土佐论文.docx
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土佐论文
* 本文章の執筆者は、以下の通りであり、その両名が著作権を有しているので、無断転載を禁じます。
(一)日本語での表現:
恩田 満(フロンティア・セミナー)
(二)中国語への翻訳:
徐 仙梅(広東外語外貿大学・大学院)
『土佐日記』
【作品解説】
土佐日記(とさにっき)は、九三〇(延長八)年から九三四(承平四)年の間、土佐の国司だった紀貫之(きのつらゆき)が土佐から京まで帰る五十五日間の出来事や心情を述べた日記で、土左日記(とさのにき)ともいう。
日本で最初の仮名日記と目されている。
成立は九三五(承平五)年ごろであろう。
貫之は、この日記を当時の男性が用いた漢文体で書かず、女性の作者を装って仮名文体で書いた。
日記と紀行文との内容を合わせ持つが、さらに、五十七首の和歌も含まれている。
作品の構成は、大きく三部に分けられる。
それは、
(一)出発から十二月二十六日までの、土佐を離れる際の送別会における人々の心情を述べた部分、
(二)十二月二十七日から翌年二月十四日までの、船旅の最中に引き起こされた人情の悲喜劇を描いた部分、(三)二月十五日と十六日の、上陸や歓迎会と帰宅の場面から成っている。
執筆の内容はさまざまであるが、中心的なものは、土佐の国で亡くなった愛娘を思う心情である。
この悲嘆に距離を置いて描こうとしたためか、「ある人」を登場させて客観性を持たせ、あたかも自分に仕える女房の行動や心理であるかのように描いたのである。
この日記は、その後の平仮名による表現、とくに女流日記に大きな影響を与えている。
『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品にも影響を及ぼした可能性は高いと見なされている。
【作品解说】
公元九三零年(延长八年)到九三四年,纪贯之任土佐国司,期满即将回京的他,以日记形式记录下了归途五十五天的见闻和心情,于是日本最早的假名日记《土佐日记》(或《土左日记》)诞生了。
成书时间约为九三五年(承平五年)。
作者贯之虽身为男性,却一反常规,以女性擅用的假名文字取代当时男性使用的汉文,创作了这部作品。
其中既有日记也包含纪行文,此外还有五十七首和歌。
作品构成大致为三部分。
(一)、从出发至十二月二十六日,离开土佐之际,送别会上人们的心情;
(二)、从十二月二十七日至次年二月十四日,乘船过程中的人情悲喜;(三)、二月十五日和十六日,登陆和参加欢迎会的情形以及归家的场面。
《土佐日记》内容虽各式各样,但整部作品始终围绕着一个中心,那就是对客死土佐的爱女的思念。
或许为了客观描写这份悲哀,作者刻意拉开自身和作品间的距离,使用了“某个人”这样的口吻,抑或是在描绘其夫人的行动和心理吧。
这部日记对后世的假名文学,特别是女流日记,产生了巨大的影响。
例如《蜻蛉日记》、《和泉式部日记》、《紫式部日记》、《更级日记》等,受《土佐日记》影响的可能性极大。
一 門 出
【本文】
①おとこ男もすなる②にき日記というふものを、③おんな女もしてみんむとて④するなり。
⑤それのとし年の⑥しわす十二月のはつか二十日あまりひとひ一日のひ日の⑦いぬ戌のとき刻に、⑧かど門で出す。
⑨そのよし、⑩いささかに⑪ものにか書きつく。
⑫あるひと人、⑬あがた県のよとせ四年⑭いつとせ五年は果てて、⑮れい例のことどもみなしお終えへて、⑯げ解ゆ由などと取りて、⑰す住むたち館よりい出でて、⑱ふね船にの乗るべきところ所へわた渡る。
⑲かれこれ、し知る知らぬ、おく送りす。
⑳とし年ごろ、よく21くらべつるひとびと人々なんむ、わか別れがた難くおも思いひて、22ひ日しきりにとかくしつつ、23ののしるうちに、よ夜ふ更けぬ。
はつかあまりふつか二十二日に、24いずみ和泉のくに国までと、25たい平らかにがん願た立つ。
