上海概况.docx
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上海概况
上海概況重点
1)地理位置
東経121度、北緯31度、中国南北海岸線の中心位置にしています。
緯度は日本の鹿児島市とほぼ同じで、亜熱帯に属しています。
2)四季
四季が比較的にはっきりしております、気候は大阪、東京と大きな違いがありません。
春 春は梅、桃、菜の花が一斎に咲きます、一年の内に最も美しいで、所謂「江南の春」を迎えます。
夏 夏は東南の風が吹き、湿度が高くかなり蒸し暑くなり、日によっては最高気温が40°にもなります。
晩夏は台風が通過することもあります。
秋 秋は比較的に天気がよく、気持ちの良い日が続き、上海蟹のシーズンであるため観光にも最適の時期です。
冬 冬の最低気温が氷点下3度から5度ぐらいで、北西(ほくせい)の乾燥した冷たい風んが強く吹くので、戸外(こがい)での体感は東京より寒く感じかもしれません。
3)行政位置・人口
北は揚子江、南は杭州湾、東は東海、西は浙江省、江蘇省(こうそしょう)
長さが110キロの黄浦江は上海に浦東と浦西に分けました。
上海市は16の区と崇明県からなっています、総人口は約2300万人です。
総面積は6341平方キロメートルで群馬県とほぼ同じです。
揚子江の河口に位置する崇明島が1041平方キロメートルを占めしています。
崇明島は台湾、海南島に次いで中国で3番目に大きな島です。
4)由来
昔、上海地域には18の大きな浦があり、そのうちの一つは上海浦と呼ばれていました。
1267年に上海浦の西側には上海鎮という町が設立されました、更に1292年いは上海県に昇格しました。
これが上海という名前の由来です。
5)略称
皆様は上海の車のナンバープレートが高いと聞いたことがあると思いますが、車のプレートは「扈+英文字+數字」になっていますけど、「扈」は上海の略称です。
「扈」とは、昔の上海に生活している漁民が竹で作った漁労の道具でした。
伝承「でんしょう」によると、春秋、戦国時代には上海は春申君という官僚の管轄地であったため、上海は「申」とも略称されました。
6)上海市の花
上海の市花は白木蓮です。
早春時期に満開する潔白「けっぱく」大きなこの花は、花弁が仰向き「あおむき」で、開拓「かいたく」精神と向上心を象徴しています。
7)友好都市
上海は横浜市、大阪府、大阪市、長崎県と友好都市の関係にあります。
8)観光名所
ワイタン(そとなだ)の西洋建築
明清造園の粋を集めった江南地区の指折りの名園 豫園
中心地人民広場にある上海博物館や上海大劇院等では中国4,000年の文財やオペラなどを楽しむ事ができます。
浦東に聳える高層ビル、金茂大厦、環球金融センター、東方明珠テレビタワーなど近未来の建物は、バンドに立ち並ぶ西洋スタイルの建築物と共に昨今の歴史を語る「かたる」上海の顔も言えます。
また、玉仏寺、龍華寺も人気があります。
2010年上海万博のメイン会場――中国館は上海新しい観光スポットとなりました。
また、上海郊外の朱家角や周庄は、明清時代の風景を満喫できる水郷です。
9)交通
リニアモーターカー 430キロ/時
地下鉄 12本 ロンドンに次いで切開世界2位です
北京まで 高速鉄道 1300キロ 380キロ/時
10)祝祭日「しゅくさいじつ」
龍華寺 除夜の鐘
豫園 元宵の祭り旧正月15 提灯祭り
上海南匯桃の花祭り
外灘エリア
概要
外灘は上海の応接間と言われるほと上海を代表する観光名所で、黄浦江と蘇州河の合流点から延安東路までの、中山東一路沿いの黄浦江西岸「せいがん」を指します。
外灘は上海の近代史を象徴しているエリアです。
1840年のアヘン戦争で、清朝は惨敗し、1842年南京条約が締結されたことによって上海を開港されました。
その後、欧米列強は競って、上海に進出し、上海の表玄関であるこの地域は英米共同租界地になりました。
