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中日の民俗文化比较论について

中日の民俗文化比較論について

国際文化学科

A02261王 上

第1章 はじめに 

  この国際化の時代に文化摩擦現象も増大するなかで文化比較は重要である。

比較文化とは何か?

文化は地球全体、階層、民族、宗教、産業など色々な形で現れるが、それに優劣をつけて評価されるものではないと言われている。

現代社会において国際化が進むにつれて異文化間の交流も急速発展している。

まず、「文化とは、その最も広義の民俗誌的意味で考えるなら、社会のメンバーとして人間の獲得する、知職、信仰、芸術、道徳、慣習、その他の諸能力を含む複合的全体である」との定義がある。

 私は日本に四年間学生として住んでいた。

このため日本文化を少し理解したが、日本文化と中国文化は違うと思う。

まず、中国の紹介から入りたいと思う。

第2章中日の地域環境の比較 

2.1 中国の紹介

  中国はアジア大陸の東部、太平洋の西岸に位置しており、陸地面積は地球の陸地面積の6.4%にあたる約960万平方キロ。ロシアとカナダに続いて、世界第3位の面積。

日本の約26倍。

 長い歴史と広大な土地をもつ中国。

日本がもっとも古くからつながりをもつた国だ。

中国を代表する大都市北京、上海は近代化の波にのり毎日違った顔を見せてくれる。

西安、広州、桂林など魅力的な都市は中国全土に広がる。

偉大なる歴史的文化遺産、美麗な景色、なにをとってもそのスケールの大きさに驚かされる。

またどこへ行ってもおいしい本場中国の味に舌鼓を打つことだろう。

東西南北、中国への興味は尽きることがない。

 中国の地形は世界の最高峰、砂漠、草原・高原、森林、など複雑で多様な変化に富んでいる。

また、気候は温帯を中心に亜熱帯から亜寒帯までと幅広い。

それぞれ異なった文化を持つ56の民族からなる多民族国家。

地方毎に方言があり、それぞれの方言はほとんど通じないなど、どこをとっても広くて大きな国・中国が表われている。

中国の現在の行政区分は基本的には省、県(市)、郷という三級に分かれている。一級行政区は23省、5自治区(内モンゴル・寧夏回族・新疆ウイグル・広西チワン族・チベット)、4直轄市(北京・天津・上海・重慶)、2特別行政区(香港・マカオ)に分かれており、これが日本の都道府県にあたる。

そして省、自治区は自治州、県、自治県、市に区分され、さらに県、自治県は郷、民族郷、鎮という最小の行政単位に区分されている。自治区、自治州、自治県はいずれも民族自治が実行されている。

2.2日本の紹介

  面積38万km2の国土を持つ日本。

しかし、そのほとんどが山地などであり、1億2000万人の人々が安心して住める場所はわずかしかない。

災害と隣り合せの開発が進む。

本列島の地形は、「山地」、「丘陵」、「台地」、「低地」および「内水域など」の5つに区分され、そのうち「山地」と「丘陵」の占める割合が約73%であることから、島国であると同時に山国であると言える。

これらの地形は、豪雨や地震など自然の影響により変化しており、その過程において数々の自然災害が発生している。

また地形変化は、人口増加や都市化にともなって、人為的な丘陵・台地の斜面造成、さらには低地の発展とともに、その延長上にある海岸の埋め立て造成へと拡大してきた。

わが国では狭い国土の有効利用として、水害や土砂災害などに対してリスクの高いところに、あえて開発が進んでいる。

 日本列島は太平洋や日本海などの海に囲まれ、大陸とは浅い大陸棚で接している。

太平洋側には非常に深い日本海溝や伊豆小笠原海溝がある。

日本にはいくつかの火山脈が走っているため、地形は変化に富む。

川は短く急流で、山あいでは深い峡谷をなし、海岸線は

複雑に入りくんでいる。

風光明媚なところが多く、温泉地も点在している。

日本にはいくつかの火山脈が走っているため、地形は変化に富む。

川は短く急流で、山あいでは深い峡谷をなし、海岸線は複雑に入りくんでいる。

風光明媚なところが多く、温泉地も点在している。

日本列島は環太平洋地震帯の上にあり、火山活動も活発で世界でも有数の地震多発地帯となっている(1923年の関東大震災(マグニチュード7.9)は、東京を含む広い範囲にわたって大規模な損害を与え、1995年の阪神・淡路大震災(マグニチュード7.2)は神戸および淡路島をはじめとする阪神地域に大きな被害をもたらした、二大地震であった)。

