方丈记译文.docx

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方丈记译文

1)行く川のながれは絶えずして

川の水は絶えないけれど、といって、同じ水があるわけじゃない。

のんびり漂う泡ぶくだって、割れたり他とくっついたりして、延々と現状維持を続けたりしない。

人間といい、その人間の住み処といい、世の中だいたいそんな感じだろう。

きらびやかな、このみやこで、身分の高い人も低い奴も、

自分の家屋敷を見せびらかしている。

なるほどそういう家は、親から子へ、子から孫へと引き継がれているように見えるが、

詳しく調べれば、昔からあるような伝統家屋はほとんど無く、

去年壊れたところへ新たに建てた家や、昔は豪華だったのが小さく落ちぶれた建物ばかり。

そこに住む連中も同じだろう。

景気変動、万事が、浮き沈みの激しい世の中だ。

都会は都会で、昔から人も多い気がするが、実際のところ、

古くからいる人間は、20人、30人いたらせいぜい1人か、2人だけ。

朝のうちに誰かが死んだと思ったら、その日の夕方に赤ん坊が生まれる。

世の中ぜんぶ、まったく、さっき見た泡ぶくのようだろう。

生まれたら死ぬ、それが人間というものだけど、

基本的にみんな、自分がどこから来てどこへ行くのかなど、知ることはない。

どこへ行くのか分らないのだから、どんな家を建てたところで、所詮は仮の住まい。

それなのに、近所づきあいだとかでストレスを抱え、

見栄のためにごたごたと飾り付けようとする奴の気が知れない。

住人といい、その家といい、すべては川の泡ぶくめいたせわしなさで変化するもので、

人間など所詮、朝顔の露に過ぎないのだ。

場合によっては、そのしずくが落ちた後、朝顔の花だけがきれいに残るかもしれないが、

花は朝日を浴びれば枯れてしまう。

あるいは、朝日で花がしおれたあとで水滴だけ残ることもあるだろうが、

それもやはり、夕方までには蒸発して消えてしまう。

やれやれ、だ。

2)およそ物の心を知れりしより

と、おまえは何を偉そうに言っているのだと思われるかもしれないが、

私は物心ついてから、かれこれ40年、世の中の不思議な出来事を何度も見てきたのだ。

たとえば安元3年(1177年)4月28日。

風が強く吹いて、うるさいほどだった夜、8時か9時ごろになって、

京都の東南で火が出て、北西方面に燃え広がったことがある。

火の勢いは強く、最終的に、朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省といった立派な建物群が、

一晩で焼け落ちてしまった。

出火場所は樋口富の小路で、病人が臥せっていた家から燃え出たという。

風が強かったこともあり、とにかく燃えて、火炎が巨大な扇のように燃え広がった。

強風のため、離れた場所にいても燻されるし、火に近ければ炎が地面を焼くほど吹きつけた。

すさまじい勢いで舞い上がる灰に炎が映って、辺り一面が真っ赤だった。

さらにその炎が風にちぎれて、かるがると隣町やその隣まで飛び広がるありさまで、

その中を逃げ惑う人々は、生きた心地がしなかっただろう。

煙に巻かれて倒れたり、炎に呑まれて焼け死んだ者も多かったはずだが、

自分の身ひとつでギリギリ逃げきれた人も、家からは何も持ち出せず、

財布や着物はもちろん、お宝の数々もみな灰になってしまった。

被害総額は見当もつかないし、この火事で、公家屋敷が16棟も焼けたと聞く。

ましてほかの連中、庶民の家がどれだけの害を受けたか、想像もできない。

京都中の3分の2ほどが焼けた上、死者は男女あわせて数千人、

焼死した馬や牛などは数えだしたらきりがないだろう。

このように、人間生活などみな頼りにならないものであるのに、

こういう危険な京都市内に大金かけて家を建て、あれこれと心配事ばかりを増やすのは、

