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日本を语る全文

第1課  日本列島と風土・気侯

今の日本は四方を海に囲まれた島国ですが、1万年前の日本はユーラシア大陸とつながっていました。

コンピューター処理された日本列島周辺の地形図(→9P)を見るとわかるように、白い部分は現在では浅い海なのですが、かつてはこの部分が大陸と地続きで、今の日本海(韓国名:

東海)は大きな湖のようなものでした。

それが今から約5000~6000年前、地球が温暖化し始めると、それに伴って海水面が上昇し、日本は大陸から分離して現在の形になったのです。

 さて、現在の日本列島は北海道、本州、四国、九州と、6800を越す小さな島々から成ります。

国土面積は37万7873?

(平方キロメートル)で、台湾の面積の約10倍、中国の雲南省より少し小さいぐらいです。

しかし、日本という国は、最北端に択捉島、最東端に南鳥島、最南端に沖ノ鳥島、最西端に与那国島と広く点在していますから、沿岸から12海里とされる領海や、200海里とされる排他的経済水域を加えると、約447万平方キロメートルとなり、その広さは世界第6位と意外に広いのです。

 気候についてみると、日本は南北に約3000?

あり、北の端が中国黒龍江省のハルピンとほぼ同じ緯度で、南の端が海南島の北岸と同じ緯度ですから、気候の地域差はかなりあります。

例えば、流氷が接岸する北海道の根室の年平均気温(1961~90年)は5.9°Cですが、亜熱帯に属する沖縄の那覇では22.4°Cです。

桜の開花も那覇では2月中旬ですが、北海道の札幌では5月上旬であり、3ヶ月近いずれがあります。

 また、日本は四季の変化が明瞭ですが、太平洋側と日本海側では気候に大きな違いがあるのが特徴です。

それは夏は太平洋から南東季節風が吹き、冬は大陸から北西季節風が吹くからですが、日本列島は山脈が縦断しているので、季節風が吹きつける側は雨や雪が多くなり、山を越えると乾燥します。

そのため、日本の気候は梅雨から夏にかけて雨が多くなる太平洋岸式気候と、冬に雪や雨が多くなる日本海岸式気候と、大きくは二つに分けることができます。

夏の初めの梅雨は、しばしば日本に集中豪雨をもたらし、夏から秋にかけては、毎年のように台風が襲います。

そのうちで日本列島に大きな災害をもたらすものは、9月の中・下旬に来襲する傾向がありますが、1959年の伊勢湾台風(死者・行方不明者5098人)以来、1000人を越す死者・行方不明を出す風水害は起きていません。

 その他、日本列島は環太平洋地震帯にあるため、地殻変動、断層活動、火山活動も活溌で、日本は地震多発国としても有名です。

日本史上最大の被害をもたらした地震は1923年9月の関東大震災で、マグニチュード7.9、東京・横浜では震度7を記録、大火災の発生もあって、死者・行方不明者14万2800余人を出しました。

1995年1月にも、マグニチュード7.3、震度7の直下型地震が阪神地区を襲い(=阪神・淡路大震災)、6433人の死者・行方不明者と推定10兆円の被害をもたらしました。

 そのため、日本では昔から人々が恐れるものを列挙して、「地震・雷・火事・親父」と呼んできたのですが、その一方では、古来、海の幸、山の幸に恵まれ、みずみずしい稲の穂が実るので、「瑞穂の国」と呼ばれたほど、自然環境の豊かな国でした。