26ふじわら藤原のときざね、27ふなじ船路なれど、むま馬のはなむけす。
28かみなかしも上中下、え酔ひあ飽きて、29いとあやしく、30しお潮うみ海のほとりにて、あざれ合えへり。
【注】
1男もすなる…男も書くと聞いている。
「も」は下の「も」と同じで、両者が同類・並立を意味する。
「なる」は、終止形に接続する伝聞・推定の助動詞の連体形で「~という・~と聞いている」と訳す。
【听说男人也写。
“も”与下面的“も”相同,表示两者是同类、或为并立关系。
“なる”,推量助动词的连体形,接于终止形后,现代日语译作“~という、~と聞いている”。
】
2日記といふもの…日記というもの。
当時の日記は公的な記録を目的として、漢文体で書くのが普通であった。
【叫作日记的东西。
当时的日记以记录办公为目的,通常采用汉文体书写。
】
3女もしてみむとて…女である私もしてみようと思って。
作者の貫之は男性であるが、女性を装い仮名文字を使って、私的な日記を書こうとしたのである。
【作为女子的我也跃跃欲试。
作者贯之虽为男性,却以女性的口吻写下了这部假名日记。
】
4するなり…するのである。
「なり」は、名詞や連体形に接続する断定の助動詞で「~だ・~である」と訳す。
【是…一回事。
用于解释说明。
“なり”,判断助动词,接于名词或者连体形之后,相当于“~だ、~である”。
】
5それの年の…ある年。
某年。
漢語の「某年」を和語に書き換えたもの。
実際は、承平四(九三四)年である。
【有一年。
某年。
将汉语的“某年”改写成了日语。
实际年份是承平四年(九四三年)。
】
6十二月の二十日あまり一日…十二月二十一日。
陰暦十二月の異称。
因みに、一月は睦月(むつき)、二月は如月(きさらぎ)、三月は弥生(やよい)、四月は卯月(うづき)、五月は皐月(さつき)、六月は水無月(みなづき)、七月は文月(ふづき・ふみづき)、八月は葉月(はづき)、九月は長月(ながつき)、十月は神無月(かんなづき)、十一月は霜月(しもつき)という。
【十二月二十一日。
阴历十二月的别称。
一月叫作睦月,二月如月,三月弥生,四月卯月,五月皐月,六月水无月,七月文月,八月叶月,九月长月,十月神无月,十一月霜月。
】
7戌の刻に…午後八時頃に。
「戌の刻」は、午後七時ごろから午後九時ごろの間の時間を指す。
当時の旅立ちは人目をはばかったので、夜に行うことが多かった。
【晚上八点左右。
“戌の刻”,即戌时,傍晚七点左右到晚上九点左右之间的时间。
当时出行者畏人耳目,晚上启程者居多。
】
8門出…旅立ち。
出立。
旅や出陣などのために家から出発することで、目的地の船着き場へ行くことではない。
【启程。
出门。
指因旅行或出征等离家,而不是指去目的地的码头。
】
9そのよし…その旅の様子。
門出して京都に戻るまでの旅全体の様子。
【那次旅行的情形。
从出门至回到京城整个旅途的情况。
】
10いささかに…ほんの少し。
ついちょっと。
形容動詞「いささかなり」の連用形。
【稍稍。
一点儿。
形容动词“いささかなり”的连用形。
】
11ものに書きつく…ものに書き付ける。
「もの」は、ある事物を漠然と指示する語で、ここでは「紙」を指す。
【记在…上。
“もの”,笼统指代某个事物,此处指代的是纸。
】
12ある人…ある人物。
作者の貫之が自分自身のことを、第三者のように表現したもの。
【某个人。
作者贯之以三人称来叙述自身的事情。
】
13県の四年五年…任国での四年五年の勤務。
「県」は、平安時代における国司などの地方官の任国。
普通の任期は四年であったが、後任者の赴任が遅れたことをほのめかしている。
【在任职地四、五年的工作。
“県”在平安时代指的是国司等地方官的工作地点。
通常任期为四年,这里暗含了继任者来迟的信息。
】
14果てて…終わって。
終了して。
【结束。
终结。
】
15例のことども…型どおりの引き継ぎのことなど。