イヤ本当、無理無駄の極みじゃないかと言いたくなるわけだ。

3)また治承四年卯月廿九日

それから治承4年(1180年)4月29日ごろ、

中の御門京極のあたりで竜巻が発生して、

六条わたりまでむちゃくちゃに吹き荒れたことがある。

町を三つ四つ吹き渡り、大暴れする風に、

途中の家は大きいのも小さいのも、みんなぶっ壊れた。

そのままぺしゃんこになる家もあれば、

骨組みだけ残して壁も屋根もぶっ飛んだ家もあって、

屋敷の門をずっと向うへふっ飛ばされたり、

垣根を壊されて、隣家との境が無くなってしまったところもあった。

そうなれば家の中にしまい込んでおいたお宝グッズの数々も、みんな吹き飛ばされるし、

ひわだ葺きにした高価な屋根だって、冬の強風に舞い上がる木っ葉みたいに、バラバラ。

もうもうと、煙のように、塵やらホコリを舞い上げるから目も開けていられないうえ、

音ももの凄く、近くにいる人の声も聞こえないほどで、

これは果たして、地獄に吹く風よりひどいかもしれないぞと思ったものだ。

風で家が壊されるだけではなく、そうして壊れた家の修復中に、

足をすべらせるとかして大怪我する人も数えきれない。

こうして、この竜巻が西南方へ移動して行く間に、大勢の人をさんざんに嘆かせた。

突風のようなものは、いつでも吹くものだが、こんな惨事も起きるものなのか。

何というか、これはただごとじゃない。

吉兆凶兆、何かのお告げじゃないかと思ったりもした。

4)又おなじ年の六月の頃

それから同じ年の6月に、いきなり遷都があった。

まったくもって、予想外。

だいたい平安京は、嵯峨天皇が首都であると定められて以来、数百年が経過した場所で、

移転しなければならない理由は無いし、そもそも簡単に移転できるものではないのだ。

途方に暮れた人々が、不安げな顔を見交わすさまは、見ていられないほどだったが、

文句を言っても仕方がない。

天皇さま始め、大臣公卿のお偉方はみんな摂津の難波宮へ引っ越した。

特に、勤め人は引っ越さないわけには行かず、

その中でも出世第一で、上司の腰巾着をと心がけている連中は、

一日でも早くとみんなで引っ越し競争をしていた。

一方で、この遷都でコネを失ったような人は、

何をしたら良いやら、茫然と立ち尽くすばかりだった。

京都市内で豪華さ較べをしていたような連中の家も、住む人を失って、日々荒れて行く。

家は解体されて淀川に浮び、跡地はいつの間にか耕されて畑になる有様。

遷都を機に流行も変って、牛車を使う人がいなくなり、みんな馬に乗るようになった。

あと瀬戸内方面の所領の人気が急上昇し、逆に、東北の荘園が不人気になった。

5)その時、おのづから事のたよりありて

その後、機会があったので、その新しい都、摂津難波宮へ行ってみた。

どんな場所だったかというと、

とにかく狭くて、区画整理もろくにできないような土地だった。

北は山がちで、南側は海へと下っていて、波の音がうるさいし、ことに潮風がきつい。

宮殿は山の中にあって、それはちょうど、

その昔「木の丸殿」と呼ばれた宮殿を想像させて、そこまで悪くないようにも思われたが、

そうだとしても、総体はひどかった。

連日、京都中の家を解体し、淀川を埋め尽くすほどの筏を流しているはずだが、

新たな家はどこに建っているのやら。

空地だらけで、建築される家が少なすぎる気がした。

一方、ふるさとの平安京はすでに荒廃している。

といって、引っ越し先の難波宮は完成していない。

とにかくみんな、浮雲みたいに落ち着かなかった。

6)元より此處に居れるものは

もともとの住人は、いきなりの土地収用に困り果てて、

新たに越してきた連中は、これからの土木事業に嘆き合う。

ふと見れば、牛車に乗るべき貴族が馬に乗っているし、

本来なら冠つけてまともな衣を着るべき連中が、気楽な直垂(ひたたれ)姿で歩いている。

