中国怪奇小说集3 开会の辞 冈本绮堂.docx
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中国怪奇小说集3开会の辞冈本绮堂
中国怪奇小説集岡本綺堂
開会の辞
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:
ルビ
(例)青蛙堂《せいあどう》は
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ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)秋雨|瀟々《しょうしょう》
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青蛙堂《せいあどう》は小石川《こいしかわ》の切支丹坂《きりしたんざか》、昼でも木立ちの薄暗いところにある。
中国怪奇小説集
捜神記(六朝)
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:
ルビ
(例)六朝《りくちょう》時代
|:
ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)秋雨|瀟々《しょうしょう》
[#]:
入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JISX0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「けものへん+矍」、23-4]猿
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主人の「開会の辞」が終った後、第一の男は語る。
「唯今御主人から御説明がありました通り、今晩のお話は六朝《りくちょう》時代から始める筈で、わたくしがその前講《ぜんこう》を受持つことになりました。
なんといっても、この時代の作で最も有名なものは『捜神記』で、ほとんど後世《こうせい》の小説の祖をなしたと言ってもよろしいのです。
この原本の世に伝わるものは二十巻で、晋《しん》の干宝《かんぽう》の撰《せん》ということになって居ります。
干宝は東晋の元帝《げんてい》に仕えて著作郎《ちょさくろう》となり、博覧強記をもって聞えた人で、ほかに『晋紀』という歴史も書いて居ります。
、但し今日になりますと、干宝が『捜神記』をかいたのは事実であるが、その原本は世に伝わらず、普通に流布するものは偽作《ぎさく》である。
たとい全部が偽作でなくても、他人の筆がまじっているという説が唱えられて居ります。
これは清朝《しんちょう》初期の学者たちが言い出したものらしく、また一方には、たといそれが干宝の原本でないとしても、六朝時代に作られたものに相違ないのであるから、後世の人間がいい加減にこしらえた偽作とは、その価値が大いに違うという説もあります。
こういうむずかしい穿索《せんさく》になりますと、浅学のわれわれにはとても判りませんから、ともかくも昔から言い伝えの通りに、晋の干宝の撰ということに致して置いて、すぐに本文《ほんもん》の紹介に取りかかりましょう」
首の飛ぶ女
秦《しん》の時代に、南方に落頭民《らくとうみん》という人種があった。
その頭《かしら》がよく飛ぶのである。
その人種の集落に祭りがあって、それを虫落《ちゅうらく》という。
その虫落にちなんで、落頭民と呼ばれるようになったのである。
呉《ご》の将、朱桓《しゅかん》という将軍がひとりの下婢《かひ》を置いたが、その女は夜中に睡《ねむ》ると首がぬけ出して、あるいは狗竇《いぬくぐり》から、あるいは窓から出てゆく。
その飛ぶときは耳をもって翼《つばさ》とするらしい。
そばに寝ている者が怪しんで、夜中にその寝床を照らして視《み》ると、ただその胴体があるばかりで首が無い。
からだも常よりは少しく冷たい。
