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将军
将軍
芥川龍之介
一 白襷隊
明治三十七年十一月二十六日の未明だった。
第×師団第×聯隊の白襷隊(しろだすきたい)は、松樹山(しょうじゅざん)の補備砲台(ほびほうだい)を奪取するために、九十三高地(くじゅうさんこうち)の北麓(ほくろく)を出発した。
路(みち)は山陰(やまかげ)に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。
その草もない薄闇(うすやみ)の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷(しろだすき)ばかり仄(ほのめ)かせながら、静かに靴(くつ)を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。
現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数(くちかず)の少い、沈んだ顔色(かおいろ)をしているのだった。
が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。
それは一つには日本魂(やまとだましい)の力、二つには酒の力だった。
しばらく行進を続けた後(のち)、隊は石の多い山陰(やまかげ)から、風当りの強い河原(かわら)へ出た。
「おい、後(うしろ)を見ろ。
」
紙屋だったと云う田口(たぐち)一等卒(いっとうそつ)は、同じ中隊から選抜された、これは大工(だいく)だったと云う、堀尾(ほりお)一等卒に話しかけた。
「みんなこっちへ敬礼しているぜ。
」
堀尾一等卒は振り返った。
なるほどそう云われて見ると、黒々(くろぐろ)と盛(も)り上った高地の上には、聯隊長始め何人かの将校たちが、やや赤らんだ空を後(うしろ)に、この死地に向う一隊の士卒へ、最後の敬礼を送っていた。
「どうだい?
大したものじゃないか?
白襷隊(しろだすきたい)になるのも名誉だな。
」
「何が名誉だ?
」
堀尾一等卒は苦々(にがにが)しそうに、肩の上の銃を揺(ゆす)り上げた。
「こちとらはみんな死(しに)に行くのだぜ。
して見ればあれは××××××××××××××そうって云うのだ。
こんな安上(やすあが)りな事はなかろうじゃねえか?
」
「それはいけない。
そんな事を云っては×××すまない。
」
「べらぼうめ!
すむもすまねえもあるものか!
酒保(しゅほ)の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。
」
田口一等卒は口を噤(つぐ)んだ。
それは酒気さえ帯びていれば、皮肉な事ばかり並べたがる、相手の癖に慣(な)れているからだった。
しかし堀尾一等卒は、執拗(しつよう)にまだ話し続けた。
「それは敬礼で買うとは云わねえ。
やれ×××××とか、やれ×××××だとか、いろんな勿体(もったい)をつけやがるだろう。
だがそんな事は嘘(うそ)っ八(ぱち)だ。
なあ、兄弟。
そうじゃねえか?
」
堀尾一等卒にこう云われたのは、これも同じ中隊にいた、小学校の教師(きょうし)だったと云う、おとなしい江木(えぎ)上等兵(じょうとうへい)だった。
が、そのおとなしい上等兵が、この時だけはどう云う訣(わけ)か、急に噛(か)みつきそうな権幕(けんまく)を見せた。
そうして酒臭い相手の顔へ、悪辣(あくらつ)な返答を抛(ほう)りつけた。
「莫迦野郎(ばかやろう)!
おれたちは死ぬのが役目じゃないか?
」
その時もう白襷隊は、河原の向うへ上っていた。
そこには泥を塗(ぬ)り固めた、支那人の民家が七八軒、ひっそりと暁(あかつき)を迎えている、――その家々の屋根の上には、石油色に襞(ひだ)をなぞった、寒い茶褐色の松樹山(しょうじゅざん)が、目の前に迫って見えるのだった。
隊はこの村を離れると、四列側面の隊形を解いた。
のみならずいずれも武装したまま、幾条かの交通路に腹這(はらば)いながら、じりじり敵前へ向う事になった。
勿論(もちろん)江木(えぎ)上等兵も、その中に四つ這いを続けて行った。
「酒保の酒を一合買うのでも、敬礼だけでは売りはしめえ。
」――そう云う堀尾(ほりお)一等卒の言葉は、同時にまた彼の腹の底だった。
しかし口数の少い彼は、じっとその考えを持ちこたえていた。
それだけに、一層戦友の言葉は、ちょうど傷痕(きずあと)にでも触(ふ)れられたような、腹立たしい悲しみを与えたのだった。
彼は凍(こご)えついた交通路を、獣(けもの)のように這い続けながら、戦争と云う事を考えたり、死と云う事を考えたりした。
が、そう云う考えからは、寸毫(すんごう)の光明も得られなかった。
死は×××××にしても、所詮(しょせん)は呪(のろ)うべき怪物だった。
戦争は、――彼はほとんど戦争は、罪悪と云う気さえしなかった。
罪悪は戦争に比べると、個人の情熱に根ざしているだけ、×××××××出来る点があった。
しかし×××××××××××××ほかならなかった。
しかも彼は、――いや、彼ばかりでもない。
各師団から選抜された、二千人余りの白襷隊(しろだすきたい)は、その大なる×××にも、厭(いや)でも死ななければならないのだった。
……
「来た。
来た。
お前はどこの聯隊(れんたい)だ?