そして、20世紀20年代には、貿易・金融の中心として既にアジア最大の国際都市になっていました。
現在の外灘の建築物の多くが、20世紀20年代から30年代までに建てられた銀行や商社ビルです。
外灘の岸辺「きしべ」に沿って、23棟の名建築が軒を並んでいます。
そのスタイルは、時代とその用途に合わせて、それぞれ個性的なデザインを備えています。
「そなえる」
例えば、イギリス・クラブ・ビル(東風飯店)は1910年に竣工で、バロック装飾を施されたイギリス・ルネサンス様式の建物です。
上海で初めて鉄筋コンクリート「てっきん」構造を採用した建物で、東洋一の30メートル長さのカウンターバーでよく知らています。
1914年落成のフランス・インドシナ銀行ビルは、バロック風装飾の古典主義様式です。
旧ユニオン・アシュランス・ビルは1916年完成で、フリー・ルネサンス様式です。
1927年完成の税関ビルは古典主義とアールデコの折衷主義です。
1929年に完成したサッスーン・ホウスは完全にアールデコ調のモダニズム建築様式に切り替わっています。
1937年完成の中国銀行ビルは、中国風の装飾が施されたモダンな高層ビルとなっています。
1934年完成のブロードウェーマンション(上海大厦)は基本的にモダニズムの建物です。
このように、擬古主義からモダニズムへ、バロックからアールデコへと、当時ユーロパやアメリカで流行していた建築様式とその移り変わりが外灘の建築群から窺う「うかがう」ことが出来ます。
まさに「万国建築博覧会」と言っても過言「かごん」ではありません。
現在は「金融センターにする」という政策に従って、その多くは銀行、保険会社、外貨取引センターなどに使用されています。
さらに、ここ数年には内部の改造が進められ、高級ブランドショップ、レストラン、スパが続々と誕生しています。
現在でも「金融中心」として世界に有名です。
浦東に聳える高層ビル、金茂大厦、環球金融センター、東方明珠テレビタワーなど近未来の建物は、バンドに立ち並ぶ西洋スタイルの建築物と共に昨今の歴史を語る「かたる」上海の顔も言えます。
外灘は、朝は太極拳「たいきょくけん」や社交ダンスの練習をする市民に会うことが出来ます。
昼は観光客、夜はカップルや家族連れで賑わい、時間によってそれぞれ違った雰囲気が楽しまます。
特に、ライトアップされた外灘の夜景は魅力的です。
浦東発展銀行ビル(外灘11-12番)
1923年完成した旧香港上海バンク上海支店ビルは外灘で最も大きい建物とされます。
外観はギリシア様式の新古典主義建築とされ。
屋上の壮大なドームとギリシャ神殿の造形がシンボルとなっています。
1955年か1995年迄は上海市庁舎としてしようされ、金融街復興の為に、1996年から浦東発展銀行が入っています。
その中に珍しい物がみつあります。
1)ライオン
正面玄関の両側にはライオン・ブロンズ像が置かれています。
左は雄で、口が吐いています、右は雌で、口が吸っています。
それは、銀行は「金」を呑んだり吐いたりする場所で、銀行の隆盛を象徴しています。
現在に置かれているものは偽物で、現物は今上海歴史博物館に収蔵されています。
2)柱
建物の本体は5階からなります。
2階から4階までの正面中央に立ち並ぶ6本の巨大なギリシア・コリント式が遠くからも見られます。
3)壁画「へきが」パネル
建物の中に八つのアーチの上に八つの壁画パネルがあります。
パネルに描かれているのは、当初の金融の中心であった8としの風景です。
壁画の主要人物像としての女神「めがみ」は都市によって、服装や持ち物が異なります。
上海税関ビル(旧江海ビル)(中山東一路13番)
1927年に完成した上海税関ビルは古典様式からモダニズムへの過渡期にあるものとされます。
建物の本体は8階からなります。
3階から7階迄の表側は縦ラインのデザインになっています。