現在も日本の国土の約70%(パーセント)を占める山地は森林で覆われており、世界でもトップクラスの森林保有国なのです。

第2課 日本列島に住みついた人々

日本人の祖先はどこから来たのでしょうか。

はっきりしているのは、日本が大陸から分離する前に日本列島地域に住んでいた人たちは、大陸の住人だったことです。

その多くが北方系、或いは南方系のモンゴロイドであることは明らかで、日本語がアルタイ系言語(モンゴル語、満州語、朝鮮語など)に属することはよく知られています。

蝦夷地(=北海道)にはアイヌ民族も住んでいましたが、その系統については定説はありません。

 やがて気候が温暖になると、日本列島には針葉樹林や大型動物にかわって落葉広葉樹林や中小動物が増え、人々は土器や弓矢や磨製石器を使うようになりました。

この土器は縄目の文様を特徴とすることから縄文土器と呼ばれ、その生活文化を縄文文化と言います。

縄文人は竪穴住居に住み、主に狩猟や漁労、木の実の採集によって生活していました。

この時代は約1万3000年前から前400年ごろまで続きますが、縄文中期には、雑穀や陸稲、豆などを栽培するなど、原始的な農耕を行う地域が生まれています。

 紀元前5世紀末になると、中国大陸からの影響を受けて、縄文文化にかわる新しい文化が九州地方に生まれました。

この文化は褐色で薄手の弥生土器を伴うことから弥生文化と呼ばれますが、青銅器や鉄器などの金属器を使用し、水稲農耕を行い、村落生活を営んでいます。

これらを伝えたのは朝鮮半島から渡ってきた人たちで、この水稲農耕は半世紀経つか経たないうちに東北地方にまで広がりました。

この弥生時代を通して、半島からの渡来人と縄文人との混血が進み、現在の日本人の祖先となるのですが、この弥生時代は小国乱立と戦乱の時代でした。

その混乱を収束させたのが、4世紀中頃に成立した日本最初の統一政権である大和朝廷です。

この大和の大王が、後に天皇と呼ばれるようになります。

 当時の日本は中国から「倭」と呼ばれていました。

中国の史書「後漢書」や「魏志倭人伝」には、「倭国は紀元前後には100余国に分かれていたが、長い倭国大乱を経て、3世紀ごろには卑弥呼を女王とし、約30の小国が従う邪馬台国が生まれた。

」と記されています。

また、「魏志倭人伝」には「男はみな入れ墨をする。

女子は髪を束ねて、布の中央に穴をあけ、そこから頭を出して着ている。

気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足で生活している。

人は手づかみで食べ、酒好きで、100歳や80~90歳くらいまで長生きする人が多い。

」とも書いてあります。

確かに、生野菜を食べる、酒好き、長生きなど、現代日本人にも通じますね。

 ちなみに、国家統一を実現した大和朝廷の時代になると、日本人は「倭」という言葉を嫌い、同音の「和」という漢字をあてるようになります。

これが「和語」「和食」などでなじみの「和」の起源です。

 一方、北の蝦夷地に住むアイヌ民族は倭人のことを「シャモ」(「隣人を意味する語)と呼びました。

その名前のとおり、倭人とアイヌ民族は、縄文以来、お互いに隣人として平和的な交易関係を結んでいました。

しかし、15世紀になると、倭人のアイヌの地・北海道への侵攻が強まりました。

この倭人の侵略に対してアイヌ民族は何度も蜂起し、大きな戦いを繰り広げましたが、最終的には敗北し、江戸時代には松前藩の支配下に置かれました。

そして明治以降は、アイヌ民族を「旧土人」と蔑視する明治政府の強圧的な同化政策が行われたため、アイヌ固有の慣習・文化はほとんど途絶え、現在では民族の人口も2万7000~8000人へと大幅に減ってしまったのです。

第3課 日本国家の誕生と天皇

日本には表のような国民の祝日がありますが、この中で一番わかりにくいのは建国記念日でしょう。

 日本最古の歴史書「古事記」「日本書紀」に、紀元前660年に初代の天皇(神武天皇)が即位したと書いてあり、その日が今の暦で2月11日に当たるので、建国記念日となりました。

しかし、これは神話世界の話であり、科学的な根拠があるわけではありません。

 この神武天皇には東征神話があり、それによると、45歳のとき、船軍を率いて日向(=宮崎県)を出発し、瀬戸内海を東へ進み、難波(=大阪)に上陸して大和に向かったが、土地の豪族の軍に妨げられ、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入り、土豪たちを征服し、大和平定に成功したとあります。