日本の国土は山地が70%近い。

その大部分は森林におおわれているので、国土の森林の面積は66%と断然多い。

農業用地は14%、宅地は3%で、工業用地にいたっては、わずか0.4%にすぎない。

 世界には現在191の国家がある。

「狭い日本」などとよく言われるが,世界には何と日本より国土の狭い国家が132カ国もあるのだ。

旧ソ連を除いたアジア38カ国の中では日本は14番目,ヨーロッパを見ても39カ国中,日本より広い国はフランス,スペイン,スウェーデンのたった3カ国にすぎない。

日本を自然の面から見ても,北の北海道は冷帯に属し,網走や知床の海は冬になると流氷で覆われるが,一方南の沖縄や小笠原諸島は亜熱帯に属し,椰子やバナナが自生する。

ヨーロッパの国々で国内にこれほど気候の差がある国は1つもない。

 逆に,シンガポールなど東京都より狭いミニ国家はなんと世界に24カ国もある。

ロシアやアメリカのような大国と比較するから日本が狭く思えてしまうのだ。

ちなみにロシアは日本の約45倍,アメリカは約25倍の国土を持つ。

やはり世界は広い。

 日本の人口密度は334人(1997),主要国ではバングラデシュや韓国,オランダなどが日本を上回る。

学校で使う地図帳に記載されている統計でも確かにそうなっている。

ただしここで,なるほどバングラデシュは日本の倍以上も混雑しているのかと納得するのは正しくない。

ガンジス川の三角州に位置するバングラデシュは、ほぼ全国土が平地である。

いっぽう日本では,平野は国土のわずか13%にすぎない。

そこで山地や湖沼,河川,砂漠などを除外した居住可能な面積を人口で割る「可住地人口密度」で比較すると,日本は2、796人となり,バングラデシュや韓国,オランダの可住地人口密度を大きく上回る。

もっとも,シンガポールの人口密度は6、048人,これも数値だけ見れば驚くが,シンガポールは都市国家であり,国土のほとんどが可住地である。

都市で見るならば,東京23区の人口密度は12,698人,その混雑度は東京都民でなくても周知の通り,やはり混雑度世界一は日本であろう。

 中国,インド,ブラジルなどは,日本より広大な領土を持つが,陸地で他国と接している国境線が海岸線よりも長く,その分,四面を海に囲まれているニュージーランドや日本よりも200海里水域の面積は狭くなる。

ブラジルの200海里水域の面積は世界第8位であるが,国土面積851万平方kmに比べれば0.37倍,それに対し,日本は国土の実に11.9倍の200海里水域を持つ。

日本は南西諸島や小笠原諸島など洋上に多くの島々を領土として保有していることも大きな理由の1つである。

たとえば,日本最西端の南鳥島は太平洋上の絶海の孤島であるが,地図上でこの島にコンパスの中心をおいて,ぐるりと円を描くとその面積だけで43万平方kmとなり,日本の国土面積38万平方kmを上回る。

世界一の漁業国日本にとって,経済水域世界第6位の意義は大きいが,反面,かつて日本漁船が活躍していた北太平洋などの好漁場が、アメリカやロシアの経済水域となって,漁獲量が大きく制限されるようになり,日本の漁業が大きく変革してきたことは周知の通りである。