隣の上海浦東発展銀行ビルの水平ラインのデザインと対照的で、外灘の空間をバランスよく引き立て合っています。
その上は高く聳える壮大な時計台で外灘のシンボルの一つになっています。
時計台はロンドンの「ビッグ・ベン」を真似て作ったもので、「ビッグ・清」と呼ばれました。
直径は5.4メートルもあり、針は銅製で、長針は3.17メートル、短針は2.3メートルの長さです。
中には、振り子が3つあります、大きいのは3トンで、他の2つはそれぞれ1トンです。
「ビッグ・清」は15分毎二一回鳴ります、その時「東方紅」という聴きやすい音楽が聞こえます。
和平飯店(旧サッスーン・ハウス)(中山東一路20番)
サッスーン・ホウスは1929年完成の建物で、上海での古典主義様式から完全にアール・デコに切り替えた最初の建物とされます。
黄浦江に面するタワーのある部分は12階、その西側は9階からなり、高さは77メートルです。
屋根に高く聳えるタワーには当時ニューヨークで大流行のエジプト・ピラミッド様式が採用されています。
開業した当時、1階と2階は、銀行や商店、3階はサッスーン傘下「さんか」の会社の事務室、11階はサッスーン氏の自室でした。
4階から10階迄はキャセイ・ホテルとして用いられ、その内、4階から7階迄は、洋の東西を問わず、各国のスタイルのスイートルームにが用意しています。
1956年にサッスーン・ホウスは和平飯店と改名されました。
現在、ホテルの一階に旧上海の雰囲気を作る為に、年配の方々によるジャズ・バンドの生演奏が喜ばれています。
和平飯店南楼(旧パレス・ホテル)(外灘19番)
1908年の完成で、イギリスの新古典主義建築様式です。
本体は煉瓦と木材による6階の建物です。
上海で最初にエレベーターが設置されたことでも知られます。
屋上のガーデンは、1912年の家事で焼失しましたが、当時はパッティや憩い「いこい」の場として、大変人気があったところです。
1909年に第1回「世界麻薬禁止会議」の海馬に選ばれ、1911年11月29日には孫文の臨時大統領就任の為の帰国歓迎会が開催されました。
mた、1927年、蒋介石夫婦の結婚披露宴もここで行われました。
中国銀行ビル(中山東一路23番)
1937年に竣工した、中国人が設計した、外灘建築群に中国伝統建築装飾の施された「ほどこす」唯一の高層ビルです。
壁には中国貨幣をイメージする、屋根は緩やか「ゆるやか」な寄せ棟造りのデザインで、四隅がやや反り上がります、軒のほうは斗組(ますぐみ)の装飾が施されました、中国の伝統様式がはっきりと伝わります。
最初は34階の高層ビルを設計したのに、最後に15階だけ建てられた説が2つあります。
その一つは当時、大変不景気で、節約の為、15階になります。
二つ目はサッスーン・ホウスの近くにそれより高いビルは許さないと、英米共同租界地の当局より強くプレシャーがかけられた。
然し、賢い中国の設計者は高さがサッスーン・ホウスより低く、階数はサッスーン・ホウスより高くて、今の15階からなります。
外白渡橋(ガーデン・ブリッジ)
現在のガーデン・ブリッジは1906年着工し、1907年完成した3代目の橋です。
全長104.3メートルで、幅18.3メートルの、上海初めの鉄橋です。
橋が架かている川は蘇州河と呼ばれます。
昔は呉淞江と言う名前です。
蘇州河の名づけには蘇州河は太湖に源「みなもと」を発し、蘇州を経由して、上海で黄浦江と合流します。
全長が125キロメートル、平均幅60メートル、平均水深2メートルです。
租界時代には、この橋の南側は欧米的雰囲気の地域でしたが、この橋を南側から北側へ渡ると、日本人居住「きょじゅう」の多かった場所だと言われます。
ガーデン・ブリッジの現在の中国語名は「外白渡橋(ワイバイドゥー橋)と言いますが、これには昔の外国人が通行税を払わなくて「ただで自由に渡れる橋」といい意味が含まれています。