もしこれが正しいとすれば、4世紀半ばに成立したという大和政権は、畿内豪族が連合して築いたという通説と異なり、九州地方にいた王族によって作られた征服王朝ということになります。

まあ、どちらが正しいかはともかく、4世紀に統一国家大和が成立し、飛鳥・奈良・平安時代と天皇・公家の政治が続きます。

以後、1185年に鎌倉幕府が樹立され、政治の実権が朝廷・公家から武家の手に移り、武家政治が室町幕府、織田・豊臣政権、江戸幕府265年間と約7世紀続きます。

この武家政治に終止符を打ったのが、1867年の明治維新です。

 さて、今の平成天皇明仁は125代目で、なんとこの皇室は1500年以上続いていることになりますが、世界でこんなに長く生き延びた王族はありません。

それが可能だったのは、おそらく天皇が直接政治に携わらなかったからでしょう。

天皇が実際に国の権力を握って政治を行ったのは7世紀からの2世紀ぐらいで、明治維新後は大日本帝国の元首とされた天皇でしたが、神格化され、祭り上げられた存在で、政治の実権は藩閥官僚や軍部が握っていました。

事実、明治・大正・昭和を通して、天皇が政府や帝国議会の政策決定に口を挟んだことはなく、天皇が下した唯一の裁断は、昭和天皇のポツダム宣言の受託だったと言われています。

 ところで、「日本」という国号ですが、いつから使われるようになったのでしょうか。

もともと日本の国は「やまと」と言いました。

それが大化の改新のころから、東方の「日の本」(日の昇るところ)という意味から「日本」と書いて「やまと」と読むようになったのです。

それをニホン・ニッポンと音読するようになったのは、奈良時代(710~784)以降だと言われています。

 では、「日の丸」(国旗)、「君が代」(国歌)はどうでしょうか。

「日の丸」は古くから武家の家紋や南蛮貿易の船籍を示すものとして使われていましたが、公式には江戸幕府が幕末期に日本総船印として使うことに決めたのが最初です。

続いて明治政府も太政官布告で郵船・商船に「日の丸」を掲げることを定めましたが、一般的にはこの時が「日の丸」が国旗になった日とされています。

「君が代」については、それが初めて演奏されたのは、1880年、明治天皇の誕生日の場です。

以後、事実上の国歌として扱われるようになりました。

このように「日の丸」も「君が代」も天皇制国家の成立と不可分なものでしたから、戦後はその是非をめぐって、学校教育の現場などで激しい議論が闘わされてきました。

1999年の「国旗・国歌法」で法律的には国旗・国歌とされたのですが、今も「日の丸」「君が代」の強制に反対する意見は根強くあります。

第4課 「かな」の発明と日本語の世界

今でこそ日本語は漢字、ひらがな、カタカナと三種類の文字を使って表していますが、もともと日本には固有の文字がありませんでした。

そのため、大陸から伝わった漢字の音を使った万葉仮名を発明し、日本語を表していました。

それは「安(あ)、加(か)」などの音仮名と、訓を使った「三(み)、女(め)」などの訓仮名とに大きく分類されますが、中国語でイタリアを「意大利」と書くのと同じだと思えばいいでしょう。

 仮名はこの万葉仮名から生まれました。

一音一音に漢字を充てていたのでは時間がかかるため、偏やつくりだけを使って作られたのがカタカナで、例えば「伊」と書いていたものを「イ」と書き、「呂」を「ロ」と書きました。

一方、漢字をくずした草書体から生まれたのがひらがなで、「以」がくずれて「い」となり、「波」から「は」ができました。

仮名が使われるようになったのは平安時代初期と言われますが、この仮名が発明されてはじめて、日本人は自らの感情を自由に文字で表せるようになったと言ってもいいでしょう。

このひらがなは、はじめは女性が手紙などを書くときに使っていましたが、「源氏物語」や「枕草子」などの女流文学作品がひらがなを用いて著されると、男性も使うようになり、以後、ひらがなは「文学のための文字」として貴族の間に広く浸透しました。