そこで、その胴体に衾《よぎ》をきせて置くと、夜あけに首が舞い戻って来ても、衾にささえられて胴に戻ることが出来ないので、首は幾たびか地に堕《お》ちて、その息づかいも苦しく忙《せわ》しく、今にも死んでしまいそうに見えるので、あわてて衾を取りのけてやると、首はとどこおりなく元に戻った。
こういうことがほとんど毎夜くり返されるのであるが、昼のあいだは普通の人とちっとも変ることはなかった。
それでも甚だ気味が悪いので、主人の将軍も捨て置かれず、ついに暇《ひま》を出すことになったが、だんだん聞いてみると、それは一種の天性で別に怪しい者ではないのであった。
このほかにも、南方へ出征の大将たちは、往々《おうおう》こういう不思議の女に出逢った経験があるそうで、ある人は試みに銅盤をその胴体にかぶせて置いたところ、首はいつまでも戻ることが出来ないで、その女は遂に死んだという。
※[#「けものへん+矍」、23-4]猿
蜀《しょく》の西南の山中には一種の妖物《ようぶつ》が棲んでいて、その形は猿に似ている。
身のたけは七尺ぐらいで、人の如くに歩み、且《か》つ善く走る。
土地の者はそれを※[#「けものへん+暇のつくり」、第4水準2-80-45]国《かこく》といい、又は馬化《ばか》といい、あるいは※[#「けものへん+矍」、23-7]猿《かくえん》とも呼んでいる。
かれらは山林の茂みに潜《ひそ》んでいて、往来の婦女を奪うのである。
美女は殊に目指される。
それを防ぐために、ここらの人たちが山中を行く時には、長い一条の縄をたずさえて、互いにその縄をつかんで行くのであるが、それでもいつの間にか、その一人または二人を攫《さら》って行かれることがしばしばある。
かれらは男と女の臭《にお》いをよく知っていて、決して男を取らない。
女を取れば連れ帰って自分の妻とするのであるが、子を生まない者はいつまでも帰ることを許されないので、十年の後には形も心も自然にかれらと同化して、ふたたび里へ帰ろうとはしない。
もし子を生んだ者は、母に子を抱かせて帰すのである。
しかもその子を育てないと、その母もかならず死ぬので、みな恐れて養育することにしているが、成長の後は別に普通の人と変らない。
それらの人間はみな楊《よう》という姓を名乗っている。
今日、蜀の西南地方で楊姓を呼ばれている者は、大抵その妖物の子孫であると伝えられている。
琵琶鬼
呉《ご》の赤烏《せきう》三年、句章《こうしょう》の農夫|楊度《ようたく》という者が余姚《よちょう》というところまで出てゆくと、途中で日が暮れた。
ひとりの少年が琵琶《びわ》をかかえて来て、楊の車に一緒に載せてくれというので、承知して同乗させると、少年は車中で琵琶数十曲をひいて聞かせた。
楊はいい心持で聴いていると、曲終るや、かの少年は忽《たちま》ち鬼のような顔色に変じて、眼を瞋《いか》らせ、舌を吐いて、楊をおどして立ち去った。
それから更に二十里(六|丁《ちょう》一里。
日本は三十六丁で一里)ほど行くと、今度はひとりの老人があらわれて、楊の車に載せてくれと言った。
前に少しく懲《こ》りてはいるが、その老いたるを憫《あわ》れんで、楊は再び載せてやると、老人は王戒《おうかい》という者であるとみずから名乗った。
楊は途中で話した。
「さっき飛んだ目に逢いました」
「どうしました」
「鬼がわたしの車に乗り込んで琵琶を弾きました。
鬼の琵琶というものを初めて聴きましたが、ひどく哀《かな》しいものですよ」
「わたしも琵琶をよく弾きます」
言うかと思うと、かの老人は前の少年とおなじような顔をして見せたので、楊はあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで気をうしなった。
兎怪《とかい》
これも前の琵琶鬼とやや同じような話である。
魏《ぎ》の黄初《こうしょ》年中に或る人が馬に乗って頓邱《とんきゅう》のさかいを通ると、暗夜の路ばたに一つの怪しい物が転《ころ》がっていた。
