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China011戦後の日本の教育と人口変动本文

第二次大戦後の日本の人口変動と学校教育

広島大学大学院教育学研究科 教授

山崎 博敏

はじめに

第二次世界大戦後の日本の教育制度

1 出生数の変動:

第1次と第2次ベビービーム

第1次ベビービーム

第2次ベビービーム

1980年代以降の少子化

児童生徒の急増急減

2 義務教育:

小学校と中学校

 1950年代の「すし詰め」学級

 教育条件の改善:

教職員配置改善計画

 学級規模縮小から指導方法改善へ   

 地方自治体主導の学級規模縮小

3 高校

 高校教育の普遍化

 カリキュラム改革

 高校再編成:

学校の統廃合と多様化

4 教育人口減少期の新しい問題と展望

 大学全入時代と受験戦争の終焉

 初等中等教育への影響

 学力低下の危惧と学力向上政策

 自由を与えられた地方自治体の教育改善への努力とその障壁

教育社会学の一つの可能性

 

はじめに

第2次大戦後、日本には、1940年代末と1970年代初めに、2回の大きなベビーブームがあった。この2回のベビーブームにより、生徒数は急増急減し、さまざまな教育問題を生み出した。日本の教育政策の大部分は、生徒数急増急減対策でもあった。

このような大きな教育人口の変動の中で、政府は長年、全国的な教育水準の維持向上と機会均等に努力してきた。

そして近年進行している出生数と生徒数の減少は、高校や大学の統廃合、教員養成学部の再編成の他に、大学入試の易化に伴う新しい「問題」を生み出している。

さらに、巨額の債務を抱えた中央政府の財政危機は深刻になり、初等中等教育を管理している地方自治体への補助金は削減され、地域間の教育水準の格差が拡大しようとしている。また、近年、学力の低下への危惧が高まり、教育に対する国民の関心が高くなっている。

ここでは、第二次世界大戦後の約60年の間、日本の政府が、児童生徒数の大きな変動の中でどのように学校教育の条件や教育水準を改善しようとしたかを分析し、さらに、近年の児童生徒数の減少が将来、教育条件の格差や平等にどのような影響を与えるかを考察する。最後に、教育の改善に対して、教育社会学がどのように貢献できるかを考察したい。

第2次世界大戦後の日本の教育制度

戦後教育改革により、戦前の複線型の教育制度は、アメリカ的な単線型の教育制度に変わった。

戦前は小学校(6年)だけが義務教育であったが、新しく中学校(3年)が創設され、義務教育は9年になった。

中等教育では戦前には3種類の学校(中学校、高等女学校、実業学校)があったが、一元化され1948年度に新しく高校(HighSchool)が誕生した。

高校を卒業した者はすべて大学入学試験を受ける資格を有することになった。

この結果、高校入学希望者は急増し、1960年代には、大学入学希望者が急増した。

高等教育では旧制の大学と専門学校(ProfessionalCollege)が一元化され1949年度に新制の大学が誕生した。

全ての都道府県に国立大学が最低1校設立された。その多くは、大学と専門学校の合併によるものであった。

1953年にはアメリカをモデルとする大学院が有力大学に設置された。

ただし、1950年には短期大学、1962年には高等専門学校、1977年には専修学校など短期高等教育機関が発足し、高等教育機関は多様化した。この中で、短期大学の役割は注目すべきである。短期大学は1960年代から1970年代までの日本の高等教育の爆発的拡大に大きな役割を果たした。戦前の私立中等学校のほとんどが、戦後、高校になり、その高校の多くが短期大学を創設した。その短大の多くが、その後4年制私立大学に昇格した。専修学校は、当時の政府が私立大学の入学者の過剰な受け入れを抑制した時に、あふれ出た大学入学希望者の受け皿として創られた。

初等中等学校や高等教育機関は、原則として、国、地方公共団体(都道府県や市町村)および学校法人によって設置される。

特別に認められた一部地域で、株式会社による学校設置が認められているに過ぎない。設置者が学校や大学の管理運営を行う。小学校と中学校のほとんどは市町村によって設置された公立学校がほとんどである。

公立の小学校と中学校の教員の人件費は都道府県が負担し、土地や建物・設備は市町村が負担する。国は、都道府県と市町村に対して、多額の補助金をしている。

高校も公立が圧倒的に多いが、都市部では数多くの私立高校がある。

 