」
江木上等兵はあたりを見た。
隊はいつか松樹山の麓(ふもと)の、集合地へ着いているのだった。
そこにはもうカアキイ服に、古めかしい襷(たすき)をあやどった、各師団の兵が集まっている、――彼に声をかけたのも、そう云う連中の一人だった。
その兵は石に腰をかけながら、うっすり流れ出した朝日の光に、片頬の面皰(にきび)をつぶしていた。
「第×聯隊だ。
」
「パン聯隊だな。
」
江木上等兵は暗い顔をしたまま、何ともその冗談(じょうだん)に答えなかった。
何時間かの後(のち)、この歩兵陣地の上には、もう彼我(ひが)の砲弾が、凄(すさ)まじい唸(うな)りを飛ばせていた。
目の前に聳えた松樹山の山腹にも、李家屯(りかとん)の我海軍砲は、幾たびか黄色い土煙(つちけむり)を揚げた。
その土煙の舞い上(あが)る合間(あいま)に、薄紫の光が迸(ほどばし)るのも、昼だけに、一層悲壮だった。
しかし二千人の白襷隊(しろだすきたい)は、こう云う砲撃の中に機(き)を待ちながら、やはり平生の元気を失わなかった。
また恐怖に挫(ひし)がれないためには、出来るだけ陽気に振舞(ふるま)うほか、仕様のない事も事実だった。
「べらぼうに撃ちやがるな。
」
堀尾一等卒は空を見上げた。
その拍子(ひょうし)に長い叫び声が、もう一度頭上の空気を裂(さ)いた。
彼は思わず首を縮(ちぢ)めながら、砂埃(すなほこり)の立つのを避けるためか、手巾(ハンカチ)に鼻を掩(おお)っていた、田口(たぐち)一等卒に声をかけた。
「今のは二十八珊(にじゅうはっサンチ)だぜ。
」
田口一等卒は笑って見せた。
そうして相手が気のつかないように、そっとポケットへ手巾(ハンカチ)をおさめた。
それは彼が出征する時、馴染(なじみ)の芸者に貰って来た、縁(ふち)に繍(ぬい)のある手巾(ハンカチ)だった。
「音が違うな、二十八珊(サンチ)は。
――」
田口一等卒はこう云うと、狼狽(ろうばい)したように姿勢を正した。
同時に大勢(おおぜい)の兵たちも、声のない号令(ごうれい)でもかかったように、次から次へと立ち直り始めた。
それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN将軍が、何人かの幕僚(ばくりょう)を従えながら、厳然と歩いて来たからだった。
「こら、騒いではいかん。
騒ぐではない。
」
将軍は陣地を見渡しながら、やや錆(さび)のある声を伝えた。
「こう云う狭隘(きょうあい)な所だから、敬礼も何もせなくとも好(よ)い。
お前達は何聯隊の白襷隊(しろだすきたい)じゃ?
」
田口一等卒は将軍の眼が、彼の顔へじっと注がれるのを感じた。
その眼はほとんど処女のように、彼をはにかませるのに足るものだった。
「はい。
歩兵第×聯隊であります。
」
「そうか。
大元気(おおげんき)にやってくれ。
」
将軍は彼の手を握った。
それから堀尾(ほりお)一等卒へ、じろりとその眼を転ずると、やはり右手をさし伸(の)べながら、もう一度同じ事を繰返(くりかえ)した。
「お前も大元気にやってくれ。
」
こう云われた堀尾一等卒は、全身の筋肉が硬化(こうか)したように、直立不動の姿勢になった。
幅の広い肩、大きな手、頬骨(ほおぼね)の高い赭(あか)ら顔。
――そう云う彼の特色は、少くともこの老将軍には、帝国軍人の模範(もはん)らしい、好印象を与えた容子(ようす)だった。
将軍はそこに立ち止まったまま、熱心になお話し続けた。
「今打っている砲台があるな。
今夜お前たちはあの砲台を、こっちの物にしてしまうのじゃ。
そうすると予備隊は、お前たちの行った跡(あと)から、あの界隈(かいわい)の砲台をみんな手に入れてしまうのじゃ。
何でも一遍(いっぺん)にあの砲台へ、飛びつく心にならなければいかん。
――」
そう云う内に将軍の声には、いつか多少戯曲的な、感激の調子がはいって来た。
「好(よ)いか?