形は兎《うさぎ》のごとく、両眼は鏡の如く、馬のゆくさきに跳《おど》り狂っているので、進むことが出来ない。
その人はおどろき懼《おそ》れて遂に馬から転げおちると、怪物は跳りかかって彼を掴《つか》もうとしたので、いよいよ懼れて一旦は気絶した。
やがて正気に戻ると、怪物の姿はもう見えないので、まずほっとして再び馬に乗ってゆくと、五、六里の後に一人の男に出逢った。
その男も馬に乗っていた。
いい道連れが出来たと喜んで話しながら行くうちに、彼は先刻の怪物のことを話した。
「それは怖ろしい事でした」と、男は言った。
「実はわたしも独りあるきはなんだか気味が悪いと思っているところへ、あなたのような道連れが出来たのは仕合わせでした。
しかしあなたの馬は疾《はや》く、わたしの馬は遅い方ですから、あとさきになって行きましょう」
彼の馬をさきに立たせ、男の馬があとに続いて、又しばらく話しながら乗ってゆくと、男は重ねてかの怪物の話をはじめた。
「その怪物というのは、どんな形でした」
「兎のような形で、二つの眼が鏡のように晃《ひか》っていました」
「では、ちょいと振り返ってごらんなさい」
言われて何心なく振り返ると、かの男はいつの間にか以前の怪物とおなじ形に変じて、前の馬の上へ飛びかかって来たので、彼は馬から転げおちて再び気絶した。
かれの家では、騎手《のりて》がいつまでも帰らず、馬ばかりが独り戻って来たのを怪しんで、探しに来てみると右の始末で、彼はようように息をふき返して、再度の怪におびやかされたことを物語った。
宿命
陳仲挙《ちんちゅうきょ》がまだ立身《りっしん》しない時に、黄申《こうしん》という人の家に止宿《ししゅく》していた。
そのうちに、黄家の妻が出産した。
出産の当時、この家の門を叩《たた》く者があったが、家内の者は混雑にまぎれて知らなかった。
暫《しばら》くして家の奥から答える者があった。
「客座敷には人がいるから、はいることは出来ないぞ」
門外の者は答えた。
「それでは裏門へまわって行こう」
それぎりで問答の声はやんだ。
それからまた暫くして、内の者も裏門へまわって帰って来たらしく、他の一人が訊《き》いた。
「生まれる子はなんという名で、幾歳《いくつ》の寿命をあたえることになった」
「名は奴《ど》といって、十五歳までの寿命をあたえることになった」と、前の者が答えた。
「どんな病気で死ぬのだ」
「兵器で死ぬのだ」
その声が終ると共に、あたりは又ひっそりとなった。
陳はその問答をぬすみ聴いて奇異の感に打たれた。
殊にその夜生まれたのは男の児で、その名を奴と付けられたというのを知るに及んで、いよいよ不思議に感じた。
彼はそれとなく黄家の人びとに注意した。
「わたしは人相《にんそう》を看《み》ることを学んだが、この子は行くゆく兵器で死ぬ相がある。
刀剣は勿論《もちろん》、すべての刃物を持たせることを慎まなければなりませんぞ」
黄家の父母もおどろいて、その後は用心に用心を加え、その子にはいっさいの刃物を持たせないことにした。
そうして、無事に十五歳まで生長させたが、ある日のこと、棚の上に置いた鑿《のみ》がその子の頭に落ちて来て、脳をつらぬいて死んだ。
陳は後に予章《よしょう》の太守《たいしゅ》に栄進して、久しぶりで黄家をたずねた時、まずかの子供のことを訊くと、かれは鑿に打たれたというのである。
それを聞いて、陳は嘆息した。
「これがまったく宿命というのであろう」
亀の眼
むかし巣《そう》の江水がある日にわかに漲《みなぎ》ったが、ただ一日で又もとの通りになった。
そのときに、重量一万|斤《きん》ともおぼしき大魚が港口に打ち揚げられて、三日の後に死んだので、土地の者は皆それを割いて食った。
そのなかで、唯ひとりの老女はその魚を食わなかった。
その老女の家へ見識《みし》らない老人がたずねて来た。
「あの魚《さかな》はわたしの子であるが、不幸にしてこんな禍《わざわ》いに逢うことになった。
この土地の者は皆それを食ったなかで、お前ひとりは食わなかったから、私はおまえに礼をしたい。
