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古代生活の研究

古代生活の研究

常世の国

折口信夫

-------------------------------------------------------

【テキスト中に現れる記号について】

《》:

ルビ

(例)為来《シキタ》り

|:

ルビの付く文字列の始まりを特定する記号

(例)東京|様《ヤウ》

[#]:

入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定

(例)謂はゞむだ[#「むだ」に傍点]とも思はれる

 [#(…)]:

訓点送り仮名

 (例)藤原[#(ノ)]宮の

/\:

二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

(例)いろ/\

-------------------------------------------------------

     一 生活の古典

明治中葉の「開化」の生活が後ずさりをして、今のあり様に落ちついたのには、訣がある。

古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて清新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだ[#「むだ」に傍点]とも思はれる様式の、由来不明なる「為来《シキタ》り」によつて、純粋にせられる事が多い。

其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与へる。

門松を樹《タ》てた後の心持ちのやすらひ[#「やすらひ」に傍線]を考へて見ればよい。

日の丸の国旗を軒に出した時とは、心の底の歓び――下笑《シタヱ》ましさとでも言ふか――の度が違ふ。

所謂「異教」の国人の私どもには、何の掛り合ひもないくりすます[#「くりすます」に傍線]の宵の燈に、胸の躍るを感じるのは、古風な生活の誘惑に過ぎまい。

くりすます[#「くりすます」に傍線]の木も、さんた・くろうす[#「さんた・くろうす」に傍線]も、実はやはり、昔の耶蘇教徒が異教の人々の「生活の古典」のみやびやかさ[#「みやびやかさ」に傍線]を見棄てる気になれないで、とり込んだものであつたのである。

家庭生活・郷党生活に「しきたり」を重んずる心は、近代では著しく美的に傾いてゐる。

大隅の海村から出た会社員の亭主と、磐城の山奥から来た女学生あがりの女房との新家庭には、どんな春が迎へられてゐるだらう。

東京|様《ヤウ》を土台にして、女夫《メヲト》双方のほのかな記憶を入りまじへた正月の祝儀が行はれてゐるに違ひない。

さうした寂しい初春にも、やすらひ[#「やすらひ」に傍線]と下ゑましさ[#「下ゑましさ」に傍線]とが、家の気分をずつと古風にしてゐることゝ思ふ。

生活の古典なるしきたり[#「しきたり」に傍線]が、新しい郷党生活にそぐはない場合が多い。

度々の申し合せで、其改良を企てゝも、やはり不便な旧様式の方に綟《ヨ》りを戻しがちなのは、其中から「美」を感じようとする近世風よりは、更に古く、ある「善」――尠くとも旧文化の勢力の残つた郷党生活では――を認めてゐるからである。

此「善」の自信が出て来たのは、辿れば辿る程、神の信仰に根ざしのある事が顕れて来る。

数年前「東《ヒガシ》」の門徒が、此までかた[#「かた」に傍点]門徒連のやつた宗風のすたれるのを歎いて「雑行雑修《ザフギヤウザフシユ》をふりすてゝ」と言ふ遺誡をふりかざして、門松|標《シ》め縄を廃止にしようとした時は、一騒動があつた。

攻撃した人達も「年飾《トシカザ》り」をやめる事が、国人としての気分の稀薄になつた証拠だといふ論拠を深く示さうとしなかつた。

唯漠然と道徳的でない感じがしたと言ふ程の処にあつた様である。

処があれなどは、神道家がもつと考へて見なければならない古義神道、或は「神道以前」の考察を疎かにしてゐた証拠になるのである。

陰陽神道・両部神道・儒教的神道・衛生神道・常識神道などに安住して、自由に古代研究をせなかつた為である。

古代研究家の思ひを凝さねばならぬのは、私どもの祖先からくり返して来た由来不明のしきたり[#「しきたり」に傍線]が、時にはさうした倫理内容まで持つて来た訣についてゞある。