決して途中に立ち止まって、射撃なぞをするじゃないぞ。
五尺の体を砲弾だと思って、いきなりあれへ飛びこむのじゃ、頼んだぞ。
どうか、しっかりやってくれ。
」
将軍は「しっかり」の意味を伝えるように、堀尾一等卒の手を握った。
そうしてそこを通り過ぎた。
「嬉しくもねえな。
――」
堀尾一等卒は狡猾(こうかつ)そうに、将軍の跡(あと)を見送りながら、田口一等卒へ目交(めくば)せをした。
「え、おい。
あんな爺(じい)さんに手を握られたのじゃ。
」
田口一等卒は苦笑(くしょう)した。
それを見るとどう云う訣(わけ)か、堀尾一等卒の心の中(うち)には、何かに済まない気が起った。
と同時に相手の苦笑が、面憎(つらにく)いような心もちにもなった。
そこへ江木(えぎ)上等兵が、突然横合いから声をかけた。
「どうだい、握手で××××のは?
」
「いけねえ。
いけねえ。
人真似をしちゃ。
」
今度は堀尾一等卒が、苦笑せずにはいられなかった。
「××れると思うから腹が立つのだ。
おれは捨ててやると思っている。
」
江木上等兵がこう云うと、田口一等卒も口を出した。
「そうだ。
みんな御国(おくに)のために捨てる命だ。
」
「おれは何のためだか知らないが、ただ捨ててやるつもりなのだ。
×××××××でも向けられて見ろ。
何でも持って行けと云う気になるだろう。
」
江木上等兵の眉(まゆ)の間(あいだ)には、薄暗い興奮が動いていた。
「ちょうどあんな心もちだ。
強盗は金さえ巻き上げれば、×××××××云いはしまい。
が、おれたちはどっち道(みち)死ぬのだ。
×××××××××××××××××××××たのだ。
どうせ死なずにすまないのなら、綺麗(きれい)に×××やった方が好いじゃないか?
」
こう云う言葉を聞いている内に、まだ酒気が消えていない、堀尾一等卒の眼の中には、この温厚(おんこう)な戦友に対する、侮蔑(ぶべつ)の光が加わって来た。
「何だ、命を捨てるくらい?
」――彼は内心そう思いながら、うっとり空へ眼をあげた。
そうして今夜は人後に落ちず、将軍の握手に報いるため、肉弾になろうと決心した。
……
その夜(よ)の八時何分か過ぎ、手擲弾(しゅてきだん)に中(あた)った江木上等兵は、全身黒焦(くろこげ)になったまま、松樹山(しょうじゅざん)の山腹に倒れていた。
そこへ白襷(しろだすき)の兵が一人、何か切れ切れに叫びながら、鉄条網(てつじょうもう)の中を走って来た。
彼は戦友の屍骸(しがい)を見ると、その胸に片足かけるが早いか、突然大声に笑い出した。
大声に、――実際その哄笑(こうしょう)の声は、烈しい敵味方の銃火の中に、気味の悪い反響を喚(よ)び起した。
「万歳!
日本(にっぽん)万歳!
悪魔降伏。
怨敵(おんてき)退散(たいさん)。
第×聯隊万歳!
万歳!
万々歳!
