長の没後、平田篤胤(ひらたあつたね)はその研究を継ぎ、国粋主義のけいきょうを強くしていった。
真淵、宣長の研究に見られた文献実証的な研究を継いだのは本居春庭、伴信友(ばんのぶとも)、富士谷成章(ふじたになりきら)、塙保己一(はなわほきいち)らである。
富士谷成章は「挿頭抄」(かんざししょう)、「脚結招」(あゆいしょう)を著した。
Ⅳ、桂園派
1、京都においても和歌革新の動きが起こった。
その中心は平安四天皇とう呼ばれる澄月(ちょうげつ)、慈円(じえん)、伴高渓(ばんこうけい)、小沢蘆庵(こざわろあん)である。
小沢蘆庵は「万葉集」を重んじる真淵と「新古今和歌集」を重んじる宣長に対抗して、「古今和歌集」を範にし、「ただこと歌」を主張した。
「ただこと歌」:
比喩を借りずに、深い心を平淡に詠む歌を指す。
2、小沢の説を受け、古今調を主調にし、「調べの説」(音律の調べ)を主張したのは香川景樹(かがわかげき)である。
景樹の一門は桂園派と呼ばれ、真淵の県居派と並んで、近世における二大流派を形成した。
桂園派の代表的な歌人:
熊谷直好(くまがいなおよし)、木下幸文(ものしたたかふみ)、八田知紀(やったとものり)
江戸時代の三大派:
京都:
桂園派
江戸:
県居派(江戸派)と宣長の鈴屋派
Ⅴ、ほかの歌人(三派以外):
1、越後(えちご)(新潟(にいがた))の良寛(りょうかん):
写実的で平明な歌境
2、越前(福井)の橘(たちばな)曙覧(あけみ):
写実的に清真の生活を詠んだ。
3、筑前(福岡)の大隈言道(おおくまことみち):
日常の出来事を観察し、奇抜で軽妙な歌風を示した。
4、備前(岡山)の平賀源義(ひらがもとよし):
万葉歌人である。
5、女流歌人:
野村望東尼(のむらぼうとうに)、大田垣蓮月尼(おおたがきれんげつに)
(二)俳諧:
「俳諧の連歌」の略称で、戯れ、滑稽の意である。
内容の面白い俳諧は次第に庶民の間に流行し、作者、読者の最も多い文学となった。
1、貞門俳諧:
俳諧を中世連歌から独立させ、近世的文学としての性格を与えたのは松永貞徳(まつながていとく)である。
(1)貞徳は俳諧が和歌と連歌の間にある段階と考え、俳諧の特質と滑稽を認めながらも、下品猥褻な内容を退けた。
(2)「俳言」(はいごん)の使用に俳諧の特質を置いた。
「俳諧は連歌の入門であり、俗語を交えた連歌は俳諧である」と主張した。
(3)貞徳は「俳諧御傘」(はいかいごさん)という俳論書を著した。
(4)貞徳一派(いっぱ)は貞門と呼ばれ、松江重頼(まつえしげより)、安原貞室(やすはらていしつ)、北村季吟(きたむらきぎん)などがいる。
その煩雑のため、寛文末ごろから、貞門俳諧は衰えていった。
その中、松江重頼は早くから言葉遊びに落ちた貞門俳諧に不満を持っていた。
2、談林俳諧:
その派の中心人物は大阪の西山宗因(にしやまそういん)である。
(1)この派は古典的伝統から俳諧を解放し、自由を求め、現実に立って、自由奔放(ほんぽう)の俳風を打ち立てた。
(2)付句でも、貞門の物付に対して、心付の優位を強調した。
物付:
前句に詠まれた物から想像して、次句に新たな物を詠む手法
心付:
前句の意味内容から発展して、次句を付ける手法
(3)門下の井原西鶴(いばらさいかく)(大阪)は矢数俳諧を催し、貞享元年(1684)に23500句独吟の記録を残し、「二万翁(おきな)」と呼ばれた。
矢数俳諧:
一人が一日に作れる俳諧の句を競うもの。
(4)江戸では、田代松意(たしろしょうい)は「談林十百詞」(1675)を刊行し、庶民の俳諧を集結した。
(5)京都には菅野谷高政(すがのやたかまち)、岡西惟中(おかにしいちゅう)がいる。
自由奇抜なこの派は「詩」としての純度を失い、自滅することになった。
談林俳諧の流行はわずか十年で終焉した。
3、蕉風俳諧への過渡:
桃青(若きの芭蕉)、山口素堂(やまぐちそどう)、小西来山(こにしらいざん)、池西言水(いけにしごんずい)、上島鬼貫(うえじまおにつら)らは俳諧に「詩」本来の芸術性を求めて、反省した。
素堂は穏健な歌風を示して、芭蕉とともに全国を歩き回ったことがある。
鬼貫:
「本来無一物」の悟りから、「まことの他に俳諧なし」という「まとこの俳諧」を唱えた。
4、蕉風俳諧:
俳諧を一つの頂点に推したのは松尾芭蕉(まつおばしょう)である。
(1)芭蕉は京都の北村季吟の指導を受け、貞門俳諧を学んだ。
のちに談林俳諧を学び、談林の一員として頭角を現した。
深川に芭蕉庵を構えたごろから、独自の道を思索し始めた。
江戸大火(1628)の後、人生「旅」と捉え、漂泊者としての道を決意した。
(2)芭蕉の俳風は蕉風と呼ばれ、芭蕉の根本的な姿は「風雅の誠」を追求することにある。
「造化にしたがひ造化にかくれ」を旨とする。
(3)芭蕉の理念:
①不易流水(ふえきりゅうすい):
俳諧の本質の不変(不易)と脱皮変貌(流行/流水)の両面性を指す。
②さび、しおり、ほそみ、かるみ:
いずれも芭蕉の美的理念を指す言葉である。
さび:
蕉風俳諧の根本的な理念、自然と一体になった時に現れる閑寂、枯淡の境地、またその中に生かされる表現の美。
「句の色」
しおり(しほり):
優しく細かくしなやかな感じ。
対象に対する愛憐の情が自然に現れるものを指す。
「句の姿」
ほそみ(細み):
繊細な感情によって対象を捉えるところに生ずるもので、内的な深みに食い入った状態。
かるみ(軽み):
芭蕉晩年の理念で、表現の重厚さを脱し、平俗なことをも詩的な美へと昇華させる境地。
におひ:
句付には前句の気分、情趣、余情などを美しく調和するように付ける。
(4)芭蕉の作品:
①前期の作品:
「虚栗」(むなしぐり)、「武蔵曲」(むさしぶり)
特に「虚栗」は芭蕉を主とす蕉門の最初の俳諧集であり、字余りや漢詩文の趣向を取り入れた、
字余り:
五音すべき所を六音以上に、七音すべき所を八音以上にすること。
②芭蕉七部集:
a「冬の日」(1685):
旅に出て、名古屋で門弟たちや尾張五歌仙と発表したものである。
「狂歌こがらしの身は竹斎にいたる哉(かな)」を巻頭に置いたこの集こそ蕉風確立の宣言であり、七部集の最初に位するものとなった。
b「春の日」(1688)
c[旷野](あらの)(1689)
「奥の細道」の旅の後:
d「ひさご」
京、奈良を遊んだ後:
e「炭俵」(すみだわら):
「かるみ」の新風を開拓した。
g「続猿蓑」:
芭蕉晩年の高悟帰俗の俳風を示して、それを完成ご、大阪で病死。
③紀行文:
a「野ざらし紀行」:
1685-1687江戸へ帰った後書いた最初の紀行文である。
「野ざらしを心に風のしむ武装」という句によって示された旅や人生への姿勢は以後の紀行文の基調になった。
bその後、「鹿島紀行」(かしま)、「更科紀行」(さらしな)、「笈の小文」(おいのこぶみ)を作った。
c元禄七年に完成した「奥の細道」は最後の作品として最も重要で完成度の高い作品である。
④ほかの作品:
「幻住庵記」(げんじゅうあんのき)、「嵯峨日記」などの俳文や日記
(5)芭蕉の弟子:
向井去来(むかいきょうらい):
「来去抄」
服部土芳(はっとりどほう):
「三冊子」(さんぞうし)
森川許六(もりかわきょろく):
「風俗文選」を著し、蕉門の俳文を集めた。
榎本其角(えもときかく):
江戸座を興した。
蕉門十哲:
向井去来、森川許六、榎本其角、服部嵐雪(らいせつ)、内藤丈草(ないとうじょうそう)、志太野波(しだやば)、立花北枝(たちばなほくし)、杉山杉風(すぎやまさんぷう)、越智越人(えちえつじん)、各務支考(かがみしこう)
5、天明期の俳諧――与謝蕪村(よさぶそん)
芭蕉の死後、俳諧は俗化し、天明年間、京都の与謝蕪村らは「芭蕉に帰れ」と主張した。
やがて、蕪村を中心に天明期の俳風が確立された。
彼は芭蕉を慕って、奥羽を行脚(あんぎゃ)したことがある。
(1)「あけ烏」という俳諧集を刊行して、名声を広げた。
(2)俳詩という新しい様式を創出して、近代詩の可能性を示唆した。
(3)芭蕉vs蕪村:
芭蕉:
現実生活を重んじて、「高く悟りて俗に帰る」、「俗を離れて俗に帰る」という境地を主張した。
蕪村:
「離俗論」を唱え、俗世をはるかに超えた雅や芸術を追求する。
作品には芭蕉の持つ庶民性、現実性に欠ける。
6、幕末の俳諧:
小林一茶(こばやしいっさ)
天明期後、俳