言ふまでもない。

神に奉仕するものゝ頼りと、あやまち[#「あやまち」に傍点]を罪と観ずる心持ちである。

此が信仰から出てゐるものと見ないで、何と言はう。

神道家の神道論にもいろ/\ある。

私の思ふ所をぶつきらぼう[#「ぶつきらぼう」に傍点]に申せば、文献の上に神道と称せられてゐる用語例は、大体二つにはひつて来る。

素朴な意義は、神の意思の存在を古代生活の個々の様式に認めて言ふのであつた。

併し、畢竟は、其等古代生活を規定する統一原理と言ふ事に落ちつく様である。

其を対象とする学問が、私どもの伝統を襲いで来てゐる「国学」である。

だから、神道の帰する所は、日本本来の宗教及び古代生活の軌範であり、国学は神道の為の神学、言ひ換へれば、古代生活研究の一分科を受け持つものなのである。

神道の意義は、明治に入つて大に変化してゐる。

憲法に拠る自由信教を超越する為に、倫理内容を故意に増して来た傾きがある。

出発点が宗教であり、過程が宗教であり、現にも宗教的色彩の失はれきつて居ぬ所を見れば、神道を宗教の基礎に立つ古代生活の統一原理と見、其信仰様式がしきたり[#「しきたり」に傍線]として、後代に、道徳・芸術、或は広意義の生活を規定したと見て、よいと思ふ。

日本の古代生活は、此まであまりに放漫な研究態度でとり扱はれて来た。

江戸時代に、あれまで力強く働いた国学の伝統は、明治に入つて飛躍力を失うた。

為に、外側からの研究のみ盛んに行はれた。

古代人の内部の生活力を身に動悸うたせて、再現に努めようとする人はなくなつた。

数種の文献に遺つた単語は、世界の古国や、辺陬の民族の語彙と、無機的に比較研究せられた。

此は伝統的事業を固定させてゐた私どものしくじりであつた。

私どもはまづ、古代文献から出発するであらう。

さうして其註釈としては、なるべく後代までながらへてゐた、或は今も纔かに遺つてゐる「生活の古典」を利用してゆきたい。

時としては、私どもと血族関係があり、或は長い隣人生活を続けて来たと見える民族のしきたり[#「しきたり」に傍線]、又は現実生活と比べて、意義を知らうと思ふ。

稀には「等しい境遇が、等しい生活及び伝承を生む」と言ふ信ずべき仮説の下《モト》に、かけ離れた国々の人の生活・しきたり[#「しきたり」に傍線]を孕んだ心持ちから、暗示を受けようと考へてゐる。

三月の雛祭り・端午の節供・七夕・盂蘭盆・八朔……などを中心に、私どものやすらひ[#「やすらひ」に傍線]を感じるしきたり[#「しきたり」に傍線]が毎年くり返へされる。

江戸の学者が、一も二もなく外来風習ときめたものゝ中にも、多くは、固有の種がまじつてゐる。

私は、今門松の事を多く言うた縁から、元旦大晦日に亘るしきたり[#「しきたり」に傍線]の最初の俤を考へて、古代研究の発足地をつくる。

     二 ふる年の夢・新年の夢

海のあなたの寂《シヅ》かな国の消息を常に聞き得た祖先の生活から、私の古代研究の話は、語りはじめるであらう。

其は、暦の語原たる「日|数《ヨ》み」の術を弁へた人によつて、月日の運り・気節の替り目が考へられ、生産のすべての方針が立てられた昔から説き起す。

暦法が行はれても、やはり前々の印象から、新暦に対立して、日よみ[#「日よみ」に傍線]の術が行はれて居り、昔、日よみ[#「日よみ」に傍線]を以て民に臨んだ人の末が、国々に君となり、旧来の伝承は、其部下の一つの職業団体の為事として、受け継がれてゐるやうになつてゐた。

大倭の国家が意識せられた頃には、もう此状態に進んでゐた。

暦法は、最遅く移動して来たと思はれる出石人《イヅシビト》(南方漢人)などの用ゐたものが、一等進んでゐたであらう。

道・釈の教が、記録の指定する年代よりも遥か以前に、非公式に将来せられてゐたのと同様、暦法も亦、史の書き留めを超越してゐるものと見てよい。

天日矛《アメノヒボコ》や、つぬがのあらしと[#「つぬがのあらしと」に傍線]などを帰化民団と見ずに、侵入者と認めた時代の、古渡《コワタ》りの流寓民の村々にくつゝいて渡つて来たものと思はれる。

だから、表向き新暦法の将来せられた時は、ずつと遅れる訣である。

唯一般になつたと言ふまでゞあらう。

かうした村々で、色々な暦法を用ゐ、又次第に相融通するやうになりかけた時代に跨つて話を進める。

従つて記録の上では、新暦の時代に入つてゐても、古代研究の立場からは逆にまた、新旧暦雑多の時代と見ねばならぬことも多い。

概算する事も出来ないが、祖先が、日本人としての文明を持ち出した事は、今の懐疑式の高等批評家の空想してゐる所よりも、ずつと古代にあると考へねばならない多くの事実を見てゐる。