」
彼は片手に銃を振り振り、彼の目の前に闇を破った、手擲弾の爆発にも頓着(とんちゃく)せず、続けざまにこう絶叫していた。
その光に透(す)かして見れば、これは頭部銃創のために、突撃の最中(さいちゅう)発狂したらしい、堀尾一等卒その人だった。
二 間牒(かんちょう)
明治三十八年三月五日の午前、当時全勝集(ぜんしょうしゅう)に駐屯(ちゅうとん)していた、A騎兵旅団(きへいりょだん)の参謀は、薄暗い司令部の一室に、二人の支那人を取り調べて居た。
彼等は間牒(かんちょう)の嫌疑(けんぎ)のため、臨時この旅団に加わっていた、第×聯隊の歩哨(ほしょう)の一人に、今し方捉(とら)えられて来たのだった。
この棟(むね)の低い支那家(しないえ)の中には、勿論今日も坎(かん)の火(か)っ気(き)が、快(こころよ)い温(あたたか)みを漂わせていた。
が、物悲しい戦争の空気は、敷瓦(しきがわら)に触れる拍車の音にも、卓(たく)の上に脱いだ外套(がいとう)の色にも、至る所に窺(うかが)われるのであった。
殊に紅唐紙(べにとうし)の聯(れん)を貼(は)った、埃(ほこり)臭い白壁(しらかべ)の上に、束髪(そくはつ)に結(ゆ)った芸者の写真が、ちゃんと鋲(びょう)で止めてあるのは、滑稽でもあれば悲惨でもあった。
そこには旅団参謀のほかにも、副官が一人、通訳が一人、二人の支那人を囲(かこ)んでいた。
支那人は通訳の質問通り、何でも明瞭(めいりょう)に返事をした。
のみならずやや年嵩(としかさ)らしい、顔に短い髯(ひげ)のある男は、通訳がまだ尋ねない事さえ、進んで説明する風があった。
が、その答弁は参謀の心に、明瞭ならば明瞭なだけ、一層彼等を間牒にしたい、反感に似たものを与えるらしかった。
「おい歩兵(ほへい)!
」
旅団参謀は鼻声に、この支那人を捉(とら)えて来た、戸口にいる歩哨を喚(よ)びかけた。
歩兵、――それは白襷隊(しろだすきたい)に加わっていた、田口(たぐち)一等卒(いっとうそつ)にほかならなかった。
――彼は戸の卍字格子(まんじごうし)を後に、芸者の写真へ目をやっていたが、参謀の声に驚かされると、思い切り大きい答をした。
「はい。
」
「お前だな、こいつらを掴(つか)まえたのは?
掴まえた時どんなだったか?
」
人の好(い)い田口一等卒は、朗読的にしゃべり出した。
「私(わたくし)が歩哨(ほしょう)に立っていたのは、この村の土塀(どべい)の北端、奉天(ほうてん)に通ずる街道(かいどう)であります。
その支那人は二人とも、奉天の方向から歩いて来ました。
すると木の上の中隊長が、――」
「何、木の上の中隊長?
」
参謀はちょいと目蓋(まぶた)を挙げた。
「はい。
中隊長は展望(てんぼう)のため、木の上に登っていられたのであります。
――その中隊長が木の上から、掴(つか)まえろと私に命令されました。
」
「ところが私が捉(とら)えようとすると、そちらの男が、――はい。
その髯のない男であります。
その男が急に逃げようとしました。
……」
「それだけか?
」
「はい。
それだけであります。
」
「よし。
」
旅団参謀は血肥(ちぶと)りの顔に、多少の失望を浮べたまま、通訳に質問の意を伝えた。
通訳は退屈(たいくつ)を露(あらわ)さないため、わざと声に力を入れた。
「間牒でなければ何故(なぜ)逃げたか?
」
「それは逃げるのが当然です。
何しろいきなり日本兵が、躍(おど)りかかってきたのですから。
」
もう一人の支那人、――鴉片(あへん)の中毒に罹(かか)っているらしい、鉛色の皮膚(ひふ)をした男は、少しも怯(ひる)まずに返答した。
「しかしお前たちが通って来たのは、今にも戦場になる街道(かいどう)じゃないか?
良民ならば用もないのに、――」
支那語の出来る副官は、血色の悪い支那人の顔へ、ちらりと意地の悪い眼を送った。
「いや、用はあるのです。
今も申し上げた通り、私(わたくし)たちは新民屯(しんみんとん)へ、紙幣(しへい)を取り換えに出かけて来たのです。
御覧下さい。
ここに紙幣もあります。
」
髯(ひげ)のある男は平然と、将校たちの顔を眺め廻した。
参謀はちょいと鼻を鳴らした。
彼は副官のたじろいだのが、内心好(い)い気味に思われたのだ。
……
「紙幣を取り換える?
命がけでか?