城の東門前にある石の亀に注意して、もしその眼が赤くなったときは、この城の陥没《かんぼつ》する時だと思いなさい」
老人の姿はどこへか失《う》せてしまった。
その以来、老女は毎日かかさずに東門へ行って、石の亀の眼に異状があるか無いかを検《あらた》めることにしていたので、ある少年が怪しんでその子細を訊くと、老女は正直にそれを打ち明けた。
少年はいたずら者で、そんなら一番あの婆さんをおどかしてやろうと思って、そっとかの亀の眼に朱を塗って置いた。
老女は亀の眼の赤くなっているのに驚いて、早々にこの城内を逃げ出すと、青衣《せいい》の童子が途中に待っていて、われは龍の子であるといって、老女を山の高い所へ連れて行った。
それと同時に、城は突然に陥没して一面の湖《みずうみ》となった。
もう一つ、それと同じ話がある。
秦《しん》の始皇《しこう》の時、長水《ちょうすい》県に一種の童謡がはやった。
「御門《ごもん》に血を見りゃお城が沈む――」
誰が謡《うた》い出したともなしに、この唄がそれからそれへと拡がった。
ある老女がそれを気に病んで毎日その城門を窺《うかが》いに行くので、門を守っている将校が彼女をおどしてやろうと思って、ひそかに犬の血を城門に塗って置くと、老女はそれを見て、おどろいて遠く逃げ去った。
そのあとへ忽ちに大水が溢れ出て、城は水の底に沈んでしまった。
眉間尺
楚《そ》の干将莫邪《かんしょうばくや》は楚王の命をうけて剣を作ったが、三年かかって漸《ようや》く出来たので、王はその遅延を怒って彼を殺そうとした。
莫邪の作った剣は雌雄一対《しゆういっつい》であった。
その出来たときに莫邪の妻は懐妊して臨月に近かったので、彼は妻に言い聞かせた。
「わたしの剣の出来あがるのが遅かったので、これを持参すれば王はきっとわたしを殺すに相違ない。
おまえがもし男の子を生んだらば、その成長の後に南の山を見ろといえ。
石の上に一本の松が生えていて、その石のうしろに一口《ひとふり》の剣が秘めてある」
かれは雌剣一口だけを持って、楚王の宮へ出てゆくと、王は果たして怒った。
かつ有名の相者《そうしゃ》にその剣を見せると、この剣は雌雄一対あるもので、莫邪は雄剣をかくして雌剣だけを献じたことが判ったので、王はいよいよ怒って直ぐに莫邪を殺した。
莫邪の妻は男の子を生んで、その名を赤《せき》といったが、その眉間が広いので、俗に眉間尺《みけんじゃく》と呼ばれていた。
かれが壮年になった時に、母は父の遺言を話して聞かせたので、眉間尺は家を出て見まわしたが、南の方角に山はなかった。
しかし家の前には松の大樹があって、その下に大きい石が横たわっていたので、試みに斧《おの》をもってその石の背を打ち割ると、果たして一口の剣を発見した。
父がこの剣をわが子に残したのは、これをもって楚王に復讐せよというのであろうと、眉間尺はその以来、ひそかにその機会を待っていた。
それが楚王にも感じたのか、王はある夜、眉間の一尺ほども広い若者が自分を付け狙《ねら》っているという夢をみたので、千金の賞をかけてその若者を捜索させることになった。
それを聞いて、眉間尺は身をかくしたが、行くさきもない。
彼は山中をさまよって、悲しく歌いながら身の隠れ場所を求めていると、図《はか》らずも一人の旅客《たびびと》に出逢った。
「おまえさんは若いくせに、何を悲しそうに歌っているのだ」と、かの男は訊いた。
眉間尺は正直に自分の身の上を打ち明けると、男は言った。
「王はおまえの首に千金の賞をかけているそうだから、おまえの首とその剣とをわたしに譲れば、きっと仇を報いてあげるが、どうだ」
「よろしい。
お頼み申す」
眉間尺はすぐに我が手でわが首をかき落して、両手に首と剣とを捧げて突っ立っていた。
「たしかに受取った」と、男は言った。
「わたしは必ず約束を果たしてみせる」
それを聞いて、眉間尺の死骸は初めて仆《たお》れた。
旅の男はそれから楚王にまみえて、かの首と剣とを献じると、王は大いに喜んだ。