国司交替の際に行われる定例の引き継ぎ事務をいう。
【一贯的接任等事宜。
国司交接时固定举行的继承事宜。
】
16解由…解由状。
後任の国司が前任者に渡す解任状で、国司としての任務が正当であったことを証明するもの。
前任者はそれを持ち帰って役所で承認を受けなければならなかった。
【解任书。
继任者交给前任国司的解职文书,证明自己担任国司的正当性。
】
17住む館…今まで住んでいた官舎。
【迄今居住的官邸。
】
18船に乗るべき所…乗船する予定の場所。
「べき」は、当然・予定の助動詞で「~はずの・~予定の」と訳す。
【预计乘船的地方。
“べき”,助动词,表当然、预计,相当于“~はずの、~予定の”。
】
19かれこれ、知る知らぬ、送りす…あれやこれやの人々、知っている人も知らない人も、見送りをする。
【各路人马,认识的不认识的都前来送行。
】
20年ごろ…数年間。
長年。
【数年间。
长年。
】
21くらべつる人々…親しくしていた人たち。
「くらぶ」は、1.比較する、2.優劣を競う、3.親しく交際する、などの意があるが、ここでは3の意。
【过去往来甚多的人们。
“くらぶ”有1、比较,2、竞争优劣,3、亲密交往等意思,此处取第3种。
】
22日しきりに…一日中。
一日の行事がたくさん詰まっていてゆとりがないことをいう。
【一整天。
说明一天的活动很多,没有空闲。
】
23ののしるうちに…大きな声で言い騒いでいるうちに。
「ののしる」は、「大声で言い騒ぐ」意で、古語では「悪口を言う」という意味では用いられない。
【大声喧闹之际。
“ののしる”意为大声说话,古语中不作骂人解释。
】
24和泉の国までと…せめて和泉の国までは無事に着きますようにと。
「和泉の国」は、現在の大阪府南部。
土佐の国と和泉の国の間の海路は、風波と海賊の恐れがあるのでそう祈った。
「まで」と「と」との間には「無事で着きますように」ということばが省略されている。
【只少希望能平安到达和泉。
“和泉の国”,现在的大阪南部。
行海路从土佐到和泉,多风浪海盗,故而有此祈愿。
“まで”与“と”之间省略了“無事で着きますように”。
】
25平らかに願立つ…心静かに(神仏に)願をかける。
「平らかに」は、「願立つ」を修飾するものと解する。
【静心(向神仏)祈愿。
“平らかに”,修饰“願立つ”。
】
26藤原のときざね…伝不詳。
土佐の国府の人間か。
【不详。
或许是土佐国府的人。
】
27船路なれど、馬のはなむけす…(馬には乗らない)船旅であるが、馬のはなむけをして送別の宴をしてくれる。
「馬のはなむけ」は、旅立ちの際に道中の安全を祈願して、馬の鼻を行く先に向ける古代の儀式。
船旅であり馬とは関係がないので、これは諧謔表現である。
【虽是(不骑马的)水路,却以马相赠举办送别宴会。
“馬のはなむけ”,古代启程前祈祷途中安全,以马鼻向目的地的仪式。
走海路的话便与马无关了,这里是诙谐的表现。
】
28上中下…身分の上中下にかかわらず全ての人が。
【不论贵贱,所有的人。
】
29いとあやしく…たいへん不思議なことに。
続く「潮海のほとりにて、あざれ合へり」という一節の全体を修飾している。
【非常不可思议的是…。
修饰下文“潮海のほとりにて、あざれ合へり”。
】
30潮海のほとりにて、あざれ合へり…潮海だからあざる(魚が腐る)はずもないのに、海辺であざれ(ふざけ)合っている。
「あざる」という動詞は二種類ある。
一つは「鯘る(魚肉などが腐る・腐乱する)」であり、もう一つは「戯る(ふざけ戯れる・取り乱し騒ぐ)」である。
ここではその両方の意味を掛けた諧謔表現として用いられている。
【明明是不可能有鱼的一片死海(鱼会腐烂),却在海边捕鱼(诙谐表现)。
“あざる”这个动词有两种用法。
一种写作“鯘る”,表示鱼肉等腐烂。
另一种则写作“戯る”,表示开玩笑、慌乱喧闹。
这里是诙谐的双关语用法。
】
【現代語訳】
