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日本陆军航空史15文档格式.docx

12月8日零時、タイ国駐在の外

交機関を通じ、日本軍の進駐に

ついて交渉を始めましたが、難

渋しました。

第10飛行団はクラコール、

シェムレア地区に展開し、偵察飛

行をしていましたが、12月8日

午前7時に第15軍の先遣隊が

国境を突破する際、軍から飛行

部隊の派遣を要請され、威力偵

察のために飛行第77戦隊の

97戦11機と飛行第31戦隊の

軽爆9機が出動しました。

しかし、

第77戦隊機はタイ国軍戦闘機

3機の邀撃に遭い、止むを得ず

これを撃墜します。

8日1130

ころ、平和進駐交渉が妥結しますが、昼過ぎまでは、日タイ両国の衝突が続きました。

 

(2)第10飛行団のタイ国進駐と対ビルマ航空作戦準備1)

第10飛行団は第5飛行集団所属ですが、マニラ攻略までは第3飛行集団の指揮下に入って

いました。

同団の飛行部隊には、独立飛行第70中隊(司偵)、飛行第77戦隊(戦闘)、飛行第31戦隊(軽爆)、飛行第62戦隊(重爆)がありました。

第10飛行団は12月13日までにドムアン飛行場に躍進し、19日には飛行第31戦隊をロップリー飛行場に推進させました。

(3)対ビルマ航空作戦開始1)

    ビルマには、ラングーン、モールメン、マグエの各飛行場に、爆撃機約10機~15機、戦闘機約70~80機、合計約80機~100機が配備されていると見積もられていました。

さらに、インドには約200機が配備されていると見積もられていました。

第15軍の宇野支隊(歩兵1コ聨隊基幹)は、12月8日、タイ南部のプラチャップキリカン、チュンポン及びバンドンに上陸し、それぞれの地域の飛行場を占領します。

そして9日、シンゴラの第12飛行団から飛行第11戦隊(97戦)が飛来し、ビルマ領最南端の飛行場で、ビルマとマレーの中継基地たる、ビクトリア・ポイントを攻撃します。

そして、宇野支隊は12月14日に同地を占領します。

 また、「タボイ飛行場に大型機1機、中・小型機約30機、メルギー飛行場に大型機1機、小型機約17機発見」の偵察情報がありましたが、12日と13日の攻撃は空振りに終わりました。

  

4 マレー進撃とラングーン航空撃滅戦1)

(1) 初期の戦果と戦力の状況1)

      英軍は開戦まで日本の航空部隊の戦力を、欧州諸国の空軍よりはるかに劣勢だと思い込んでいましたので、緒戦の大損害は思いも寄りませんでした。

陸軍の開戦二日間の戦果は、第3飛行集団の報告では「撃墜・撃破110機」、第5飛行集団の報告では「残存米航空機数64機」というものでした。

 開戦時、マレー方面の英軍機数は158機、比島方面の米比軍機数は268機と見積もられていましたので、南方軍総司令部は少なくともマレー英軍機の三分の一以上、比島米比軍機の二分の一以上を撃滅したと判断しました。

既述したように、12月10日には、マレー沖海戦が行われ、海軍の1式陸攻と96式陸攻が戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを雷・爆撃で沈め、全世界に衝撃を与えました。

[三菱 1式陸上攻撃機G4M1型]

全幅:

24.88m、全長:

19.97m、全備重量:

9,500kg、発動機:

三菱『火星』11型空冷星型複列14気筒1,530HP×

2、最大速度:

428km/h、航続距離:

4,287km、武装:

7.7mm機銃×

4、20mm機銃×

1、魚雷/爆弾:

800kg、乗員:

7名。

[三菱 九六式陸上攻撃機カ-15/G3M1型]

25.00m、全長:

16.45m、全備重量:

7,642kg、発動機:

三菱『金星』3型空冷星型複列14気筒910HP×

348km/h、航続距離:

4,400km、武装:

3、魚雷/爆弾:

5名。

海軍の1式陸攻(上)と96式陸攻(右)5)

 マレー方面における陸軍航空機の損失は開戦二日間で31機でしたが、狭い飛行場と滑走路の不良などによって、地上での事故が増加し、12月15には損失機数が59機となりました。