2008年4月、ガーデン・ブリッジは取り外されて、「古い姿をそのままに」を原則に、橋本体、水中の橋脚の取り替え、車道の舗装「ほそう」、景観照明器の増設など大規模な改修が行われました。
2009年4月、最新技術で補強されたガーデン・ブリッジが再びに蘇州河にお目見えしました。
浦江飯店(旧リチャーズ・ホテル)黄浦路15号
リチャーズ・ホテルは、1846年に創設された上海開港以来最初の西洋スタイルのホテルです。
現在のビルは1857年の建物が1907年に建て替えられ、ビクトリア・バロック風のイギリス新古典主義様式です。
中国で初めての様々な近代的施設を導入したホテルとして知られています。
例えば、初めて電気の点いたところで、初めて電話が繋がったところ、初めて音声付の映画が上映されたところです。
新中国での最初の証券取引センターがホテル内に誕生しました。
世界の有名人が上海に訪れたときに、良く利用されたホテルとしても、知られています。
例えば、相対論の創立者アインシュタインがリチャーズ・ホテルに泊まったことがあり、有名な俳優チャップリンがリチャーズ・ホテルに2回泊まりました。
黄浦公園(旧パブリック・ガーデン)
黄浦公園は、外灘の北端「ほくたん」、蘇州河と黄浦江の合流点の処に一致します。
上海でイギリス人によって造営された最初の西洋式公園で、中国での初めの公園だとも言われています。
1868年開園時には「パブリック・ガーデン」と名付けましたけど、、西洋人専用で、「華人が入るべからず」と書いてあります、その時代の社会の不公平がそれから、良く感じます。
1994年、公園の中に「人民英雄紀念塔」が建てられました。
この塔は三本の60メートルの花崗岩「かこうがん」の柱からなります。
その三つの柱は遠く見ると、三本の銃の形に似っています、やはり、アヘン戦争以来、上海で新中国の成立に身を捧げた人々を紀念するために、建てられたものです。
黄浦江
源「みなもと」は上海の西にある定山湖で、揚子江へ流れ込みます。
全長は114キロメートルで、下流の川幅がかなり広く、平均400メートルにも達します。
黄浦江は上海市を二つ部門に分けて、西側の旧市街は浦西、東側は浦東と呼ばれます。
外灘近所の船着場「ふなつきば」から黄浦江の遊覧船が出発し、揚子江河口まで行って、揚子江が東海に流れこむ風景がお目見えます。
豫園アリア
中国の庭園は種類から言いますと、宮廷式、寺廟式「じびょうしき」、邸宅式 三つに分けられています。
北京の頤和園は宮廷式で、蘇州の獅子林は寺廟式で、無錫の寄暢園は邸宅式です。
豫園は邸宅式の庭園に属しています。
中国の庭園は建物、山水、花、植木など美しい物の粋を集めた総合的な技術品です。
特に、この豫園は明、清両時代の造園法の粋を集めた江南地区の指折りの名園です。
豫園の「豫」という字は、予算の「予」の右側に「象」という字を書きますが、中国語では、「愉快」の「愉」と同じ発音で、同じ意味に使われています。
従って、豫園は「楽しい庭園」という意味です。
豫園の歴史ですが、今から四百数十年前の明時代に、上海に潘允端という大官吏がいました、彼は父親さんを喜ばせるために、1559年から18年間を掛けて造園しました。
しかし、出来上がった時には、彼の父親さんは既に無くなっており、死亡しても別の世界にも楽しく生活できると祈りがあり、豫園と名付けたのです。
明代の終わりから清代の初めに掛けては、藩家の家運も傾き、豫園は次第に荒廃しまいました。
その後、豫園の持ち主はなんども変わりました。
また、アヘン戦争、太平天国の乱の時期には、豫園は見る影「かげ」もないほど荒れ果て「あれはて」てしまいました。
1956年上海市人民政府から豫園の修復工事を行われ行ないました、豫園は再び中国庭園の代表になり、今は中国の文化財として、毎日大勢な人がここへ観光しに来ます。