「これは勇士の首であるから、この儘《まま》にして置いては祟《たた》りをなすかも知れません。
湯※[#「獲」の「けものへん」に代えて「金へん」、第3水準1-93-41]《ゆがま》に入れて煮るがよろしゅうござる」と、男は言った。
王はその言うがままに、眉間尺の首を煮ることにしたが、三日を過ぎても少しも爛《ただ》れず、生けるが如くに眼を瞋《いか》らしているので、男はまた言った。
「首はまだ煮え爛れません。
あなたが自身に覗《のぞ》いて卸覧になれば、きっと爛れましょう」
そこで、王はみずから其の湯を覗きに行くと、男は隙《すき》をみてかの剣をぬき放し、まず王の首を熱湯《にえゆ》のなかへ切り落した。
つづいて我が首を刎《は》ねて、これも湯のなかへ落した。
眉間尺の首と、楚王の首と、かの男の首と、それが一緒に煮え爛れて、どれが誰だか見分けることが出来なくなったので、三つの首を一つに集めて葬ることにした。
墓は俗に三王の墓と呼ばれて、今も汝南《じょなん》の北、宜春《ぎしゅん》県にある。
宋家の母
魏《ぎ》の黄初《こうしょ》年中のことである。
清河《せいか》の宋士宗《そうしそう》という人の母が、夏の日に浴室へはいって、家内の者を遠ざけたまま久しく出て来ないので、人びとも怪しんでそっと覗《のぞ》いてみると、浴室に母の影は見えないで、水風呂のなかに一頭の大きいすっぽんが浮かんでいるだけであった。
たちまち大騒ぎとなって、大勢が駈け集まると、見おぼえのある母のかんざしがそのすっぽんの頭の上に乗っているのである。
「お母さんがすっぽんに化けた」
みな泣いて騒いだが、どうすることも出来ない。
ただ、そのまわりを取りまいて泣き叫んでいると、すっぽんはしきりに外へ出たがるらしい様子である。
さりとて滅多《めった》に出してもやられないので、代るがわるに警固しているあいだに、あるとき番人の隙《すき》をみて、すっぽんは表へ這い出した。
又もや大騒ぎになって追いかけたが、すっぽんは非常に足が疾《はや》いので遂に捉えることが出来ず、近所の川へ逃げ込ませてしまった。
それから幾日の後、かのすっぽんは再び姿をあらわして、宋の家のまわりを這い歩いていたが、又もや去って水に隠れた。
近所の人は宋にむかって母の喪服を着けろと勧めたが、たとい形を変じても母はまだ生きているのであると言って、彼は喪服を着けなかった。
青牛
秦《しん》の時、武都《ぶと》の故道に怒特《どとく》の祠《やしろ》というのがあって、その祠のほとりに大きい梓《あずさ》の樹が立っていた。
秦の文公《ぶんこう》の、二十七年、人をつかわしてその樹を伐らせると、たちまちに大風雨が襲い来たって、その切り口を癒合《ゆごう》させてしまうので、幾日を経ても伐り倒すことが出来ない。
文公は更に人数を増して、四十人の卒に斧《おの》を執《と》らせたが、なおその目的を達することが出来ないので、卒もみな疲れ果てた。
その一人は足を傷つけて宿舎へも帰られず、かの樹の下に転がったままで一夜を明かすと、夜半に及んで何者か尋ねて来たらしく、樹にむかって話しかけた。
「戦いはなかなか骨が折れるだろう」
「なに、骨が折れるというほどのことでもない」と、樹のなかで答えた。
一人がまた言った。
「しかし文公がいつまでも強情《ごうじょう》にやっていたら、仕舞いにはどうする」
「どうするものか。
根《こん》くらべだ」
「そう言っても、もし相手の方で三百人の人間を散らし髪にして、赭《あか》い着物をきせて、朱《あか》い糸でこの樹を巻かせて、斧を入れた切り口へ灰をかけさせたら、お前はどうする」
樹の中では黙ってしまった。
樹の下に寝ていた男はその問答を聞きすまして、明くる日それを申し立てたので、文公は試みにその通りにやってみることにした。
三百人の士卒が赭い着物をきて、散らし髪になって、朱い糸を樹の幹にまき付けて、斧を入れるごとに其の切り口に灰をそそぐと、果たして大樹は半分ほども撃ち切られた。