此古代研究の話も、落ちつく所は、その荒見当を立てる位の事になるであらう。

考証と推理とに、即かず離れないで、歩み続けなければならないのは、記録の信じられない時代を対象とする学問の採るべきほんとうの道である。

暦の話ばかりでなく、古代を考へるものが、ある年数を経た後世の合理観を多量に交へた記録にたよる程、却つてあぶないものはない。

私は大体見当を、大昔と言ふ処に据ゑて話してゆきたい。

そこには既に、明らかに国家意識を持つた民もあれば、まだ村々の生活にさへ落ちつかなかつた人々もあつたものと、見て置いて頂きたい。

強ひて問はれゝば、飛鳥の都以前を中心にしてゐるのだが、時としては飛鳥は勿論、藤原の都の世にも、同様の生活様式を見出す事もあり、更にさがつて奈良の時代にも、古代生活の俤を見る事があらう。

私の言ひ慣れた言ひ方からすれば、即、万葉びと以前及び万葉人の生活に通じて、古い種を択り分けながらお話する次第である。

陰暦・陽暦・一と月遅らし[#「一と月遅らし」に傍点]と、略《ほぼ》三通りの暦法をまち/\に用ゐてゐる町々村々が、境を接して居ると言ふ現状も、実は由来久しい事なのである。

暦法を異にした古代の村々が、段々帰一して来る間に、其々の暦に絡んだ風習が、互にこんがらかつて来て、極めて複雑な民間年中行事をつくる様になつた。

譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月(上元)、節分と立春との関係を見ると、元々違つた其々の日の意味が、互に接近して考へられて来たのは事実である。

私は暦の上に、元日と立春との区別の茫漠としてゐた昔語りを試みる。

     三 夜牀の穢れ

地震以後「お宝々々」「厄払ひませう」も聞く事稀に、春も節分も寂しくばかりなつて行く。

「生活の古典」が重んぜられてゐた東京の町がかうでは、今の中に意義を話して、偲びぐさとしたくなる。

宝船は、初夢と関聯してゐる為に、聡明な嬉遊笑覧の著者さへも、とんだ間違ひをして、初夢を節分の夜に見るものを言ふとしてゐる。

元は、宝船が役をすました後に現れる夢を、初夢と言うたらしいのである。

だが、暦法のこぐらがり[#「こぐらがり」に傍点]から、初夢と宝船とが全然離れ/\になつたり、宝船その物が、好ましい初夢を載せて来るものゝ様に考へ縺らかしたりして了うたのであつた。

初夢と宝船とに少しの距離を措く必要があつたからこそ、江戸の二日初夢などの風が出来た。

除夜の夢と新年の夢とには、区別を立てねばならなかつた。

除夜の夢の為の宝船が、初夢と因縁深くなつてからは、さうした隠約の間の記憶は二つの間に区劃をつけて居るに拘らず、初夢のつき物として、宝船まで二日の夜に用ゐられるのであつた。

ともかくも初夢が、元朝目の覚めるに先《さきだ》つて、見られたものを斥《サ》した事は疑ひがない。

処で、宝船の方は、節分の夜か除夜かに使ふのが原則であつた。

宮廷や貴族の家々で、其家内に起居する者は勿論、出入りの臣下に船の画を刷つた紙を分け与へることは、早く室町時代からあつた。

牀の下に敷いて寝た其紙は、翌朝集めて流すか、埋めるかして居る。

だから、此船は悪夢を積んで去るものと考へたところから出た事が解る。

今見る事の出来る限りの宝船の古図は、其が昔物ほど簡単で、七福神などは載せては居ない。

併しあまり形の素朴なものも却て、擬古のまやかし物と言ふ疑ひがあるから信じられないが、石橋臥波氏の研究によると、荒つぽい船の中に稲を数本書き添へたものが、一等古いものと考へられて居る。