損耗が最も多かったのは戦闘機の21機(うち97戦が11機)で、次に97重の15機でした。

第3飛行集団の機種・機数(昭和16年12月15日現在)1)

飛行団(団長・基地)名

飛行部隊名

機 種

機 数(機)

第3飛行団

(少将・遠藤三郎)

(ナコン)

飛行第59戦隊

1式戦

18

飛行第75戦隊

99双軽

26

飛行第90戦隊

32

飛行第27戦隊

99襲撃

28

第15独立飛行隊      (独立飛行第51中隊欠)

百式司偵

2

97司偵

5

第7飛行団

(少将・山本健兒)

(主力南部仏印)

飛行第64戦隊

26(コタバル)

飛行第12戦隊

97重

25

飛行第60戦隊

41

飛行第98戦隊

42

独立飛行第51中隊

3

第10飛行団

(少将・廣田 豊)

(主力ドムアン)

飛行第77戦隊

97戦

38

飛行第31戦隊

97軽爆

飛行第62戦隊

23

独立飛行第70中隊

7

第12飛行団

(大佐・青木武三)

(シンゴラ)

団司令部

4

97輸

1

飛行第1戦隊

36

飛行第11戦隊

31

飛行第81戦隊

12

合   計

444

(2)ジットラ陣地の突破1)

  タイ・マレー国境近くのジットラ陣地(ジットラ・ライン、小マジノ線)には、英・印軍の第6・第15旅団の6,000人、戦車90両が配置され、堅固な防御陣地を構築していましたが、第25軍第5師団の佐伯挺身隊581名が豪雨の中、桶狭間よろしく12月12日未明から夜襲をかけると、12日の午後5時には英・印軍が撤退、捕虜1,000人、鹵獲した兵器は、砲51門、重(軽)機関銃50挺、装甲車・自動車等210両という大戦果を挙げました。

12月13日には地上軍がアロルスター飛行場を占領しました。

 第25軍には、第83独立飛行隊(軍偵2コ中隊、直協1コ中隊)が指揮下にいましたが、開戦に間に合わず、同飛行隊進出までのつなぎ役として、飛行第27戦隊の襲撃1コ中隊が配属されていました。

襲撃中隊は、アロルスター以北の敵の動きを報告し、師団の作戦指導に密接に協力しました。

(3)第3飛行団の第25軍配属問題1)                                          

  12月19日にスンゲイパタニに進出した第3飛行団長・遠藤三郎少将は、

シタムキリに第5師団長・松井太久郎中将を訪問し、地上作戦に関する調整

を行いました。

そこには、大本営の櫛田正夫大佐と同作戦課航空班長・久門

有文中佐がいました。

 翌日、久門中佐はプノンペンの第3飛行集団司令部を訪れ、「第25軍が、

コタバル及びジットラの戦闘以来、第3飛行集団の地上作戦協力に強い不

満を持っている」として、「一時、第3飛行団を第25軍に配属したほうがいい」

という意見を述べますが、大本営の結論は「現状で差し支えない」というもので

した。

理由は、次のとおりです。

①航空補給補充等の処理能力のない地上軍に飛行団を配属しても適切な戦力発揮ができず、そのような用法は、むしろ無責任となる。

②航空部隊の能力発揮には波があり、コタバル、ジットラ付近の地上作戦時は、全力をあげて制空権獲得に努力し、地上作戦協力は二の次にならざるを得なかった。

また、当時は飛行集団の主力がマレーに進出できず、地上兵団との連絡も不十分であった。

③今後、四、五日もすれば、空地通信の改善、マレー西岸の飛行場整備等により、地上作戦協力が強力に実行できるはずである。

12月22日、第3飛行集団は、司令部をプノンペンからスンゲイパタニに移します。

(4)ラングーン航空撃滅戦1)

○12月23日の航空撃滅戦

   12月21日にビルマ攻略戦が開始され、12月23日にラングーン航空撃滅戦が始まりました。

この日は、1230に第10飛行団がミンガラドン、1250に第7飛行団がラングーン市街を爆撃するよう計画されました。

    