 言語というのは、その国、その民族の文化の根底にあるもので、本人が自覚しているかどうかにかかわらず、その民族の自然観・人生観が刻まれており、国民性をつくり出しています。

例えば、日本人は「お茶が入りました。

どうぞ」と自動詞を使いますが、中国人は他動詞を使います。

日本人が「魚が釣れた」と自動詞を使うとき、中国人が「魚を釣った」と他動詞を使います。

ですから、中国名「釣魚島」は、日本名が「魚釣島」なんですね。

また、希望を表すとき、英語や中国語では動詞を使いますが、日本語では「~たい」と形容詞を使います。

好悪の感情を表すときも、「好く」「嫌う」という他動詞を使わないで、「好き」「嫌い」という形容動詞を使います。

 このように日本語には自動詞や形容詞などの状態性の表現を好み、意志性の表現を避ける傾向があるのですが、ここに欧米の「対自然」の文化と日本の「即自然」の文化の違いがあると指摘する学者もいます。

この言語が持つ自然に対する態度は根元的なもので、個人の社会観や生活観にまで及んできますから、日本人の自然や世の流れにそって生きることを重んじる傾向や、自己主張するよりも周りとの調和を第一にする精神風土と、自動詞・「なる」や形容詞好きの日本語は、どこかで結びついているのかもしれません。

 また日本語は幅広い敬語体系を持っていますが、それは韓国語のように場面や聞き手に関係なく、常に一定の敬語を使う絶対敬語ではなく、例えば自分の会社の木村社長のことを、顧客に対しては「木村はただ今出かけております。

」と呼び捨てにし、謙譲語を使うなど、場面と相手によって使い分ける相対敬語です。

そのため、話し手は絶えず話し相手や話題の人物との社会的な関係がどうかに気を配らなければなりません。

日本人がビジネス以外にも、初対面の人とは頻繁に名刺を交換するのは、日本人にとって相手の所属する会社名と役職などの肩書きを知ることがコミュニケーションする場合の最優先課題だからです。

ですから日本人は名刺を受け取ると、名前ではなく、真っ先に肩書きに目が向かうんですね。

 このように言葉と文化は切り離せない関係があるのですが、外国語学習にとって大切なのは、この言語や生活行動の背後にある「見えない文化」の違いを知ることではないかと思います。

この「見えない文化」の違いを理解していないと、コミュニケーション・ギャップが生じがちなのです。

第5課 民話「桃太郎」の誕生

岡山県には、吉備津彦をお祀りした吉備津神社があります。

「吉備津造り」という美しい建築様式の神社で、山陽道では代表的な古い神社です。

 この神社の縁起には、吉備津彦が大和朝廷から備讃海峡一帯を支配する温羅一族と呼ばれる鬼の退治を命じられたという話が記されていますが、この伝説をもとにして民話「桃太郎」が生まれたと言われています。

 では、ちょっとこの民話の世界を覗いてみましょう。

 昔、昔ある所に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。

二人には子供がいませんでした。

ある日、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。

 おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が どんぶらこどんぶらこと流れて来たので、おばあさんは桃を拾うと、家に持って帰りました。