画の脇に「かゞみのふね」と万葉書きがしてある。

次は米俵ばかりを積んだ小舟の画と言ふ順序である。

こゝまでは疑はしい。

が、其後の物になると帆じるしに「獏」の字があり、船の外に[#「又」に似た記号の図(fig18413_01.png)入る]のしるしが書いてある。

更に此が意匠化して、向ひ鍵の紋になり、獏の字も縁起のよい字か、紋所と変つて居る。

其からは段々七宝の類を積み込み、新しいところで、七福神を書きこんでゐる。

[#「又」に似た記号の図(fig18413_01.png)入る]のしるしは、疑ひもなく呪符[#「X」に似た記号の図(fig18413_02.png)入る]の転化したものであり、此画まで来る間に年月のたつて居る事を見せて居る。

獏は、凶夢を喰はせる為であるから、「夢|違《チガ》へ」又は「夢|払《ハラ》へ」の符と考へられて居たに違ひない。

一代男を見ても、「夢違ひ獏の符《フダ》」と宝船とが別物として書かれて居る。

畢竟除夜又は節分の夜、去年中の悪夢の大掃除をして流す船で、室町の頃には、節分御船など言はれたものが、いつか宝船に変つたのであつた。

船にすつかり乗せて了うた後、心安らかに元旦又は立春の朝の夢を見たものであつた。

かう言ふ風に、殆ど一紙の隔てもない処から、初夢を守る為の物と言ふ考へも出て来た。

逐ひやらふべき船が、かうして宝の入り舟として迎へられる事になつた訣だ。

が、宝船元を洗へば獏の符なのであつた。

更に原形に溯つて見ると、単に夢を祓ふ為ではなかつたらう。

神聖なる霊の居処と見られた臥し処に堆積した有形無形数々の畏るべき物・忌むべき物・穢はしい物を、物に托して捐《す》てゝ、心すがしい霊のおちつき場所をつくる為である。

(臥し処・居処を其人の人格の一部と見たり、其を神聖視する信仰は、古代は勿論近世までもあつた。

此風習の起りの一部分は、確かに上流にある。

上から下に船の画を与へる様子は、大祓その儘である。

穢れた部分全体を托するものとして「形代」と言ふ物が用ゐられた。

此で群臣の身を撫でさせたのを、とり集めて水に流したのが、大祓の式の一等衰へた時代の姿であつた。

此船の画は、とりも直さず大祓式の分岐したものなる事は、其行ふ日からしても知れる。

其上、尚、大殿祭《オホトノホカヒ》に似た意味も含まれてゐる。

其家屋に住み、出入りする者に負せた一種の課役のやうなものである。

其等の無事息災よりも、まづ其人々の宗教的罪悪(主として触穢《ソクヱ》)の為に、主人の身上家屋に禍ひの及ばない様にするのであつた。

此風が陰陽師《オンミヤウジ》等の手にも移つたものと見えて、形代に種類が出来て、禊《ミソギ》の為の物の外、かうした意味の物が庶民にも頒たれる様になり、遂には呪符の様な観念が結ばれて来たらしい。

神社などの中にも「夢違ひ」の呪符の意味で、除夜・節分の参詣者に与へる向きが出来たのである。

併しかうした風習の民間に流布したのは、陰陽師の配下の唱門師等の口過ぎに利用した結果が多いのである。

けれども、此が庶民の間にとり容れられたには訣がある。

前々からあつた似た種に、新来の様式がすつぽり[#「すつぽり」に傍点]とあてはまつたからなのだ。

宝船に書き添へた意味不明の廻文歌「ながき夜のとおの眠《ネブ》りの皆目覚め……」は一種の呪文である。

不徹底な処に象徴的な効果があるのだが、釈《とけ》る部分の上の句は、人間妄執の長夜の眠りを言ふ様ではあるが、実は熟睡を戒しめた歌らしい。

海岸・野山の散居に、深寝入りを忌んだ昔の生活が、今も島人・山民などの間に残つて居る。

夜の挨拶には「お安み」の代りに「お寝敏《イザト》く」の類の語《ことば》を言ひ交す地方が、可なりある。

此考へが合理的になると、百姓の夜なべ為事に居眠りを戒しめるものとして「ねむりを流す」風習が、随分行はれて居る。

柳田国男先生の考へでは、奥州の佞武多《ネブタ》祭りも、夜業の敵なる睡魔を祓へる式だとせられて居る。

熟睡を戒しめる必要のなくなつた為に、さうした解釈をして、大昔の祖先からの戒しめを、無意味に守つて居るのである。

此「眠り流し」の風も元は、船に積む形を採つた事と思はれる。

     四 蚤の浄土

而も、まだ海河に祓へ捐つべき物が、臥し処には居る。

其は牀虫の類で、蚤を以て代表させて居る。

おなじ奥州仙台附近には「蚤の船」と言ふ草がある。

節分の夜(?