第3章中日の伝統文化と芸術 

3.1中国の京劇と日本の歌舞伎

3.1.1 京劇

  京劇の役は、性別・年齢・性格などによって、「生・旦・浄・丑」の1つに大きく分けられる。

「生」は男性の役。

これはさらに「老生・小生・武生」の3つに分かれている。

「老生」は、ひげを蓄えた中高年の人物。

歌やせりふは重厚なのがよいとされている。

「小生」は、上品でおっとりした男性。

たいていロマンチックな恋人役を演じる。

「武生」は、武芸に通じる人。

神話劇の中の宙返りや戦いの孫悟空や金銭豹なとの役柄を演じる。

 「旦」は、女性の役、いわゆる女形だ。

「老旦・青衣・花旦・刀馬旦・武旦」に細かく分かれている。

「老旦」は老女で、歌・せりふともに「老生」と競っている。

「青衣」は貞操が堅くしっかりしていて理性的な中年女性。

「花旦」は、無意気で活発な少女。

また浮気っぽくてあくどい女も演じる。

「武旦」は、立ち回りを得意とし、神話の中の妖径を演じることが多い。

「刀馬旦」は、「花旦・武旦」の中間で、勇ましく活発な文武両道にたけた女の将軍である。

 「浄」は、性格が剛直、豪放、あるいは陰険な男の役。

役柄を強調するため、誇張効果が大きい。

一目でその役の個性を読みとることができるようにするためである。

くまどりの色は全て決まった意味を持っている。

例えば、赤は忠勇、黒は豪放、青はもくろみ、白は悪賢さ、金・銀は神々を表すのに用いられる。

構図が整っていて整然としているのを「睡秬」と呼び、図案が複雑なものは「脸谱」と呼ぶ。

これらは装飾がおもしろいだけではなく、人の個性や心境をも表している。

 「丑」は、ひょうきんで風刺的な小人物で、劇中に滑稽なしぐさやせりふを入れて観客を笑わせる、いわゆる道化役。

それだけでなく、「丑」は劇の中から抜け出してきて、客観的な立場で批評したりもする。

「丑」は京劇独特の伝統的な役柄だ。

 京劇役目の舞台衣装は、「行頭」と呼ばれ、400年前の明代(1368〜1644年)の服装が基礎となっている。

踊りのこなしがうまくできるようにと、さらに「水袖(そでの端に付けた白く長い薄地の絹)」を付け、鎧の背中には1本の三角旗あるいはキジの尾を立てて、演技に厚みを加え、律動感を強調している。

京劇の服装は美しいだけでなく、劇中人物の身分や境遇をも象徴している。

そのため、必ず決まりにのっとって、身につけなければならない。

昔、舞台の上では「着間違えるよりは破れたのを着たほうがまし」というほど、着付けを大切にしたのである。

 京劇は、もともとは四方に何もない屋外の舞台で演じられていた。

舞台セットもごく簡単。

同じ一つの机が、文机になったり、役所で政務を決済する大机になったり、お墓や橋になったり、舞台空間の転換はスムーズであった。

そのため、役目は高度に象徴的虚構化され発展させてきた。

男優の付けひげ「水袖」、扇、踊りに用いる五色の布、立ち回り用の武器、軍隊用の令旗…これらは全て体と一体になっていて、こなすにはかなり複雑で難しい演技テクニックを要する。

しかし、どれも芝居の意義をも表しているのでおろそかにはできない。

京劇を演じるのはこのように難しいため、役者は幼い頃から厳しい演技の訓練をしなければならない。

それによって初めて、歌、眼差し、踊り、舞台上での歩き方や足の動きが通りスムーズにいくようになり、劇中の人物の思想や感情をも表現できるようになるのである。

以前、京劇は「役者の劇」ということが強調されていた。

全て役者しだい、役者が伝統に基づいて即興で演じていたのである。

音楽伴奏を胡弓弾きも太鼓打ちも、劇場の間に條をかけて以心伝心できるほどのよい関係を築かなければ、劇の進行についていけず、互いに息を合わせることもできなかったのである。