そのとき一頭の青い牛が樹の中から走り出て、近所の※[#「さんずい+豊」、第3水準1-87-20]水《ほうすい》という河へ跳り込んだ。
これで目的の通りに、梓の大樹を伐り倒すことが出来たが、青牛はその後も※[#「さんずい+豊」、第3水準1-87-20]水から姿をあらわすので、騎士をつかわして撃たせると、牛はなかなか勢い猛《たけ》くして勝つことが出来ない。
その闘いのあいだに、一人の騎士は馬から落ちて散らし髪になった。
彼はそのままで再び鞍《くら》にまたがると、牛はその散らし髪におそれて水中に隠れた。
その以来、秦では旄頭騎《ぼうとうき》というものを置くことになった。
青い女
呉郡の無錫《むしゃく》という地には大きい湖《みずうみ》があって、それをめぐる長い坡《どて》がある。
坡を監督する役人は丁初《ていしょ》といって、大雨のあるごとに破損の個所の有無を調べるために、披のまわりを一巡するのを例としていた。
時は春の盛りで、雨のふる夕暮れに、彼はいつものように披を見まわっていると、ひとりの女が上下ともに青い物を着けて、青い繖《かさ》をいただいて、あとから追って来た。
「もし、もし、待ってください」
呼ばれて、丁初はいったん立ちどまったが、また考えると、今頃このさびしい所を女ひとりでうろ付いている筈がない。
おそらく妖怪であろうと思ったので、そのまま足早にあるき出すと、女もいよいよ足早に追って来た。
丁はますます気味が悪くなって、一生懸命に駈け出すと、女もつづいて駈け出したが、丁の逃げ足が早いので、しょせん追い付かないと諦《あきら》めたらしく、女は俄かに身をひるがえして水のなかへ飛び込んだ。
かれは大きな蒼い河獺《かわうそ》で、その着物や繖と見えたのは青い荷《はす》の葉であった。
祭蛇記
東越《とうえつ》の※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]中《みんちゅう》に庸嶺《ようれい》という山があって、高さ数十里といわれている。
その西北の峡《かい》に長さ七、八丈、太さ十囲《とかか》えもあるという大蛇《だいじゃ》が棲《す》んでいて、土地の者を恐れさせていた。
住民ばかりか、役人たちもその蛇の祟《たた》りによって死ぬ者が多いので、牛や羊をそなえて祭ることにしたが、やはりその祟りはやまない。
大蛇は人の夢にあらわれ、または巫女《みこ》などの口を仮りて、十二、三歳の少女を生贄《いけにえ》にささげろと言った。
これには役人たちも困ったが、なにぶんにもその祟りを鎮める法がないので、よんどころなく罪人の娘を養い、あるいは金を賭《か》けて志願者を買うことにして、毎年八月の朝、ひとりの少女を蛇の穴へ供えると、蛇は生きながらにかれらを呑んでしまった。
こうして、九年のあいだに九人の生贄をささげて来たが、十年目には適当の少女を見つけ出すのに苦しんでいると、将楽《しょうらく》県の李誕《りたん》という者の家には男の子が一人もなくて、女の子ばかりが六人ともにつつがなく成長し、末子《ばっし》の名を寄《き》といった。
寄は募りに応じて、ことしの生贄に立とうと言い出したが、父母は承知しなかった。
「しかしここの家《うち》には男の子が一人もありません。
厄介者の女ばかりです」と、寄は言った。
「わたし達は親の厄介になっているばかりで何の役にも立ちませんから、いっそ自分のからだを生贄にして、そのお金であなた方を少しでも楽にさせて上げるのが、せめてもの孝行というものです」
それでも親たちはまだ承知しなかったが、しいて止めればひそかにぬけ出して行きそうな気色《けしき》であるので、親たちも遂に泣く泣くそれを許すことになった。
そこで、寄は一口《ひとふり》のよい剣と一匹の蛇喰い犬とを用意して、いよいよ生贄にささげられた。
大蛇の穴の前には古い廟があるので、寄は剣をふところにして廟のなかに坐っていた。
蛇を喰う犬はそのそばに控えていた。
彼女はあらかじめ数石《すうこく》の米を炊《かし》いで、それに蜜をかけ