)に、其葉を寝牀の下に敷いて寝れば、蚤は其葉に乗つて去ると伝へてゐるよしを谷川磐雄氏から聞いた。

さて、其牀虫は「蚤の船」に便乗して、どこへ流れて行くのか。

縁もゆかりもなさ相な琉球本島では、初夏になると、蚤は麦稈の船に乗つて、麦稈の竿をさして、にらいかない[#「にらいかない」に傍線]からやつて来ると言ひ「にらいかない[#「にらいかない」に傍線]へ去つて了へ」と言うて蚤を払ふ。

にらいかない[#「にらいかない」に傍線]の説明が私どもの祖先の考へて居たとこよの国[#「とこよの国」に傍線]と近よつて来るのである。

にらいかない[#「にらいかない」に傍線]と言ふのは、海の彼方の理想の国土で、神の国と考へられてゐる処である。

儀来河内《ギライカナイ》、じらいかない[#「じらいかない」に傍線]など、色々に発音する。

神はこゝから時に海を渡つて、人間の村に来るものと信じて居る。

人にして、死んでにらいかない[#「にらいかない」に傍線]に行つて、神となつたものゝ例として遺老説伝には記してゐる。

南方、先島《サキジマ》列島に行くと、此浄土の名をまやの国[#「まやの国」に傍線]といふ。

先島列島の中、殊に南の島々の寄百姓から出来た八重山の石垣島は、此場合挙げるのに便宜が多い。

宮良《メイラ》といふ村の海岩洞窟から通ふ地底の世界にいる[#「にいる」に傍線](又、にいる底《スク》)と言ふのがあるのは、にらい[#「にらい」に傍線]と同じ語である。

此洞からにいるびと[#「にいるびと」に傍線](にらい人[#「にらい人」に傍線])又はあかまた・くろまた[#「あかまた・くろまた」に傍線]と言ふ二体の鬼の様な巨人が出て、酉年毎に成年式を行はせることになつてゐる。

青年たちは神と言ふ信念から、其命ずる儘に苦行をする。

而も村人の群集する前に現れて、自身踊つて見せる。

暴風などもにいる[#「にいる」に傍線]から吹くと言つてゐる。

さう言へば、本島でも風凪ぎを祈つて「にらいかない[#「にらいかない」に傍線]へ去れ」と言ふことを伊波普猷氏が話された。

にらいかない[#「にらいかない」に傍線]は本島では浄土化されてゐるが、先島では神の国ながら、畏怖の念を多く交へてゐる。

全体を通じて、幸福を持ち来す神の国でもあるが、禍ひの本地とも考へて居るのである。

唯先島で更に理想化して居るのは、にいる[#「にいる」に傍線]を信じる村と、以前は違つた島々に違うた事情で住んでゐた村々の間で言ふ、まやの国[#「まやの国」に傍線]である。

春の初めにまやの神[#「まやの神」に傍線]・ともまやの神[#「ともまやの神」に傍線]の二神、楽土から船で渡つて来て、蒲葵《クバ》笠に顔を隠し、簑を着、杖をついて、家々を訪れて、今年の農作関係の事、其他家人の心をひき立てる様な詞を陳べて廻る。

つまり、祝言を唱へるのである。

にいるびと[#「にいるびと」に傍線]もやはり成年式のない年にも来て、まやの神[#「まやの神」に傍線]と同様に、家々に祝言を与へて歩くことをする。

     五 祖先の来る夜

かうした神々の来ぬ村では、家の神なる祖先の霊が、盂蘭盆のまつ白な月光の下を、眷属大勢ひき連れて来て、家々にあがりこむ。

此は考位《ヲトコカタ》の祖先の代表と謂ふ祖父《オシユメイ》と、妣位《ヲンナカタ》の代表と伝へる祖母《アツパア》と言ふのが、其主になつて居る。

大人前《オシユメイ》は、家人に色々な教訓を与へ、従来の過ち・手落ちなどを咎めたりする。

皆顔を包んで仮装してゐるのだから、評判のわるい家などでは、随分恥をかゝせる様なことも言ふ。

其家では、此に心尽しの馳走をする。

眷属どもは、楽器を奏し、芸尽しなどをする。

此行事は「あんがまあ」と言ふ。

語原は知れぬが、やはり他界の国土の名かと考へられる。

私はある夜此行列について歩いて、人いきれに蒸されながら考へた。

有名な「千葉笑ひ」、京都五条天神の「朮《ウケラ》参り」の悪口、河内野崎参りの水陸の口論、各地にあつたあくたい[#「あくたい」に傍線]祭りは、皆かうした所に本筋の源があるのではなからうか。