3.1.2 歌舞伎

1700年頃のこと。

幕府が開かれて百年の江戸は、急激な経済発展を続けついに、大坂や京都に並ぶ大都市に成長した。

「江戸言葉」が力を持ち始め、町の人々の中に自前の文化を持ちたいという欲望が生まれてきた時代だ。

そんな中、京都の人形浄瑠璃、大坂の侠客狂言に対抗する形で育ったのが、江戸の歌舞伎だった。

その歌舞伎は、人気を背景に舞台を、屋外から、常設の屋内劇場に移した。

歌舞伎というと、色華やかな舞台装置を背景にして、豪華絢爛衣裳を着た役者が演じているという印象があると思う。

しかし、それは、歌舞伎の歴史のここつい百年の出来事だったと言われている。

実は、江戸時代の歌舞伎は、張りぼて同然な舞台装置の前で、地味な衣裳を着て演じられていた。

何故だろうか。

それは、当時の照明技術の未熟さが主な理由だ。

電気照明が歌舞伎に初めて使われたのは、1887年という。

電気ほどは明るくないが、出始めの頃見た人が「昼間のようだ」とその明るさを絶賛したガス灯も、歌舞伎に使われたのは1872年だった。

どちらも日本に輸入されてすぐ導入されている。

他の場所での導入実績(街灯とか)が、ほとんど無かった時代のことだ。

それ以前は、明かり窓から採り入った自然光か、蝋燭、油灯だった。

これらの明かりは、舞台の中心部分を主に照らし、その一番明るいところで、180ルクス程度だったと言われている(現在の舞台では1000ルクス以上)。

さらに舞台の端の方では10ルクス程度だった。

実は当時の観客は舞台上の大部分で、何が起こっているのか見えなかったのである。

その蝋燭だが、鯨の脂で作られていた物だったので、今の貨幣価値で言うと一本200万円位という高価な品だった。

これが歌舞伎の鑑賞料金が高かった原因の一つと言われている。

しかも鯨の脂だから、炊くとものすごい悪臭した。

暗くて、臭くて、高いという三重苦にも関わらず、他に照明用具がなかったので重宝された。

電気照明が初めて入った頃の観客が、その明るさにどれほど驚いたかの例をひとつあげよう。

その人は「手元の弁当のおかずが何であるか見えたことに驚いた」と言っている。

近代以前の演劇の照明は、どの国でも観客も照らします。

観客は自分の手元すら見えなかったほどの暗さに、慣れ親しんでいたのだった。

歌舞伎の劇場の特徴として「花道」が上げられる。

これも歌舞伎の劇場が暗かったことと無縁ではない。

役者の姿があまりに見えなかったので、舞台を観客席の真ん中に迫り出す形にせざるをえなかったのだ。

さすがに真っ暗でも、すぐ側ならちょっとは見える。

歌舞伎と言ってまず思い浮かべるのは、目の回りのクマに誇張した化粧をする隈取りだ。

今の感覚から言うと歌舞伎の役者さんの化粧は、すごく濃いと感じる。

しかし江戸時代、初めて歌舞伎に接した人たちの目には、歌舞伎は素顔の役者が出てくる、驚くべき演劇と映った。

日本の古い演劇では、役者は顔を露出しなかった。

「能」では役者は面を着けたし、文楽では人形を使った。

西洋でも、ギリシア演劇では仮面を使っていた。

ギリシア劇場は、一万人以上を収容できたので、観客は舞台上の細かい所が見えない。

いきおい写実性より象徴的なビジュアルが求められたようだ。

それが、仮面を使った理由だ。

また、屋外上演が多かった「能」でも同様の事が言える。

それに対して、屋内劇場という狭いスペースで上演された歌舞伎では、客と役者が近い距離に配置されるので顔が重要になる。

また、最初期の歌舞伎である阿国歌舞伎(17C初期)は男装の女優が出てきて、劇が終わると売春婦になるというものだったが、この流れを受けていた初期の歌舞伎は、非常に容色を重視していた。