男の人も書くと聞いている日記というものを、女の私も試みようと思って書くのである。
ある年の十二月二十一日の午後八時ごろに出発することになった。
その旅のようすをいささか書きつけることにする。
ある人が、国守としての任期四、五年が過ぎ、交替時の例となっている事務の引継ぎなどを全部すませ、解任証書などを受け取り、住んでいた館から出て、船に乗る予定の場所に行く。
あれやこれやの人々、そして知っている人も知らない人も、見送りをする。
この数年間、とても親しくしていた人たちは、とくに別れ難い心境で、一日中、何やかやと立ち回って、大きな声で言い騒いでいるうちに夜が更けてしまった。
二十二日に、せめて和泉の国までは無事に着きますようにと、心静かに(神仏に)願をかける。
藤原のときざねが、(馬には乗らない)船旅であるが、馬のはなむけをして送別の宴をしてくれる。
身分の上中下にかかわらず全ての人がみな深酔いして、たいへん不思議なことに、潮海だからあざる(魚が腐る)はずもないのに海辺であざれ(ふざけ)合っている。
【中译文】
听说男人也写的日记,如今我这女流之辈也要试着创作一把。
某位国司将于某年十二月二十日晚上八点左右起程。
在此对他的行程稍作记录。
此人任国司已有四、五年,任期已满,与新任国司交接完毕,取了解由文书等之后便要离开官邸,去往上船的地方。
于是,认识的不认识的,各路人马都前来送行。
几年来往来甚多的友人们,更是难舍难分,一整天都在奔走相送,人声喧闹之中,不觉夜色渐浓。
静心(向神佛)祷告,至少能于二十二日平安抵达和泉。
此行虽为(不用骑马的)水路,但藤原时实竟以马鼻指向京都以求路途平安,并筹办了送别会。
全场送别的人不论贵贱皆酩酊大醉,最为奇妙的是,竟然在这片不可能有鱼的死海(鱼会腐烂的海域)边上捞鱼。
【解説】
冒頭の「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という一文からは、「日記」をこれまでの漢文による公務中心の記録から、和文による私的な身辺雑記、あるいは、文学的な旅日記への転換を図ろうとした紀貫之の意図が読み取れる。
女性の視点に立って文学表現をした貫之のこの試みが、後の女流文学の隆盛に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
この「門出」には、文学的虚構を施したところがいくつか見受けられる。
実際に特定できる年を「それの年」、自分自身を「ある人」などと表現している例などがそれに当たる。
前者には、公的な事実の記録ではなく、私的な内実の伝達を重んじる姿勢が感じられるし、後者には、国司・紀貫之について述べようとするのではなく、「ある人」の個人的な行動や心情について伝えようとする思いが表れている。
また、「そのよし」、「例のことども」、「かれこれ、知る知らぬ」などの、漠然とした内容を表す語句も、文学的な虚構性を表現するためのものだろう。
【解说】
“虽说日记是男人写的东西,可我这女流之辈也要试着创作一把”的开头,涵盖了纪贯之的写作意图,即:
将迄今用汉语记事属公文性质的“日记”,转变成用日语记录的生活琐碎或者文学性质的游记。
贯之尝试着从女性的视点进行创作,这无疑对后世女流文学的兴盛起到了开辟性的作用。
《出门》部分有几处虚构。
例如故意将实际上明确的年代写成“某一年”,将自身说成是“某个人”等。
前者为了向读者宣告这并非公文性质的事实记录,而是偏重传达个人情感的作品;后者则为了表明创作这部作品,目的不在于向读者介绍国司纪贯之本人的事迹,而是要描述“某个人”的个人行动和情感起伏。
此外,采用“那次旅行的情形”、“一贯的接任等事宜”、“认识的不认识的”等含糊表达,或许也是为了突显文学的虚构特性吧。
【问题】
(一)紀貫之がこの日記を女性の立場に立って書いたことには、どのような意図と効果があったか。
【纪贯之以女性口吻写下这部日记,其意图是什么,效果又如何?