」
副官は負惜(まけおし)みの冷笑を洩らした。
「とにかく裸にして見よう。
」
参謀の言葉が通訳されると、彼等はやはり悪びれずに、早速赤裸(あかはだか)になって見せた。
「まだ腹巻(はらまき)をしているじゃないか?
それをこっちへとって見せろ。
」
通訳が腹巻を受けとる時、その白木綿(しろもめん)に体温のあるのが、何だか不潔に感じられた。
腹巻の中には三寸ばかりの、太い針がはいっていた。
旅団参謀は窓明りに、何度もその針を検(しら)べて見た。
が、それも平たい頭に、梅花(ばいか)の模様がついているほか、何も変った所はなかった。
「何か、これは?
」
「私(わたくし)は鍼医(はりい)です。
」
髯のある男はためらわずに、悠然と参謀の問に答えた。
「次手(ついで)に靴(くつ)も脱(ぬ)いで見ろ。
」
彼等はほとんど無表情に、隠すべき所も隠そうとせず、検査の結果を眺めていた。
が、ズボンや上着は勿論、靴や靴下を検べて見ても、証拠になる品は見当らなかった。
この上は靴を壊(こわ)して見るよりほかはない。
――そう思った副官は、参謀にその旨を話そうとした。
その時突然次の部屋から、軍司令官を先頭に、軍司令部の幕僚(ばくりょう)や、旅団長などがはいって来た。
将軍は副官や軍参謀と、ちょうど何かの打ち合せのため、旅団長を尋ねて来ていたのだった。
「露探(ろたん)か?
」
将軍はこう尋ねたまま、支那人の前に足を止めた。
そうして彼等の裸姿(はだかすがた)へ、じっと鋭い眼を注いだ。
後(のち)にある亜米利加(アメリカ)人が、この有名な将軍の眼には、Monomaniaじみた所があると、無遠慮な批評を下した事がある。
――そのモノメニアックな眼の色が、殊にこう云う場合には、気味の悪い輝きを加えるのだった。
旅団参謀は将軍に、ざっと事件の顛末(てんまつ)を話した。
が、将軍は思い出したように、時々頷(うなず)いて見せるばかりだった。
「この上はもうぶん擲(なぐ)ってでも、白状させるほかはないのですが、――」
参謀がこう云いかけた時、将軍は地図(ちず)を持った手に、床(ゆか)の上にある支那靴を指(ゆびさ)した。
「あの靴を壊(こわ)して見給え。
」
靴は見る見る底をまくられた。
するとそこに縫いこまれた、四五枚の地図と秘密書類が、たちまちばらばらと床の上に落ちた。
二人の支那人はそれを見ると、さすがに顔の色を失ってしまった。
が、やはり押し黙ったまま、剛情(ごうじょう)に敷瓦を見つめていた。
「そんな事だろうと思っていた。
」
将軍は旅団長を顧みながら、得意そうに微笑を洩(もら)した。
「しかし靴とはまた考えたものですね。
――おい、もうその連中(れんじゅう)には着物を着せてやれ。
――こんな間牒(かんちょう)は始めてです。
」
「軍司令官閣下の烱眼(けいがん)には驚きました。
」
旅団副官は旅団長へ、間牒の証拠品を渡しながら、愛嬌(あいきょう)の好(い)い笑顔を見せた。
――あたかも靴に目をつけたのは、将軍よりも彼自身が、先だった事も忘れたように。
「だが裸にしてもないとすれば、靴よりほかに隠せないじゃないか?
」
将軍はまだ上機嫌だった。
「わしはすぐに靴と睨(にら)んだ。
」
「どうもこの辺の住民はいけません。
我々がここへ来た時も、日の丸の旗を出したのですが、その癖家の中を検(しら)べて見れば、大抵露西亜(ロシア)の旗を持っているのです。
」
旅団長も何か浮き浮きしていた。
「つまり奸佞邪智(かんねいじゃち)なのじゃね。
」
「そうです。
煮ても焼いても食えないのです。
」
こんな会話が続いている内、旅団参謀はまだ通訳と、二人の支那人を検べていた。
それが急に田口一等卒へ、機嫌の悪い顔を向けると、吐(は)き出すようにこう命じた。
「おい歩兵!