おじいさんが帰ってきたので、桃を食べようと、まな板に乗せたたとたん、桃がぱっと割れて、中からまるまるとした男の子が飛び出しました。

おじいさんとおばあさんは、桃から生まれたので、その子を「桃太郎」と名づけ、桃太郎を大事に大事に育てました。

 桃太郎は、一杯食べれば一杯分、二杯食べれば二杯分大きくなりました。

ひとつ教えれば十まで覚え、とても賢くてたくましい若者になりました。

そのころ、悪い鬼が村を襲っては娘を連れ去ったり、宝物を奪ったりしていました。

 ある日、桃太郎はおじいさんとおばあさんに 鬼が島へ鬼退治に行きたいから、きび団子を作ってほしいと、手をついて頼みました。

おじいさんとおばあさんは一生懸命引き止めましたが、桃太郎の気持ちは変わりません。

そこで、きび団子を山ほどこしらえて、桃太郎に持たせました。

 桃太郎が村はずれを通りかかると、犬が「鬼が島へお供しますから、きび団子をひとつ下さい」とやって来ました。

桃太郎は「このきび団子は十人力だぞ。

」と言って団子を分けてやりました。

同様に猿ときじもやって来て、きび団子をもらって桃太郎の家来になりました。

 桃太郎たちは鬼が島を目指して荒海へと乗り出し、日も夜もなく一心に漕ぎ、やがて鬼が島に着きました。

皆、日本一のきび団子を食べているので恐いものなしです。

そして、さらってきた娘たちに酒を注がせて、酒盛りをしている鬼たちを懲らしめました。

 鬼の大将は両手をついて、「もう悪いことはしませんから、命だけは助けてください。

」と謝り、盗んできた品々を差し出しました。

桃太郎は鬼を許してやり、さらわれた娘たちと宝物を舟に乗せて、おじいさんとおばあさんの待つ村へ帰りました。

めでたし、めでたし。

 さて、桃から生まれた桃太郎とよく似た伝説は、古くからアジア各地にあります。

古代中国にも赤ん坊が入ったつぼが流れてくる話があり、南方の島にも、赤ん坊が入った果物が浜に打ち寄せられる話があります。

たぶん、それらの伝説が吉備津彦の鬼退治伝説や中国の勧善懲悪思想と結びついて、民話「桃太郎」が誕生したのでしょう。

 この民話「桃太郎」は、スイスで世界の童話を全部集めて学者たちが検討したところ、世界で一番おもしろくてためになる童話という評価を受けたということです。

めでたし、めでたし。

第6課 和室の安らぎは自然の温もり

日本を離れ、海外に長くいると、むしょうに日本が恋しくなることがあります。

そんな時、決まって思い出すのが、畳敷きの和室、湯風呂、そして焼き魚とみそ汁です。

いわゆる和風の生活なのですが、恋しいのは生活スタイルだけではなく、目に見えない文化のような気がします。

 言うまでもなく、人間は生まれ育った気候、風土、地形などによって生活のあり方を根本から規定されています。

例えば、乾燥し、荒涼とした風土であれば、人間は自然に対して意志的になり、対抗的になると言われます。

逆に日本のように温暖で自然に恵まれた風土であれば、人間は自然に従い、自然の恵みをそのままに受容する生活を求めます。

実は和風の生活の根っこにあるのは、この自然に即した生活であり、それが日本人である私に安らぎを与えてくれるのではないかと思うのです。

 最近、和室というと単に畳敷きの部屋を指すようになりましたが、本来はいろりを囲む居間と、床の間のある座敷という2つの空間から作られていました。

居間が家族の団欒の空間であるとすれば、座敷は特別な行事や接客のための空間で、ふたつはふすまや障子で区切られているだけですから、開けると続き部屋になりました。

また日本では、毎日夜に布団を敷き、朝たたんで片づけますが、そのための押し入れが各部屋に付いているので、同じ部屋を広く色々な目的のために使えます。

この伸縮自在性と多目的性こそ和室の特徴で、寝室、リビング、ダイニングのように用途別に区切られた洋室とは大きな違いがあります。

和室が色々なものを包む風呂敷だとすれば、洋室はいわば用途別に作られた鞄のようなものです。

 この木造の和風建築と和室は、雨が多くて多湿な日本の風土にはぴったりの住居でした。

木は呼吸し、湿度を自動調整してくれますし、畳はもともと寝具のひとつであり、夏は涼しく、冬は保温力があります。

しかも、い草の温もりと香りは、生物たちが大地や森に抱かれたような感覚、ある種の安心感を与えてくれます。

ですから、日本人なら誰でも庭がついた木造一戸建ての和風の家を持ちたいと思うのですが、都市部の地価はとても高く、その上、建築費が欧米の2倍以上もするので、一般庶民にはとても手が届きません。

 そこで現代建築は、アパートや公団のように集合住宅化したり、耐震構造の高層ビル化し、部屋も冷暖房完備、換気、給水、排水設備の整った箱型になり、それぞれが個室化しています。