都の優雅さがあっという間に崩れて、みんなが田舎者の武士のよう。

こういうのは乱世の予兆だと聞きもしたが、まったくその通りで、

日が経つにつれて、世の中が何となくソワソワしてきた。

不安、不満の声が日に日に大きくなって、

結局、その年の冬に、もとの平安京へ戻ったけれど、

戻ってみても、すでに解体した家をどうしたら良いのか。

すぐにもとどおり建てられるわけもない。

どこかで聞いたが、昔のすばらしかった時代には、

天皇さまが、憐れみを持って政治をされたと言う。

御殿の屋根から芽が出ようが、下々の暮しを気にかけられて、

家々から炊飯の煙が上がらないとご覧になれば、租税だって免除されたそうだ。

まさにこれこそ「国民の生活が第一」という政治。

人々を助けるためのご叡慮であったが、今の世の中と来たら……。

少しは昔を見習ってもらいたい。

7)又養和のころかとよ

それから養和の頃だったか、昔すぎてよく覚えてないが、

2年間に渡って、飢餓に苦しんだこともある。

春、夏とカンカン照りで雨が降らず、涼しくなったとおもったら暴風雨や洪水。

ひどいことばかり続いて、米などの穀物がいっさい実らなかった。

春に畑を耕し、夏に作物を植えても、秋冬の収穫の喜びはまったく無い。

人々は村を捨て、畑を捨てて山へ入り込むありさま。

さまざまな祈祷や、普通じゃ見ない秘法まで行われたけれど、まったく効果がない。

京都は消費都市で、何につけても田舎頼みであるのに、

輸送されるものが何も無い状況だから、みんな、体裁を取り繕おうともしなくなる。

困り果てて、いろいろなお宝アイテムを、片っ端から捨てるみたいな値段で売ろうとしても、

目をとめる人さえおらず、たまたま売れても、金より粟、食べ物が重視される。

ホームレスが多数出現して、とにかく、生活に苦しむあえぎ声ばかりが聞こえてくる。

そういう感じで、養和元年は終って、新年になれば少しは景気回復するかと思いきや、

さらに疫病が発生して、とにかく悪くなるばかり。

みんな飢え死にして行く中で、毎日毎日、苦しみつつ生きてゆくさまは、

干上がって行く川の魚が、何の楽しみもなく、ただ死を待つだけのようなものだと思った。

8)はてには笠うちき

挙句には、笠をかぶり、足を隠したけっこうなご婦人までが、

食事を求めて戸を叩いて巡るありさまになった。

とぼとぼ歩いているなあと見るうちに、いきなりバッタリ倒れてしまう者もあって、

塀前や道ばたに、飢え死にした人が、数え切れないほど倒れていた。

死体を片づけることもできないので、死臭は充満するし、

肉が腐って行くさまには目も当てられない。

河原は、馬や牛車がすれ違うことも出来ないほど死体だらけで、

普段はたくましく生きている底辺層や、山の民でさえ、気力を欠いていた。

薪も運ばれないので、頼るところの無い連中は、自分の家を壊して薪木を売っているが、

そうしてつくる売り上げでさえ、一日の命をつなぐ食事代にすら足りないという。

けしからんことには、こうして売られる薪の中に、漆や、銀箔、金箔のついた木が混ざっていることがあり、これは何だと聞いてみると、

寺から盗み出した仏像や、法具、宝物の類を、ぶっ壊したものだと言う。

こんなものを見るなんて、まったく、ひどい世に生まれてしまったものだと思う。

ひどい話はほかにもあり、たとえば愛しあった男女は、その思いの深い方が先に死ぬという。

なぜかと言えば、そういう関係の中では、男も女も、

「自分よりは相手」と思い詰めるからで、彼らは辛うじて獲得した食料品も、

まず、愛おしい相手に食べさせようとする。

だから親子であれば、親が先に死ぬ。

母親が死んだことも知らず、おっぱいに吸い付いたまま赤ん坊が眠っていることもあった。

9)仁和寺に、慈尊院の大蔵隆暁法印

こういう時、仁和寺、慈尊院の隆曉という坊さんが、

あまりに多くの人が死んで行くことを嘆かれて、