・ 第10飛行団

  飛行第62戦隊(97重)15機、飛行第31戦隊(97軽爆)27機、飛行

第77戦隊(97戦)30機の戦爆72機がラングーンに向いましたが、約30機

のスピットファイアの邀撃を受け、また、高射砲にも撃たれます。

そして、1223

にミンガラドン飛行場を爆撃し、大型機4機を爆破しましたが、追撃戦闘機に

やられ、5機が自爆しました。

ただし、こちらも、敵戦闘機14機(うち不確実

4機)を撃墜しています。

 飛行第77戦隊は、速度の遅い飛行第31戦隊の軽爆を掩護して前進し、

ミンガラドン飛行場に着いたときに約20機の敵戦闘機の邀撃を受けましたが、

軽爆は、大型機3機炎上、小型機3機を破壊し、燃料庫を炎上させて、全機帰還しました。

また、第77戦隊の97戦は空戦により、スピットファイア7機、バファロー2機を撃墜し、さらに地上の中型機1機を撃破し、1500全機帰還しました。

                       

・ 第7飛行団

  飛行第60戦隊(97重)27機は0935にプノンペン飛行場を離陸し、

1050ドムアン上空に達しますが、飛行第98戦隊(97重)18機がすでに

同飛行場から先に離陸していたため、空中集合することなくラングーン港

を目指しました。

しかし、第98戦隊機がラングーン上空に来ると、すでに

敵戦闘機が待ち構えていて、応戦のために港湾や船舶を爆撃できず、

止むを得ず総督政庁、郵便局、電信電話局付近を爆撃しました。

この際

2機が自爆しました。

 その1~2分後、第1中隊長・渥美少佐機が、後上方から敵機の乱射を

浴び、同乗していた戦隊長・臼井茂樹大佐が戦死されました。

食い下がる

敵戦闘機に対して戦隊もよく応戦し、撃墜16機(うち不確実4機)の戦果を挙げました。

 いっぽう、第60戦隊がラングーンに入ったときにはまったく静穏そのもので、碇泊中の中型輸送船を爆撃しましたが、至近弾2~3発のみでした。

その後、敵戦闘機2機の攻撃を受けましたが、全機無事に帰還しました。

・ 第一撃後の作戦指導

   菅原集団長がドムアンに着いたときに重爆隊が帰還し、被害が予想以上に大きかったことから、集団長は報復攻撃を企図して、サイゴンに控置していた独立飛行第47中隊(『鐘馗』装備の『空の新撰組』)を集団の指揮下に入れるよう意見具申をしました。

また、97戦だけでは弱いと見て、第7飛行団長に飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)を直ちに呼び寄せるよう命じました。

 南方軍総司令部の阪口総参謀副長と松前参謀は24日1900、作戦指導のためにバンコクに来て、「ビルマは支作戦正面であり、無理な戦闘を続けた場合は損耗が増えるばかりなので、敵戦闘機を撃滅するためには、戦闘機のみを指向するのが適当である」と述べますが、飛行集団と飛行団の参謀は、「すでに第2次攻撃の命令を下達しているので、あとは集団に一任されたい」と押し切りました。

○ 12月25日の航空撃滅戦

・ 第7飛行団                  

  12月25日1130、ドムアン上空を発進した飛行第

12戦隊の97重27機、飛行第60戦隊の97重36機、

飛行第64戦隊の隼25機は、高度4千メートルでラング

ーンに向かいました。

先頭の第12戦隊がラングーン河

口付近にさしかかったとき、戦隊長搭乗の草刈第1中隊

長機が機関故障を起こし、草刈機は隊列を離れようと、約

500メートル降下しました。

しかし、隊長機の故障を知らない各編隊は、一様にこれに従ったため、元の高度に復帰したときには、すでに第60戦隊が先に行っていました。

 しかも、第60戦隊は高度6千メートルまで上昇したため、今度は、高度を上げなかった第12戦隊が先に爆撃態勢をとり、ラングーン市の発電所を爆撃して帰路につきました。

このころから、敵機20機~30機の攻撃を受け、掩護の第64戦隊は激しい空中戦を展開しましたが、第12戦隊は、自爆3機、不時着1機、機上戦死2~3名の損害を出しました。