ところが、これほど建物も部屋も欧米化したにもかかわらず、日本人は畳の生活を捨てようとはしません。

風呂・洗面・トイレが一つに組み込まれた洋式のバスルームも日本人にはなじみにくく、依然として風呂とトイレが別室で、肩まで浸かる伝統的な湯風呂が主流です。

それは、日本人にとって風呂は、ただ汚れを落とすだけのところではなく、心と体の疲れをとる安らぎの場だからです。

 ここには欧米風の生活と文化を取り入れながらも、一方では伝統的な和風の暮らしを頑固に守り続ける日本人のもう一つの姿があります。

和洋折衷と言ってもいいと思いますが、これは日本人が異文化や海外の進んだ技術を受け入れるときの基本スタイルのようです。

 さて、一時期、「兎小屋に住む日本人」と欧米の人にからかわれたことがありますが、最近の新築住宅の平均の広さは100?

で、欧米並みになっています。

ただ、バブル崩壊で安くなったとはいっても、3DKの新築マンションは年収の10倍近くしますから、一般サラリーマンが兎小屋を抜け出すのには、まだまだ少し時間がかかりそうです。

第7課 季節感を味わう日本料理

日本列島は春夏秋冬の別がはっきりしていて、それぞれの季節で産物が異なります。

それらをおいしく食べるには、材料と調理法に季節感を出すこと大切で、食材の持ち味を生かして調理する必要がありました。

そのため、日本料理では強い香辛料をあまり使いません。

そして、ほとんどの料理が、主食である米と日本酒に調和するように作られています。

 食材として獣肉を使うことも極めて少なく、これが日本料理を淡泊な味にしている要因の一つです。

これは肉食を禁止していた仏教の影響が大きいです。

仏教が国教扱いされた飛鳥・奈良時代には、「野獣は食べてよいが、家畜は食べるな」という禁令が再三出されています。

以後、明治に入って洋食が広まるまで、庶民が牛や豚などの肉を食べる機会はほとんどありませんでした。

そして日本では野菜と魚貝類が中心の食卓になるのですが、料理にうま味を出すために使われるようになったのが、昆布、かつお節などの独特の「だし」であり、室町後期に始まり江戸時代に普及した醤油です。

醤油は日本料理になくてはならない調味料であり、この醤油があったからこそ、煮物や生の魚を用いた料理が発達したと言っても過言ではないでしょう。

 また、日本料理は「目で楽しみ、舌で味わう」と言われるように、外形の美しさを尊重して、盛つけの技術とか食器との調和とかの美しさを重んじます。

そこで食器が大切になるのですが、日本料理は原則として1点1人前盛りですし、季節や行事・料理に応じて器を使い分けますから、器の種類や数も自ずと多くなります。

 今の日本料理の基礎が出来上がったのは鎌倉・室町時代と言われていますが、日本料理の食事の作法が確立したのもこのころです。

今では知っている若者も少なくなっていますが、代表的な作法を紹介しましょう。

 姿勢を正して音をたてないで食べること。

食べたあとは膳や皿の上を片づけること。

こみ箸(箸の先で料理を口に押し込む)、移り箸(菜から菜を続けて食べる)、さぐり箸(器の中を箸でかき混ぜて自分の好きなものをとる)、もぎ食い(箸についている食べ物を口でもぎ取る)をしないこと。

骨つきの魚は目の下から箸をつけ、上身を食べたら中骨を外して下身を食べ、骨は皿の隅にまとめることなどです。

 友だち同士で食事をするときは、それほど気にしなくてもいいのですが、将来、料亭などで会食するような機会もあるでしょうから、覚えておいて損はしないでしょう。

 さて、日本には二大食文化があります。

よく挙げられるのが、上方(関西)のうどんと江戸(関東)のそばの味の違いです。

江戸はその後背地が信州など土地の痩せたところが多かったので、そこで育ったそばをおいしく食べるためのそば文化が発達しました。

関東のそばのつゆは

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