仲間とともに、死んだ人の額に「阿」と書いて、

大日如来に救ってもらおうとされた。

それで結局、何人のおでこに「阿」と書いたのか、

4月、5月の分だけを、また、

北の一条通、南は九条、東は朱雀大路、西の京極通に限った京都市内だけで数えても、

4万2300余りあったという。

無論、この2ヶ月以外に死んだ人も多く、

河原町、白川町、西京地区など町外れの死体を加えれば、

本当に、数え切れないほどであっただろう。

これがさらに全国規模であれば、いったいどれほどの人が死んだものか。

最近だと、崇徳天皇の長承の頃にもこういう飢饉があったと聞くが、

そこはよく知らない。

とりあえず、この養和の飢饉は、あり得ないくらいに、ひどかった。

最低だった。

10)また元暦二年のころ

それから元暦2年に、大地震があった。

尋常じゃないことになって、崩れた山の土砂が川を埋めるし、

海では津波が発生して陸地が水びたし。

地面は裂けて水を噴き出し、大きな岩も砕けて谷底へ転げ落ちた。

舟もどこかへ流されて、馬でさえ、足の置き所を狂い惑うありさま。

京都付近になると、それは本当にすさまじくて、

建物という建物で、被害なし、というところは一つも無く、

家屋の倒壊で土埃が立ち上り、大火事の煙かと思われるほどであったし、

地面の揺れ、家のぶっこわれる音は、雷が落ちたように思われた。

室内にいれば倒壊する家屋に潰されたであろうし、外へ逃げても地面は割れ、裂けている。

人間、つばさが無いから空へ逃げるわけにも行かず、

龍にもなれないのだから雲へ駆け込むわけにも行かない。

世の中、恐ろしいものは数多いが、中でもっとも恐ろしいのは、地震だと感じた。

この地震の直前、6つか7つの武士の子が、屋敷塀の下にままごと小屋をつくって、

無邪気に遊んでいたが、崩れた塀のため、小屋ごと、ぺしゃんこに潰されてしまった。

二つの目など、衝撃で2、3センチも飛び出したという。

それを、両親が抱えて、大声をあげて嘆き悲しんでいるさまなど、ほんとうに哀れであった。

子供のためには、勇ましいはずの武士でさえ、

人目をはばかることを忘れて、嘆き叫ぶのだなと、興味深く見ていたものだ。

11)かくおびただしくふることは

大きな本震は、そのうちに収まったけれど、しばらく余震が続いた。

その中でも、びっくりするほどの揺れは、日に20~30回ほどもうち続いただろう。

十日過ぎ、二十日過ぎたころになって、ようやく落ち着いてきたが、

それでも、一日に4、5回、また2、3回、

あるいは、二日おき、三日おきといったふうに、

地震は3ヶ月くらいも引き続いた。

この世界を構成する地、水、火、風の四大種の中で、

なるほど水、火、風については、普段から災害を引き起こしている。

だが、地、についてだけは、おかしなことをしなかったはずなのだ。

昔、斉衡年間に、大地震により、東大寺の大仏様の髪の毛部分が落下するなど、

ひどいこともあったようだが、それでも、この大地震には及ばないだろう。

こうして、大勢の人間が、この地震により、人生のむなしさを悟ったか、一時、

日々くだらぬことにあくせくして、濁りきっていた人の心も澄んだように思われた。

だがしばらくするうちに、地震の話題も、人の口にのぼらなくなった

12)すべて世のありにくきこと

世の中の困難なこと、自分自身や家の頼りにならないことは、こんな感じで明らかだ。

さらに、自分の置かれた環境次第で、困難や迷惑、悩み、不安は数え切れないほどになる。

下層民のくせに出世して、お偉方の身近にある者は、

深く悦ぶことがあっても、心から楽しむことにはできない。

悲しい時にも、声を上げて泣くことはできないし、自分の行動すら思うままにならない。

日常の所作一つについてもビクビクするのは、喩えるなら、雀が鷹の巣へ近づくようなもの。

また貧乏人が金持の隣に住んでいたりすると、朝晩の外出、帰宅時に、