豫園に隣接している下町情緒が一杯溢れているのは豫園商城です、その建物の屋根が傍へ反り返ています、明・清時代の雰囲気を再現しました。
豫園商城の取り扱っている商品の特色は所謂「小・土・特」です、「小」とは商品をこも細かくたくさん集めているということ、「土」とは上海地元の名産品が揃っているということ、「特」とは専門店もあるという意味です。
さらに、九曲橋の向こうには喫茶店があり、また、飲茶「やむちゃ」料理で有名の緑波廊「りょくはろう」、上海料理で有名の上海老飯店、上海特色の軽食で有名の「南翔饅頭店」など、味自慢のレストランが多いです。
豫園は東京の浅草に負けないほど上海の観光名所です。
入り口前
豫園の入り口の前に池があり、池には2階建ての建物は湖心亭と呼ばれます。
向かいには緑波廊というレストランがあります、飲茶料理で有名で、アメリカ前大統領クリントンが来たこともあります。
池の中の橋は九曲橋と言います。
元は石造りだったのですが、1932年に架け直され、今は鉄筋コンクリート造りとなっています。
この曲橋は水面を分割し、違った角度からいろいろな景色「けしき」を見られる中国造園技術の一つです。
また、どうして「九曲」といいますと、やはり、「九」は一桁の数字中の最高数で、数量の多いことを象徴することから「九曲」が採用されたものと思われます。
この辺りでは、しばしば伝統の行事が行われます。
例えば、旧暦「きゅうれき」の1月15日の元宵節、8月15日の中秋節など、ここはまさに人の山でぎっしりです。
三穂堂
豫園に入って、まず目に入るのは「海上名園」という石碑「せきひ」です、この石は黄山から運ばれてきたもので、4文字は江沢民前国家主席を書いたものです。
三穂堂は豫園で最も古い建物のうちの一つであり、釘を一つも使わない建筑としても知られている。
屋根の上には、右側には張飛、左側には関羽の像があります。
三穂堂に入ると、正面に3つの額がかけられているが、これは、豫園の所有者が数回に渡って代わったことを示しています。
ここは最初「楽寿堂」と呼ばれたが、1760年に再建され、名前も変えられました。
「三穂堂」は一本の稲の茎に3つの穂が取れるようにという事を祈るという意味です。
また、建物のドアには、稲、麦「むぎ」、トウモロコシ、カボチャ、蓮根など彫刻してあります。
豊作を祈念して付けられた名のようです。
三稲堂とは豊作を祈念して付けられた名のようで、建物のドアには、稲、麦、黍、瓜类の浮き雕りがなされている。
元は楽寿堂と呼ばれたが、1760年に再建され、名前も変えられた。
一番上には「城市山林」と書かれています。
城市とは市街地のことであり、すなわち、「豫園は街の中のオアシスだ」という気持ちが現されています。
真ん中の「霊台経始」とは「祖先の霊に対し、崇拝をするぞ」というような意味である。
正面には豫園の最初の持ち主「持ち主」である潘允瑞が書いた豫園記があり、豫園創建の経緯が詳しく書かれています。
仰山堂
三穂堂の向かいの楼閣は1866年に建てられた2階建ての木造建築は仰山堂です。
出口の上の額「がく」に「崇山峻嶺」「すうさんしゅんれい」という四つの文字が書いてありますが、それはここには高い山、険しい峰があるという意味です。
仰山堂の上の部分は巻雨楼と言います。
これは唐代の詩人王勃「おうぼつ」の詩「珠簾暮れに巻く西山の雨」からその名をとったのです。
この楼閣の四方には、簾「すだれ」を掛かっていて、風が吹きますと、雨の音に似た、さらさらという音が聞こえることです。
その名のとおり、池を隔て「へだてる」て筑山が望まれる。
「のぞまれる」
築山
張南陽という当時の造山の大家「たいけ」の作で、高さは12メートル余りで、上海から200キロ離れた浙江省の武康県から運ばれてきた武康石2000トンを使われています。
石灰「せっかい」と糯米「もちごめ」を混ぜたものを接着剤として使われて出来ているものです。