いっぽう、第60戦隊は1400、ミンガラドン飛行場を爆撃し、帰途、敵4~5機から攻撃され、若干機が被弾しましたが、全機ドムアンに帰還しました。

 飛行第64戦隊は爆撃前に重爆両戦隊が分離したため、戦力を二分して掩護することは困難と見て、第64戦隊主力は、まず第12戦隊を掩護しました。

しかし、加藤戦隊長は、第60戦隊を心配して、単機で追随し、これを掩護しました。

 ところが、敵の戦闘機(バファローと一部ハリケーン)の大編隊が、我が第12戦隊に集中して第64戦隊主力と空戦を始め、第64戦隊の全機が空戦にあたって掩護機がなくなった隙に、敵の高速戦闘機が直接重爆を攻撃してきました。

この状況を見ていた加藤戦隊長は、単機、全速力で第12戦隊に追及し、敵機を撃破しました。

この様子については、前号の『加藤隼戦闘隊』で述べたとおりです。

飛行第62戦隊(97重)8機はドムアン飛行場、飛行第31戦隊(97軽)27機はロップリー飛行場、飛行第77戦隊(97戦)32機はラーヘン飛行場からそれぞれ出発し、1245にラーヘン上空、高度4千メートルで編隊を組み、1353、ミンガラドン飛行場を攻撃しました。

 上空にはすでに、トマホークP-40及びバファロー約20機が占位しており、直ちに空中戦に入りました。

戦闘機はよく掩護し、8機を撃墜(うち不確実4機)しましたが、3機が未帰還となりました。

この日も敵戦闘機の追尾を受け、飛行第77戦隊の1機が不時着しました。

この爆撃により、小型機5機炎上、3機大破のほか、滑走路及び飛行場施設に損害を与えました。

○ラングーン航空撃滅戦の教訓

菅原集団長は2回の攻撃でこれを中止し、シンガポール作戦に専念することとしました。

英軍戦闘

機の防空・戦闘能力や敵高射砲の能力を過小に評価していたこと、集団の行動に慎重さが足りなかったこと等が反省事項として上げられました。

そして、今後は厳重な戦爆協同を行うこととしました。

また、英軍の戦意が非常に旺盛であり、これによって我が

航空戦力に被害が続出したことで、航空作戦の実

態を改めて認識しました。

(5)12月末から1月末までの第3飛行集団の第

25軍に対する直接協力等1)

  12月26日:

 ペラク河渡河作戦開始。

第3飛

行団はスンゲイパタニから同日以降地上作

戦協力実施。

同日、ゲマス及びバッガジャ付

近の鉄道及び輸送車両等を攻撃。

  27日:

 2140、ブレンハイム3機が約30分間に

わたりスンゲイパタニ飛行場に来襲し、襲撃

機1~2機が被弾炎上、類焼によって襲撃

機7機が焼失、輸送機及び司偵各1機が

大破、受弾機40数機、小破24機という大

損害を被る。

  28日:

 第3飛行団長・遠藤三郎少将は、士気

を鼓舞するために、前夜やられた飛行第27

戦隊の残存機2機を地上部隊協力のために

出動させるが、1機が未帰還となる。

また、1650、隼7機(飛行第59戦隊) 

及び双軽18機(飛行第75戦隊)でメダン飛行場を攻撃し、在地の大型機1機、小型機3機

及び格納庫、弾薬庫を爆砕・炎上させ帰還。

夜間またもやスンゲイパタニが空襲され、軽爆1機炎上、1機半焼の被害。

29日:

 飛行第59戦隊(隼)及び飛行第90戦隊(99双軽)はクルアン飛行場を攻撃し、飛行第

75戦隊(99双軽)は侘美(たくみ)支隊支援のため、クワンタン方面に出撃。

2100、飛行第75戦隊の森谷機が初のシンガポール爆撃実施。

  30日:

 第5師団がカンパル方面の敵攻撃を企図するや、第3飛行団は、同方面の敵車両十数

     両を炎上させ、クラン方面で千トン級船舶、ムルト方面で6千トン級船舶を各1隻、破壊炎上さ

せる。

ワンタン方面では、第3飛行団の一部が、自動貨車約30両を爆砕。

  31日:

 第5師団はカンパル西南西地区に進出、第3飛行団はこれに協力し、自動車数両、高

射砲1門、高射機関砲5門などを破壊制圧し、さらに、マラッカ海峡で3千トン級船舶1隻を

炎上させる。

侘美支隊は早朝、頑強に抵抗する敵を撃破してクワンタンに突入。

  1月2日:

 飛行第27戦隊がイポー飛行場に進出。

比島では、この日にマニラが陥落。

  3日:

 第3飛行団の休養日に予定されていたが、カンパル方面の敵退却の報に接し、同団は全

力で地上部隊の支援開始。

4日:

 第3飛行団はスリム付近で、自動車13両炎上、マラッカ海峡で3千トン級船舶1隻炎

  上の戦果を挙げる。

5日:

 飛行第75戦隊が0230から天明まで、クルアン飛行場を反復攻撃して敵機を拘束し、飛

行第59戦隊及び飛行第90戦隊が天明に攻撃を行い、6機炎上、9機撃破。

指揮所をイポー飛行場に推進。

       飛行第27戦隊は、スリム付近を退却中の敵に対して10次にわたる攻撃を行い、自動貨車

38両、装甲車11両、高射砲3門、兵舎2棟を破壊(スリムの戦闘)。

 8日:

 軽爆戦隊の一部をイポー飛行場に推進し、飛行第90戦隊がクラン飛行場を爆撃。

         

9日:

 「シンガポールに敵機約160機集結」の報に、菅原集団長はクワンタン飛行場に第12

飛行団を緊急展開させ、シンガポール攻撃準備をさせる。

  10日:

 0400ころ、敵機2機がイポー及びスンゲイパタニに来襲し、1式戦、97戦各1機が炎

上。

第3飛行団はマラッカ付近で3千トン級貨物船1隻を炎上、潜水艦2隻を大破させ、

また、マラッカ北方タムピン東方で列車等を攻撃転覆させる。

  11日:

 第3飛行団は第25軍の追撃戦闘に密接に協力、タムピン東方で鉄道を遮断し、機関

車、貨車、列車等を爆

砕。

シンガポール行き

の鉄道を完全に遮断さ

れた敵は、マラッカから

海上逃走を企図か、

列車でマラッカに集中。

第3飛行団は、スレン

バン及びマラッカ停車

場を攻撃するとともに、

主力をもってマラッカ

付近の敵船舶を攻撃し、

貨物船3隻にそれぞれ

命中弾2~3発を与える。

 (6)シンガポール航空撃滅戦1)                                     

  1月6日、スンゲイパタニの第3飛行集団司令部において、各部隊の作戦主任者を集めて、『航空作戦計画』の説明と作戦研究が行われました。

  シンガポール地区にあるセンバワン、カラン、セレター及びテンガーの各飛行場には、それぞれ30機~40機の航空機が認められ、照明灯70基、高射砲120門~200門が配備されていると見積もられました。

8日、南方軍は第3飛行集団長に対し、ビルマ方面敵空軍の撃滅及び第15軍に対する作戦協力等の任務を解き、集団に配属中の第10飛行団、第40、第97飛行場大隊、航空通信第1聨隊の一部(有線、無線各1中隊)及び集団隷下部隊である第7航空地区司令部、第15飛行場大隊、第9、第29飛行場中隊、野戦高射砲第36大隊、兵站自動車第90中隊、陸上勤務代80中隊が、比島からタイに転用される第5飛行集団の指揮下に移され、これらの部隊がビルマ方面の航空作戦に参加することになりました。

シンガポール攻撃のためには、クワンタン飛行場(シンガポールまで直距離で250キロ)に航空資材を集積する必要があり、南方軍の鈴木京参謀が中心となって、機帆船4隻に航空燃料、弾薬、食料等

合計200トンを積んで、コタバルからクワンタンまで、敵の攻撃を受けつつ決死の覚悟で運びました。

                                           

○ 第

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