妻や子供、召使いどもが、自分のみすぼらしい衣装を恥じて隣をうらやましがる一方、

隣は隣で、貧乏人どもめと馬鹿にしてくるから、

主人は常に忌々しく思い、心おだやかに過ごすことなどとても出来るものではない。

また、狭っ苦しいところに家を持てば、近くで火事が起きたときに逃れようがないし、

郊外に広い家を持ったにしても、通勤通学に不便きわまりない上、盗賊の危険も多い。

勢力家というのは欲深く、飽くことを知らないし、独り者は人から小馬鹿にされがちだ。

金持は泥棒に怯えるし、貧乏人はとにかく困窮するばかり。

誰かの庇護下に入れば、そいつの言いなりにならなきゃいけないし、

誰かの世話をしてやろうとすれば、利用されるだけ。

世の流行に乗れば息苦しいし、乗らなきゃ乗らないで、変人扱いされる。

いやはや、まったく、どこに身を置き、どんなふうに生きて行ったら、

この身に宿る魂に平和が訪れるのだろう。

13)我が身、父の方の祖母の家をつたへて

さて、ここらで私自身について語ってみよう。

私は、はじめ、父方の祖母より受け継いだ屋敷に住んでいた。

だが、そのうちに親戚もなくなるし、あれこれ疲れて維持するのが面倒くさくなったので、

30歳を過ぎたころに、自分の趣味に合致する小さな家を建ててみた。

その家と、昔の屋敷とを較べると、大きさは10分の1くらい。

母屋だけのシンプルな建物で、全然、派手な設計ではない。

簡単な塀はつけたが、門をつけないし、牛車どめには、竹の柱を使ってもらうだけ。

ただそれは、大雪や大風の日には、倒れるんじゃないかと危なっかしい上、

河原に近いので、水没や泥棒の危険もあるようなところだった。

そんなふうに、ここではないどこか、を探し続けて、悶々と日を送ること30年あまり。

その間、いろいろな不幸、違和感、食い違いを味わった私は、

ようやく、自分に運の無いことを悟ったのだ。

そして50歳の春になって、やっと家を出ることができた。

もともと妻も子供も無いから、捨てられないしがらみは無く、

ろくな仕事をして来なかったから、こだわりも無い。

私は虚心になって、大原山の雲のあたりへ寝転がり、さらに何年かを過ごした。

14)ここに六十の露消えがたに及びて

そんな感じで、もう60歳。

私の命も、間もなく露となって消えるだろうが、そんな時になって、

終の棲家を建てることができた。

ちょうど、猟師が一晩明かすためだけに建てる山小屋とか、

老いた蚕がぼろぼろのまゆを作る感じの小屋で、

威勢の良かった頃の家と較べれば、さらに、100分の1以下の規模だ。

いろいろなことを言っている間に、年々老いて行くし、住処はだんだん狭くなるわけだが、

今度の家は、ただの家じゃない。

広さはわずかに1丈、3メートル四方で、高さも7尺、2メートルちょっと。

ここに定住するぞと思い極めたわけじゃないので、基礎を固めもしない。

土台をつくり、簡単な屋根を設けて、柱の継ぎ目をとめただけ。

これなら、居心地が悪かった時に、気軽く引っ越しすることができる。

この家を建てるのにどんな苦労があっただろうか。

せいぜい荷車2台分。

それを動かす力のほかには、何ものも要らなかった。

こうして今、私は日野山の山中に引きこもっている。

小屋の南側に、簡単な日よけをつくり、竹のすのこを敷き、その西面には仏前の棚。

部屋の中、西に向かって阿弥陀さまの絵を配置し、

ちょうど夕日が眉間を照らすようにした。

15)かの帳のとびらに

それから例の垂れ布の脇に、普賢菩薩、不動明王の絵をかけた。

北側、障子の上に小さな棚をつくり、黒の皮カゴを3つ4つ置いて、

そこには、和歌や管弦作品、往生要集といったものの抜き書きを入れておいた。

手近なところには、琴と琵琶を一台ずつ立てかけておく、

折琴(おりごと)、継琵琶(つきびわ)と呼ばれるやつ。