園内の建物が再建される中で、ここは西北部の一部が削られただけで創建当時の姿をほぼ完全に今に保留しています。
山上「さんじょう」の望江亭という東屋「あずまや」があるが、400年前にはここが上海で一番高い場所であり、黄浦江が眺められます。
透かし窓
三穂堂の回廊の周りに、粘土で作られた8つの「透かし窓」があります。
現在文化財を保護するためにガラスが嵌めこんまれています。
400前はガラスが少なかったので、冬には紙を貼り、夏になると取り外したのです。
透かし窓の形は楼閣毎に、それぞれの図柄が掘りこまれています。
例えば、三穂堂の周りは長寿を象徴する鶴や、楽しいことを現す鳳凰「ほうおう」など浮き彫りされています。
特に有名な透かし窓は「梅妻鶴子」といいます。
どうして梅と鶴が作られているのかといいますと、それには1つの伝説があります。
今から1000年ほど前、北宋の時代ですが、林簿という詩人がいました。
彼は杭州の西湖の周りの山に隠棲し、梅が奥さんのように植え、鶴が子供のように育て「そだて」、悠々自適の生活を営みました。
「いとなみ」
豫園の持ち主は林簿の生き方に共鳴を覚え、その図柄を選んだものと思われます。
回廊
仰山堂の側には鉄制の獅子像がありますが、これは元代に河北省安陽県で作られたものと言われます。
獅子は雌雄一対「いっつい」になっており、子供をあやしているのが雌で、毬「いが」で游んでいるのが雄です。
獅子像の先には游廊と呼ばれる回廊がある。
中国の庭园においては2つの建物を回廊によって結ばれているが、この回廊は次の建物への経路を示しているだけでなく、空間を分割して、景色を色々変えるといった役割も持っています。
この回廊からは右手に山水画のような筑山が見え、左手には風俗画のように東屋、池などが広がります。
回廊の中ほどに、大きな太湖石が置かれている。
付けられている名前は美人腰。
触ると、美人の腰にように痩せるという意味で名づけました。
回廊の上には「漸入佳境」の横額がありますが、その意味は、この回廊をゆっくり回りながら、山水の佳境だんだん近づいてくると思います。
魚楽榭
建物の一部分が池に突き出て、他の部分が地上に建てられて東屋と同じ休んだり、景色を見たりするための物は「榭」といいます。
、ここから東に流れる渓流がアーチ方の穴にでも注ぎ込む「つぎ込む」ように見せて景観に変化を与えています。
上の額に「魚楽榭」はここにさらさら流れる水の音が聞いて、魚が楽しいそうに泳ぐ姿を見て、心がすっかり落ち着くといういみであります。
また昔はここで見合いが行われたとも言われる。
男女のいずれか片方がここに座り、前方の廊下を歩いてくる相手を待ったそうだ。
万花楼
廊下を抜け左手の建物は、1843年に再建された万花楼である。
万花楼は「花でいっぱいである」という意味で名づけられたのだろう。
この建物の扉や窓には、竹、兰、菊などの雕刻が施されている。
中の家具は200年以上の歴史を持つ。
庭に立つ銀杏の木は豫園設立当初からあると言われる、樹齢は400年を持っています。
。
初めは雄と雌2本植えられたそうですが、雌の方が枯れてしまって「かれる」、その後、泰山木植えました、これも既に200年以上の樹齢があります。
龍壁
点春堂と万花楼の間の壁上部は龍で装飾されている。
龍はもちろん想像上の動物であり、よく見れば、頭は牛、角「つの」は鹿「しか」、口は馬、爪は鷹、体は蛇、髭は鯉、鱗「うろこ」は魚に似ている。
口には玉をくわえている。
龍は玉がよほど大好きで、玉をくわえた龍はよだれを出てくるし、顎が痒くなる為、そのよだれを喉元の蛙が待ち受けている。
龍は皇帝の象徴であり、官吏は龍の装飾を用いることが禁じられていました。
しかし本来龍の爪は5本であるのに対しここの龍は4本爪となっています。
豫園の持ち主は、皇帝から責めたときは「これは4本爪であり龍ではない」と言い訳が付けられます