この間牒はお前が掴(つか)まえて来たのだから、次手(ついで)にお前が殺して来い。
」
二十分の後(のち)、村の南端の路ばたには、この二人の支那人が、互に辮髪(べんぱつ)を結ばれたまま、枯柳(かれやなぎ)の根がたに坐っていた。
田口一等卒は銃剣をつけると、まず辮髪を解き放した。
それから銃を構えたまま、年下の男の後(うしろ)に立った。
が、彼等を突殺す前に、殺すと云う事だけは告げたいと思った。
「(ニイ)、――」
彼はそう云って見たが、「殺す」と云う支那語を知らなかった。
「(ニイ)、殺すぞ!
」
二人の支那人は云い合せたように、じろりと彼を振り返った。
しかし驚いたけはいも見せず、それぎり別々の方角へ、何度も叩頭(こうとう)を続け出した。
「故郷へ別れを告げているのだ。
」――田口一等卒は身構えながら、こうその叩頭を解釈した。
叩頭が一通り済んでしまうと、彼等は覚悟をきめたように、冷然と首をさし伸した。
田口一等卒は銃をかざした。
が、神妙な彼等を見ると、どうしても銃剣が突き刺せなかった。
「(ニイ)、殺すぞ!
」
彼はやむを得ず繰返した。
するとそこへ村の方から、馬に跨(またが)った騎兵が一人、蹄(ひづめ)に砂埃(すなほこり)を巻き揚げて来た。
「歩兵!
」
騎兵は――近づいたのを見れば曹長(そうちょう)だった。
それが二人の支那人を見ると、馬の歩みを緩(ゆる)めながら、傲然(ごうぜん)と彼に声をかけた。
「露探(ろたん)か?
露探だろう。
おれにも、一人斬らせてくれ。
」
田口一等卒は苦笑(くしょう)した。
「何、二人とも上げます。
」
「そうか?
それは気前が好(い)いな。
」
騎兵は身軽に馬を下りた。
そうして支那人の後(うしろ)にまわると、腰の日本刀を抜き放した。
その時また村の方から、勇しい馬蹄(ばてい)の響と共に、三人の将校が近づいて来た。
騎兵はそれに頓着(とんちゃく)せず、まっ向(こう)に刀(とう)を振り上げた。
が、まだその刀を下(おろ)さない内に、三人の将校は悠々と、彼等の側へ通りかかった。
軍司令官!
騎兵は田口一等卒と一しょに、馬上の将軍を見上げながら、正しい挙手の礼をした。
「露探(ろたん)だな。
」
将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。
「斬れ!
斬れ!
」
騎兵は言下(ごんか)に刀をかざすと、一打(ひとうち)に若い支那人を斬(き)った。
支那人の頭は躍るように、枯柳の根もとに転(ころ)げ落ちた。
血は見る見る黄ばんだ土に、大きい斑点(はんてん)を拡げ出した。
「よし。
見事だ。
」
将軍は愉快そうに頷(うなず)きながら、それなり馬を歩ませて行った。
騎兵は将軍を見送ると、血に染(そ)んだ刀(とう)を提(ひっさ)げたまま、もう一人の支那人の後(うしろ)に立った。
その態度は将軍以上に、殺戮(さつりく)を喜ぶ気色(けしき)があった。
「この×××らばおれにも殺せる。
」――田口一等卒はそう思いながら、枯柳の根もとに腰を下(おろ)した。
騎兵はまた刀(とう)を振り上げた。
が、髯(ひげ)のある支那人は、黙然(もくねん)と首を伸ばしたぎり、睫毛(まつげ)一つ動かさなかった。
……
将軍に従った軍参謀の一人、――穂積(ほづみ)中佐(ちゅうさ)は鞍(くら)の上に、春寒(しゅんかん)の曠野(こうや)を眺めて行った。
が、遠い枯木立(かれこだち)や、路ばたに倒れた石敢当(せきかんとう)も、中佐の眼には映らなかった。
それは彼の頭には、一時愛読したスタンダアルの言葉が、絶えず漂って来るからだった。
「私(わたし)は勲章(くんしょう)に埋(うずま)った人間を見ると、あれだけの勲章を手に入れるには、どのくらい××な事ばかりしたか、それが気になって仕方がない。
……」
――ふと気がつけば彼の馬は、ずっと将軍に遅れていた。
中佐は軽い身震(みぶるい)をすると、すぐに馬を急がせ出した。
ちょうど当り出した薄日の光に、飾緒(かざりお)の金(きん)をきらめかせながら。
三 陣中の芝居
明治三十八年五月四日の午後、阿吉牛堡(あきつぎゅうほう)に駐(とどま)っていた、第×軍司令部では、午前に招魂祭(しょうこ