部屋の東側には、ワラビ穂の束を並べ、上にゴザを敷いて、寝床にしている。

東側に窓を開けて、その手前に文机を置く。

そしてその傍に火鉢を置いて、簡単に柴をくべられるようにした。

そして小屋の北側は、ちょっとした垣根で囲った畑になっているから、

いろいろな薬草を植えている。

仮住まいの我が家は、こんな感じで、

次は我が家を建てた場所。

家の南側では、懸樋に通した水を、岩場にためている。

またすぐ近くに林があるので、焚きつけに使う枝拾いに苦労はない。

この辺は外山といって、小道を丁字葛が埋めているような場所で、

谷間は木が生い茂っているが、西側は見晴らしが良いから、

仏様の世界を思うのに向いていないこともない。

16)春は藤なみを見る

春には藤の花が揺れて、ありがたい紫雲のように、家の西側に匂う。

夏は郭公(カッコウ)。

彼らと対話するたびに、死出の道案内を頼めるように思われるし、

秋に耳を満たすひぐらしの声もまた、はかないこの世を悲しむように聞こえてくる。

冬は雪に感傷的になり、積っては消える雪を人間の悪行のように見つめてしまう。

もし念仏が面倒くさくなり、読経に気乗りしなくなった時は、勝手に休んでしまう。

怠けるのを妨害する者も無いし、友だちも無いから少しも恥ずかしくない。

別に無言の行をしているわけじゃないが、一人だから口の災いはありえない。

あれこれの戒律を厳しく守ろうとするのではないが、

そんな環境じゃないから、破りようがない。

その一方で、人生のはかなさや孤独に耐えられなくなった時には、

岡のやを行き交う舟を眺め、満沙弥の詩情にひたり、

風が桂の葉を鳴らすような夕べには、白居易の琵琶行を思い出しながら、

自分も、源経信の琵琶曲を弾いてみたりする。

その琵琶も下手くそかもしれないが、別に誰に聞かせるわけでもない。

一人で弾いて一人で歌い、勝手に自分の心を満足させるのだからそれで良い。

17)また麓に、一つの柴の庵あり

麓に一軒、柴葺きの小屋があって、山の管理人が住んでいる。

そこには若者がいて、時々遊びに来たり、こちらから訪れて、

退屈な時には、連れて遊び歩いたりする。

彼は16で、わたしは60。

年齢差は大きいが、一緒にいて楽しむには、年齢は関係無い。

あるときには茅萱(ちがや)を抜き、また岩梨を収穫する。

珠芽(むかご)をとったり、芹を摘んだり、また山裾のため池で

取りこぼしの落ち穂を拾って、穂組をつくったりする。

天気の良い日には峰にのぼり、遙かにふるさとの空に臨んで、

木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師方面を見つめる。

ここは景色の良い場所だが、所有者があるわけじゃないから、一人で存分に楽しめる。

足腰に不安は無いから、遠くへ行きたいと思った時に、峰続きに炭山を越え、

笠取を過ぎて、岩間寺へ参詣するとか、石山寺をお参りすることも出来る。

18)もしは粟津の原を分けて

また、粟津の原っぱへ出向き、歌人蝉丸の庵を思い浮かべるとか、

田上川を渡って、猿丸太夫のお墓を尋ねることもある。

その帰りには、山桜を見たり紅葉の見所を探したり、

ワラビを摘んだり、木の実を拾ったりする。

そうしたものは、仏前にお供えするし、また自分の家に備蓄もする。

静かな夜には、窓から見える月に、旧友のことを思い、猿の鳴き声に涙ぐむ。

草むらの蛍は、遠く真木島のかがり火にも見えるし、

明け方の雨は、木の葉を吹き払う嵐に似ている。

山鳥がほろほろと無くのを聞けば、死んだ父や母が呼んでいるのかと思い、

山の鹿が馴れて、近づいてきたりするうちに、俗世から離れたことを実感する。

時には炉の埋め火をかきおこして、早起きが癖になっている老人の相手をしてもらう。

19)おそ

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