1 出生数の変動:

第1次と第2次ベビービーム

第1次ベビービーム

1945年の第2次世界大戦の終了により、中国・朝鮮・東南アジア等の戦地から大量の青年が日本本土に帰ってきた。

多数の戦死者により日本の人口が減少したこともあって、食糧難にもかかわらず、子どもを産むことが奨励された。出生数のピークは、1949年で、270万人もの子どもが産まれた。これが第1次ベビーブームと呼ばれている。このころは、10人以上の子どもを産む者も珍しくなかった。

しかし、1950年代初めに人口妊娠中絶が禁止され、避妊が普及したため、出生数は急速に減少した。少産少子時代が徐々に始まった。

図1は、1947年以後の出生数と合計特殊出生率(女性が生涯に出産する子どもの数の推定値)を示している。1947,48,49年には大量の子どもが生まれ、その後急減した。1966年は、ひのえうま(丙午)の年で、出産が控えられた。日本では、何百年も前から、丙午生まれの女性は、気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮める、と信じられている。

この戦後直後の第1次ベビーブーム世代は、1954年に小学校に大量に入学した。彼らは、その後、1960年には中学校、1963年には高校に、そして1966年には大学に入学した。

彼らが大量に入学した結果、教室は児童生徒で一杯になった。1960年代には、高校入試や大学入試の競争率が高くなり、受験競争は激しくなった。

彼らは大学では「学園紛争」の主役となり、学校卒業後は、高度経済成長の労働者として活躍したが、この数年間に大量に退職する。

彼らは高齢化社会の主役となる。この世代は、第2次大戦後の日本の社会問題を創り出してきた。

第2次ベビービーム

第1次ベビーブーム世代は、1971年から1974年にかけて大量の子ども産んだ。これは第2次ベビーブームと呼ばれた。そのピークは、1972年で、出生数は209万人であった。

第2次ベビーブーム世代は、1970年代末から1980年代に小学校に入学し、児童生徒数は再び増大した。

1980年代半ばには、彼らを収容するために多数の高校が新設された。

その世代は1990年代初頭に大学などの高等教育機関へ押し寄せた。

1980年代以降の少子化

 1975年以後、出生数は長期間、急減した。

その最大の原因は、女性が多くの子どもを産まなくなったことである。

合計特殊出生率(女性が一生の間に産む子供の数)は、1975年に2.00を下回えい、それ以後も減少を続けている。

その背景には、女性の高学歴化、就労女性の増加、未婚率の増大、結婚年齢の上昇がある。

出生数の減少は1994年までは急激であったが、それ以降、ゆるやかになった。

2007年の出生数は109万2662人で、出生率(人口千人当たりの出生数)は8.7で、合計特殊出生率は1.32であった。

第2次ベビーブーム世代は、2000年頃に多数の子どもを出産すると期待された。

しかし、実際には、第3次ベビーブームは起きなかった。出産適齢期の女性の数は、近い将来減少するから、出生数は大幅に減少することが予想される。

児童生徒数の急増急減

 図2は、1950年から2007年までの、小学校から大学までの在学者数(生徒数)の変化を示している。小学校、中学校、高校の生徒数は、2つの大きな山がある。

2つの大きな山は、第1次と第2次のベビーブームの世代の生徒を示している。しかし、近年、生徒数は大幅に減少しており、将来も減少が続くことが見込まれる。

高等教育の学生数は、近年、大学微増、短大減少、専修学校横ばいの傾向にある。このように日本の高等教育の規模の成長は停止している。

そして高校卒業し大学短大への入学希望者数と大学短大入学者数が等しくなる「大学全入時代」が近く到来することが見込まれている。

高等教育の規模拡大の停止と「大学全入時代」の到来は、高等教育だけでなく、初等中等教育にも重大な影響を与えると考えられる。それらは、戦後日本の教育で最大の問題であり、諸悪の根源とされた受験競争が弱くなるからである。その影響については、最後に述べる。

図1 出生数の推移

図2 在学者数(生徒数)の推移

 

2 義務教育:

小学校と中学校

1950年代の「すし詰め」学級

第1次ベビーブーム世代は、1954年度から小学校に入学し、1958年までに小学校生徒数は急速に増大した。

多くの学校では、教室に生徒が溢れた。

60人以上もの児童が狭い教室に机を並べた。机と机の間を通ることは難しくなり、児童が肘を伸ばすと隣の席の児童の身体に接触した。

ある広島大学教授がこの風景をみて、まさに「すし詰め」だと言った。教壇から見ると、教室の中の多数の児童は、あたかも、小さな箱にぎっしり詰められた寿司のように見えたのである。

教育条件の改善:

教職員配置改善計画

中央政府は、このような悪い教育条件を改善することを計画した。1950年代半ばには、日本経済は急速に復興し、国家財政も改善した。1958年に「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」が制定され、1959年から施行された。

この法律では、公立の小中学校では、一つの学級の規模は50人を標準とするとされた。

さらに、その法律では、校長以外の教員の数は、小学校では1学級に1人、中学校では2人とされた。

したがって、1学年2学級の学校の場合、小学校では13人(校長1,教員1人*2学級*6学年=12人)、中学校でも13人(校長1、教員2人*2学級*3学年=12人)となる。

日本では、学級規模の上限が定められているため、ある学校の1学年の児童生徒数が決定すると、その学年の学級数が決定する。

学校の学級数が決定すると、学校の教員数が自動的に決定する。

そして、義務教育費国庫負担金制度により、教員の人件費の2分の1が、国から地方自治体(都道府県および政令指定都市)に義務教育国庫負担金として提供される。

残りの2分の1は地方自治体(都道府県および政令指定都市)が負担するようになった。なお、最近、その割合は1対2に変更された。

1959年度から1963年度までの5年間、「第1次教職員配置改善計画」という政策が実行された。

全国の小中学校で34000人の学校教員が増員された結果、5年後の1963年度には50人学級が実現した。わずか5年で「すし詰め」学級が解消したのは、その時期が生徒数が減少期であったためである。

その後の義務教育学校の学級編制の基準と教職員定数の改善に関する政府の計画は表1に示している。1964年度から1968年度までは、45人学級の実現を目指す第2次の教職員配置改善計画が実施された。しかし、45人学級を実現するのに15年もかかった。

1978年にやっと45人学級が実現した。1980年から40人学級の実現を目指す第5次計画が実施された。

40人学級が実現したのは、12年後の1991年ころであった。

図3と図4は、公立の小学校と中学校の学級規模の分布の推移を示している。1960年から1970年の10年間に過大規模の学級が消滅し、同様に、1980年から1990年までの10年間に大規模学級の縮小が急激に進行した。この2つの時期は、生徒の減少期にあたっていた。

学級規模の標準と義務教育国庫負担金に関する法令は、全国すべての都道府県に一律に適用された。さらに、公立学校教員は、都道府県等の公務員として雇われ、県内の学校を転勤する。

これらの法律や制度は、都市であれ農村であれ、富裕な地域であれ貧乏な地域であれ、日本全国すべての公立小中学校に適用されている。それらは、日本全国の義務教育学校の教育水準を一定の水準に維持することに貢献し、少なくとも地域的な教育の不均等を小さくすることに大きな役割を果たしてた。ただし、国は、長い間、地方自治体に対して生徒数40人などという学級規模の上限を守ることを強制したため、地方独自の創意ある政策は実行しにくかった。

学級規模縮小から指導方法改善へ

40人学級は1990年代初めに既に実現したが、国自体は、最大学級規模を35人や30人へ縮小することは計画していない。財務省(旧大蔵省)は、国の財政難と小規模学級の教育効果が不透明であるとの理由で、学級規模の縮小に反対している。

そのため、文部科学省は、学校での指導方法の改善を中心とする教職員定数の増加を行ってきた。1964年以来、養護教諭(看護婦免許を有する保健室の教員)や大規模校での教頭複数配置、小学校専科教員(音楽、体育など)などが実現されてきたが、1991年からは、ティーム・ティーチング(TT)や特定教科での少人数学習を実施するために教員定数を増加させている。

地方自治体主導の学級規模縮小

国は、40人の児童生徒で1学級を編成する原則は変えていない。

しかし、規制緩和政策の一環として、1998年の中央教育審議会答申を受けて、文部科学省は、2001年から都道府県独自に40人を下回る小規模な学級を編成することを認めた。