】
(二)本文中から諧謔的な表現を二つ抜き出して、それぞれを簡単に説明せよ。
【请从文中找出两处诙谐的表现手法,并分别对其作出简单说明。
】
二 船出、亡児を思う
【本文】
はつかあまりなぬか二十七日。
①おおつ大津より②うら浦ど戸をさしてこ漕ぎい出ず。
③かくあるうちに。
きょう京にてう生まれたりしおんなご女児、④くに国にて⑤にわはかにう失せにしかば、この頃の⑥いでた立ちいそぎをみ見れど、⑦なに何ごともい言わはず、⑧京へかえ帰るに⑨女児のな亡きのみぞ、かな悲しびこ恋うふる。
⑩あるひとびと人々も⑪えた堪えへず。
⑫このあいだ間に、⑬あるひと人の⑭か書きていだせるうた歌、
⑮みやこ都へと おも思うふをものの かな悲しきわは ⑯帰らぬ人の ⑰あればなりけり
また、あるときにわは、
⑱あるものと わす忘れつつなおほ 亡き人を ⑲いづらとと問うふぞ かな悲しかりける
とい言いひけるあいだ間に、⑳かこ鹿児のさき崎というふところ所に、21かみ守のはらから兄弟、また22こと人、これかれ23さけ酒なにとも持てお追いひき来て、24いそ磯にお降りいゐて、わか別れがたきことをい言うふ。
かみ守のたち館のひとびと人々のなか中に、このき来たる人々ぞ、こころ心あるやうにい言わはれほのめく。
かくわか別れがたくい言いひて、かの人々の25くちあみ口網ももろ諸も持ちにて、このうみ海べにて、26にな担いひい出だせるうた歌、
27お惜しとおも思うふ 28ひと人やとまると 29あし葦がも鴨の うちむ群れてこそ われはき来にけれ
と33い言いひてありければ、30いといたくめ賞でてゆ行く人の詠めりける、
31さお棹させど そこ底ひもし知らぬ わたつみの 32ふか深きこころ心を きみ君にみ見るかな
とい言うふあいだ間に、33かじ楫と取りもののあわはれもし知らで、34おのれしさけ酒をく食らいひつれば、はや早くい往なんむとて、「35しお潮み満ちぬ。
かぜ風もふ吹きぬべし」とさわ騒げば、ふね船に36の乗りなんむとす。
このおをりに、あ在るひとびと人々、おをりふしにつけて、からうた漢詩ども、37とき時にに似つかわはしきい言うふ。
【注】
1大津…現在の高知市大津。
「津」は、船着き場・渡船場の意。
【现在的高知市大津。
“津”,码头、渡船的地方。
】
2浦戸…現在の高知市浦戸。
【现在的高知市浦户。
】
3かくあるうちに…このようにあわただしくしているうちに。
【这样匆忙之中。
】
4国にて…土佐の国で。
任国で。
【土佐国。
任职地。
】
5にはかに失せにしかば…急に死んでしまったので。
「に」は、完了の助動詞の連用形、「しか」は、過去の助動詞の已然形、「ば」は、原因・理由の接続助詞であるが、それらをまとめて「~てしまっ・た・ので」と訳す。
【因为突然死去,所以…。
“に”,完了助动词的连用形。
“しか”,过去助动词的已然形。
“ば”,接续助词,表原因、理由。
合在一起相当于“~てしまっ・た・ので”。
】
6いで立ちいそぎ…出発の準備。
「いそぎ」は名詞で、1.急ぐこと、急用、2.準備、用意、などの意があるが、ここでは2。
【出发的准备。
“いそぎ”是名词,有1、急事,2、准备等意思,这里取其2。
】
7何ごとも言はず…一言も口をきかない。
沈痛な心情をあらわす表現である。
その動作の主体は、娘を失った「ある人」である。
【一言不发。
心情沉痛的表现。
动作的主体是痛失爱女的“某人”。
】
8京へ帰るに…(待ちかねた)京都に帰るというのに。
普通なら喜びにあふれているはずである。
【明明即将回去(期盼已久的)京都,却…。
通常应该喜形于色才对。
】
9女児の亡きのみぞ、悲しび恋ふる…娘がいないことばかりを悲しく恋しく思う。
【沉溺在痛失千金的哀痛之中。
】
10ある人々…その場にいる人たち。
そこにいる人々。
「ある」は「在る・有る」で「或る」ではない。
【在场人们。
在那儿的人们。
此处的“ある”,写作“在る、有る”,而非“或る”。
】
11え堪へず…(悲しみに)堪えられない。
耐えることができない。
「え(副詞)」~「ず(打消の助動詞)」は、呼応表現で「~することができない」と訳す。
【(悲痛)难耐。
难以承受。
“え(副词)”与“ず(否定助动词”呼应使用,相当于“~することができない”。
】