さう思つてゐる中に、大人前《オシユメイ》がずつと進んで出て、郡是として、其年から励行する事になつた節約主義を、哄笑を誘ふ様な巧みな口ぶりであてこすつた。

村の共通な祖先が出て来て、子孫の中の正統なる村君のやり口を難ずるのに対して、村君も手のつけ様がなかつた理由が知れる。

其が尚他の要素を含んで、あくたいの懸け合ひが生れて来たのであらう。

此三通りの人と神との推移の程度を示す儀式が、石垣一島に備つてゐるのである。

此神も人も皆、村の青年の択ばれた者が、厳重な秘密の下に、扮装して出るのである。

先島の祖先神は、琉球本島から見れば極めて人間らしいあり様を保つて居る。

にいる人[#「にいる人」に傍線]と言ふ名は、神の中に人間の要素を多く認めてゐるからなのである。

而も、島人の中には、にいる[#「にいる」に傍線]を以て奈落の首将と考へて居る人もある程に、畏怖せられる神である。

其は、地下の死後の世界の者で、二体と考へてゐるのは、大人前・祖母の対立と同じ意味であらう。

さすれば、死の国土に渡つて後、さうした姿になつたと考へたか、元々さうした者の子孫として居たのか識らぬが、同根の語のにらいかない[#「にらいかない」に傍線]の説明には役立つ。

にらい[#「にらい」に傍線]に対するかない[#「かない」に傍線]は対句として出来た語で、にらい[#「にらい」に傍線]が知れゝば、大体は釈ける。

にらいかない[#「にらいかない」に傍線]は元、村の人々の死後に霊の生きてゐる海のあなたの島である。

そこへは、海岸の地の底から通ふ事が出来ると考へる事もある。

「死の島」には、恐しいけれど、自分たちの村の生活に好意を期待することの出来る人々が居る。

かうした考へが醇化して来るに連れて、さうした島から年の中に時を定めて、村や家の祝福と教訓との為に渡つて来るものと考へる事になる。

而も、此記憶がさうなつて久しい後まで断篇風に残つて居て、楽土の元の姿を見せて居るのである。

琉球諸島の現在の生活――殊に内部――には、万葉人の生活を、その儘見る事も出来る。

又、万葉人以前の俤さへ窺はれるものも、決して尠くない。

私どもの古代生活の研究に、暗示と言ふより、其儘をむき出しにしてくれる事すら度々あつた。

私は今、日琉同系論を論じてゐるのではない。

唯、東亜細亜の民族と同系を論ずる態度と、一つに見られたくない。

此論が回数を重ねるほど、私の語は、愈《いよいよ》裏打ちせられてゆくであらう。

     六 根の国・底の国

祓禊《ハラヘミソギ》の基礎となる観念は、やはり唯海原に放つだけではなく、此土の穢れを受けとる海のあなたの国を考へて居たものと思はれる。

船に乗せて流す様式が、祓の系統にあると言ふ事は、其行き着く土を考へに持つて居るのである。

「かくかゝ呑みてば、気吹戸《イブキド》にいますいぶきどぬし[#「いぶきどぬし」に傍線]と言ふ神、根《ネ》の国・底《ソコ》の国にいぶき放ちてむ。

かくいぶき放ちてば、根の国・底の国にいますはやさすらひめ[#「はやさすらひめ」に傍線]と言ふ神、持ちさすらひ失ひてむ」とある六月晦大祓の詞は、必しも此土に居た古代人の代表的な考へと言ひきる事も出来まいし、又祝詞の伝誦が、久しく口頭に委ねられて居る間の自然の変化や、開化時代相応の故意の修正のある事が考へられるのであるから、多少注意はいる。

が、日本の宗教が神学体系らしいものを持つて後も根の国を海に絡めて言つて居るのは、唯の平地や山辺から入るものとし、単に地の底とばかり

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