だから、美貌の花形に人気が集中したし、浮世絵師も美人画や美貌の役者絵しか描かなかった。

仮面でない素顔が重要だったのだ。

このため歌舞伎の初めは美貌が重視された。

しかし、歌舞伎の中心地が上方から江戸に移りだすと、大衆の欲望は「容色」から「技芸」に移った。

粗雑な関東言葉を用い、クマを誇張した隈取りを施された役者が、荒っぽいことを舞台上で演じた。

いわゆる荒事である。

荒事といえば市川団十郎(1660-1704)だが、彼は異様な風貌による圧倒的印象を発揮して、異界性と宗教性を持っていた。

象徴的な化粧によって美の「type」を表現していたのだ。

十八世紀前半まで全盛を誇った荒事だが、時代の変遷の中で失速していった。

八代将軍吉宗の下で隆盛した蘭学によって、科学的実証主義の考え方が浸透し、演劇も宗教的象徴的なものから、写実的なものが好まれるようになった。

また、江戸に首都が移って百年以上経つと、江戸人の間に自前の文化を持ちたいという欲求が生まれ、各芸能が落ち着きやゆとりを持つように高級化した。

それによって役者の顔も、誇張された隈取りよりもより素顔に近い形が求められるようになった。

五代目団十郎(1741-1806)は「似顔」という写実的な化粧で人気を取った初めての役者といわれている。

更に、十九世紀にはいると、経済の発展により歌舞伎の観客が富裕層以外にも広がった。

それ以前は、ヒーローは高い身分でなければならないといった制約があったが、観客層が変化したため、身分の低い人を題材に取った劇も行われるようになった。

身近な人間を材に取るため、役者の化粧はより写実的になった。

そして、「いき」という内面的な渋さを求める考え方が広がったことと、写真が登場したことで、ほぼ役者の顔の写実化が行き渡った。

外面にこだわる事が廃れてしまい、素顔を隠して象徴化することが不可能になったのだ。

つまり例えば「転校生はすごい美形だったよ」という言葉だけの噂を聞くと、どんどん誇張して期待してしまう。

しかし写真や実物を見てしまうと、それっきりで誇張された空想が生まれなくなってしまう。

役者がせっせと化粧をしても、素顔がばれているので効果が上がらないわけなのだ。

3・1・3京劇と歌舞伎の比較について

 日本に初めで来た時、日本文学担当の先生は私たち一年の留学生を歌舞伎の公演に連れて行った。

あの時日本語と日本伝統文化はあまり分からなかった。

歌舞伎は京劇のように

激烈な動作はしなかった。

私にとって、歌舞伎のことを面白くないと思った。

日本に住んでいる時間が長くなって、日本伝統文化の事が少し理解できるようになった。

そして歌舞伎は抽象的な芸術であること分かった。

そして京劇は具体的な芸術だと思う。

 京劇は観衆が見て分かりやすいと思う。

しかし歌舞伎は観衆に心理的効果をもたらすと考えた。

日本人でも意味がわかる人は少ないのではないかと思う。

第4章中日の食 

4.1 中国の食文化

4.1.1 中国の食について

中国の主食は、北部では,小麦粉だ。

例えば,ぎょうざの皮などが小麦粉でできる中国の料理だ。

南部では,米。

例えば,ビーフンなどが米でできる料理だ。

(1)中国の四大料理

上海料理  海が近くなので、魚料理が美味しい。

こい味が特ちょう。

四川料理  香辛料をたくさんつかった料理。

ピリ辛料理が特ちょう。

広東料理  バラエティにとんだ材料を使っている。

うす味が特ちょう。

北京料理  油を使った料理が多い。

あまずっぱい味が特ちょう。

ギョウザ ぎょうざは中国では縁起のいい食べ物なんだ。

 なぜかというと、ぎょうざは、昔のお金、元宝の形からできた。

 ぎょうざの上についているひらひらは、宝石の輝く様子を表しているだ。

 とても縁起がよさそうだね。

 ギョウザと同じように、もう一つ縁起のいい食べ物がある。

 それは魚だ。

豊かさの象徴なんだ。

(2)デザート 中国では、ぎょうざなど、甘くない物をシェン点心、

あまいお菓子やデザートをティェン点心と、呼ぶ。

西洋のお菓子にくらべると、日本では、まだ、なじみがうすいけど、ナッツや、フルーツを、たっぷり使ったティェンは、とても、健康的。

ヘルシーでおすすめだ。

 中国では、月餅という、さまざまな具を入れた丸いお菓子や、メロン、もも、りんごなどのまん丸の月のような形をしたものを食べる。

 中国は世界で「料理王国」「グルメの国」と称えられている。

中国人がいるところには必ず中国料理店がある。

孫文がかつて、「中国の飲食の進歩はいまなお文明諸国が及ばないところである。

中国の開発した食物は欧米より多いが、中国調理法の精密さは、欧米が匹敵できないものである」というまさにぴったりの要約をおこなった。

 中国には、「民は食をもって天となす」ということわざがある。

食は人間が生存するうえでの第一義的に必要なものだと見られ、人々は生産と生活の実践において、天災と人災によってもたらされた飢饉に直面して、自らの生存のため、できるだけ種類の多い食物の発見と開発に努めてきた。