12この間に…そこで。
こうして。
【因此。
这样一来。
】
13ある人…「或る人」で、貫之自身を指す。
【写作“或る人”,指贯之自身。
】
14書きていだせる歌…書いて示した歌。
【公之于众的和歌。
】
15都へと思ふを…いよいよ京へ帰るのだ思えばうれしいはずなのに。
「を」は、逆接の接続助詞で、「~のに」と訳す。
【想着马上就要回京了,原本应该高兴才对,但是…。
“を”,接续助词,表逆接,相当于“~のに”。
】
16帰らぬ人の…(自分と一緒に)(京へ)帰らない人。
「二度とこの世に生きては帰らない人」の意も掛けている。
【不(和自己一同)回去(京城)的人。
暗指人死不能复生。
】
17あればなりけり…あるからだなあ。
いるからだったなあ。
「ば」は、接続助詞で「~ので・~から」、「なり」は、断定の助動詞で「~である」、「けり」は、過去の助動詞で「~(た)なあ」という意を表し、初めてそのことに気が付いたという内容を含む。
【因为有…。
因为存在…。
“ば”,接续助词,相当于“~ので、~から”。
“なり”,判断助动词,相当于“~である”。
“けり”,过去助动词,相当于“~(た)なあ”,含有最初意识到某件事的意思。
】
18あるものと…まだ生きているものと思い。
「ある」は「在る」で存在するの意。
「あるもの」は、第三句の「亡き人」と対照されている。
【觉得还活着。
此处的“ある”写作“在る”,表存在。
“あるもの”与第三句的“亡き人”相对照。
】
19いづらと問ふぞ…どこにいるのかと尋ねてしまうことが。
「いづら」は、漠然と場所を尋ねるときに使う疑問代名詞で「いづこ」とほぼ同じである。
【询问现在在哪里。
“いづら”,疑问代名词,笼统询问场所时使用,与“いづこ”大致相同。
】
20鹿児の崎…現在の高知市大津で、当時は港内に突き出た岬であった。
【现在的高知市大津,当时港内伸出来的岬角。
】
21守の兄弟…(新任の)国司の兄弟。
「守」は、「上に立つ者」の意で、役所の別によって「頭」「督」「守」などの字が当てられた。
地方長官の場合は「守」であった。
【新任国司兄弟。
“守”意为头领,根据机关的不同,分别可写作“頭”,“督”,“守”等。
】
22こと人…他の人。
別の人。
「こと」は「異なる」の意。
【他人。
别人。
“こと”意为“異なる”。
】
23酒なにと持て追ひ来て…酒などを持って追ってきて。
「なにと」は、「など」の古形。
【捧着酒杯等追上来。
“なにと”,古语中“など”的形式。
】
24磯に降りゐて…磯に下りて座り込って。
「ゐる」は、ワ行上一段動詞で、「すわる」が原義である。
【下到海岸坐着不动。
“ゐる”,ワ行上一段动词,原意为“すわる”。
】
25口網も諸持ちにて…みんなで口をそろえて。
「口網」は、「口(ことば・声)」を「網」に例えた語で、「諸持ち」は、みんなで共同して持つことを意味するので、漁師がそろって網をかつぎ出すように、人々がそろって歌を歌う様子を表現したものである。
【异口同声。
“口網”,将语言或者声音比喻成网。
“諸持ち”,意思是所有人共同拥有,因此这句话描写了,像渔民齐聚抬渔网一样,人们聚到一起吟诗颂词的情景。
】
26担ひ出だせる歌…歌い出した歌。
重い網を担ぐように、苦心して作り出したという意味を含む。
諧謔的な表現。
【吟出的和歌。
含有像担着沉重的渔网一样,沥血创作的意味。
诙谐表现。
】
27惜しと思ふ…名残惜しいと思っている。
「惜し」は「鴛鴦(おしどり)」との掛詞(一つの語に二つの意味を持たせる和歌の修辞法)である。
「葦鴨」とも関係のある縁語である。
【觉得不舍。
“惜し”是“鴛鴦(おしどり)”的双关语(一个词语有两种意思,和歌的修饰法之一。
与“葦鴨”也是相关语。
】
28人やとまると…もしかして(この国に)留まってくれるのではないかと。
【能否留在这个地方呢?
】
29葦鴨の…(私たちは)葦鴨が群がるように(大勢集まって)。
「葦鴨」は、「鴨」のことだが、葦の近くに群れを成して集まっていることからそう呼ばれる。
【(我们)像群聚到芦苇丛的鸭子一样齐聚在一起。
“葦鴨”,鸭子,因喜欢群聚在芦苇附近故而得此称谓。
】
30いといたく賞でて…たいそうひどくほめ讃えて。
「いと」も「いたく」も「たいそう・非常に・ひ