 中国人は食べることを楽しみの一種とし、飲食は人生の一番大きな楽しみと見ている。

ほかでもない、中国人こそが数多くのすばらしい調理法といろいろなグルメ料理を作り出した。

中国は土地が広く、気候は変化に富み、多種多様な動植物がある。

これは中国の飲食調理の形成に、素晴らしい自然条件を作り出した。

4.1.2 地域ごとに特徴のある料理

 中国料理は、一万種以上ともいわれる「メニューの豊富さ」、つばめの巣やふかひれなどの食材をとり入れた「食材の種類の豊富さ」、そして、世界中の人びとに受け入れられている「おいしさ」によって、世界最高の料理のひとつといわれている。

 地方によって、気候、風土、文化が大きくことなることから、全国各地に郷土色ゆたかな料理が発達している。 おおまかに4つの系統にわけると北部の北京料理、東部は揚子江下流の上海料理、西部は揚子江上流の四川料理、南部が珠江(チュチャン)流域の広東料理となります。これを「四大中国料理」という。

四大中国料理の味の特徴を一言で言うと、「ペイシェン(塩辛い)、ナンティェン(甘い)、ドンスアン(酸っぱい)、シィラァ(ピリッと辛い)」である。

(1) 四川料理

山に囲まれたゆたかな盆地。夏は暑く、一年中湿度が高いので、風土病などを防ぐために香辛料を使う。唐辛子や山椒、ニンニク、ねぎなどをつかった、ピリッとからい味が決めてである。料理はバラエティに富み、調味料も豊富だ。マーボードウフ、ラァズヂィディン(鶏肉の唐辛子炒め)などがある。

(2)広東料理

南方の中心地。港町で、古くから外国との交易もさかんであったことから、西洋料理の影響を受けた料理が発達した。オイスターソースやトマトケチャップなどをつかった、山や海で取れる豊富な食材をつかうのが特徴。カオルウヂュウ(子豚の丸焼き)などがある。

(3)上海料理

海に近いため、魚やえびなどの海産物をたっぷりつかう。また、湖や川も多く、くせのある味の魚などもつかうため、味つけは濃く、比較的あぶらっこいのが特徴。代表的な料理には、ボウジュウヤンロウ(羊の肉と臓物の水煮)、ダァヂアシェ(上海蟹)などがある。

(4)北京料理

北京は古くから中国の首都であったため、各地方の料理人が集まり、優雅な料理が発達しました。砂糖はあまりつかわず、やや濃い味が特徴だ。北京ダック、カオヤンロウ(羊の焼肉)が有名である。

4・1・3 中華料理の歴史と現代の中華料理

中国の調理は、数千年にわたる創造、模索、経験の蓄積を通じて形成された歴史的な集大成であり、長い歴史を持つ中国文明の有機的構成部分である。

中国の料理と食品はその種類にしても、風味と調理技術にしても、いずれも豊富多彩である。

四川料理、山東料理、江蘇料理、広東料理の四大料理のほか、風味の異なる多くの地方料理および数千種の地方の軽食、異なった民族的風味を持つ料理や食品が形成された。

 山東料理は春秋戦国時代の斉と魯(今の山東一帯)を起源とするものであり、材料の選択を重視し、包丁さばき(切り方)が細かく、調理法が全面的で完備し、味付けが適切で、火加減もちょうどよく、口当りがよく、スープが材料のもとの味を保つことがその特徴である。

山東料理は基本的に中国北部をカバーする中国北部料理の代表格とも言え、明朝、清朝の宮廷料理の中にもたくさん吸収されている。

 四川料理は昔の巴と蜀(今の四川省一帯)にさかのぼることができる。

四川料理は広い範囲から材料を選び、味加減も変化に富み、さまざまな風味のも

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