地域の教育を改善するために最大35人や30人の学級を実現しようとする県知事や市長も多い。表2に示しているように、2005年現在、47都道府県のうち45道府県で40人を下回る「少人数学級」が実施されている。この中に、財政が最も豊かな東京都は含まれていない。財政状況に恵まれていない地方の道府県が、独自に費用を負担して少人数学級を導入しているのは、皮肉である。

表1 戦後における義務教育学級編制基準の改善の経緯

図3 公立小学校の学級規模の分布の推移

図4 公立中学校の学級規模の分布の推移  

表2 地方独自に40人未満の小規模学級を編成している都道府県(2005年)

 

3 高校

 

高校教育の普遍化

中等教育が単線化し、経済成長の結果、国民の所得が増加したことにより、高校進学率は急激に増大した。

図5に示すように、1955年には中学校卒業者の50%、1960年には60%、1965年には70%、1970年には80%、1975年には90%の者が高校に進学するようになった。大学と短大への進学率も1960年には10%、1970年には20%、1975年には30%、1985年には50%を超えた。つまり、1950年代に高校は大衆化し、1970年代には、普遍化した。

公立高校の学級規模は、表3に示すように、第1次計画(1962-66年)では、最大50人が目標とされた。この計画は、第1次ベビーブーム世代の大量入学のため、完全には実現できなかったが、1967年から1991年までに45人学級が実現した。1993年からは、生徒数の減少期であったため、40人学級の計画は容易に実現した。最近では、高校生が大幅に減少しているため、1学級20人や30人程度の小規模の学級も多い。

国は、公立高校の学校規模について標準を定めている。最小規模は1962年からは生徒数300人、1967年からは270人、1993年からは学級数6(生徒数240人)以上と定められた。しかし、標準は義務ではなく、努力規定である。

実際には、地方の農村部では小規模な学校が多い。

図5 高校と大学等への進学率

表3 戦後における公立高校学級編制基準の改善の経緯

 カリキュラム改革

第2次世界大戦前、中等教育は厳格なエリート教育であった。

戦後の高校は、男女共学、総合制、学区制を採用するアメリカ的な学校に変貌したが、1956年ころから軌道修正した。

表4は、高校学習指導要領の変遷を示している。1960年代には、スプートニクショックの影響により、科学技術重視のカリキュラムとなり、高度な授業科目が導入され、卒業に必要な単位数が増加した。しかし、同時に高校が急速に拡大し大衆化したため、高校生の進路は多様化し、高校の授業科目の種類が増加した。例えば、数学や理科では、文系の大学進学希望者や就職希望者は数学ⅡAを、理系の大学進学希望者は数学ⅡBなどが提供された。

第1次ベビーブーム世代が大学に入学した1960年代は、大学受験競争が最も激しかった。

大学や短大の志願者数は、入学者募集数は常に上回り、入試競争率は高かった。高校教育は、大学受験に役立つような画一的な詰め込み教育が支配的となった。

このような状況は、社会問題とされ、受験準備教育が、健全な教育を妨げていると批判された。国は、この「問題」を解決するために、高校入試や大学入試の制度を改革し、学習指導要領の精神を大幅に方向転換した。1970年代に入ると、高校は、誰もが進学する学校となっていた。

高校生はますます多様化し、卒業後の進路も多様化するだけでなく、知的関心や勉強に対する意欲に欠ける者も増加した。

国は、詰め込み教育と画一的な教育からの脱却を図った。1970年の高校学習指導要領では、必修単位数は47単位に削減され、生徒の科目の自由選択科目の幅が増加した。1978年の改訂では、卒業に必要な単位が85単位から80単位へ削減された。

また、従来の均質な学級編成を改め、生徒の学力に応じて学級を編成する習熟度別学級編成の導入が奨励された。1989年の改訂では、科目の種類が増加し、平易な科目が新設された。

1998年の改訂では、学校週5日制が実施され、土曜日が休日になり、授業時間数が削減されたため、通常の教科の学習内容が約30%削減された。

このような教育内容の路線は、「ゆとり教育」路線と呼ばれているが、現在、大幅に修正されようとしている。

表4 高校学習指導要領の変遷

高校再編成:

学校の統廃合と多様化

高校は、これまで、普通科高校と専門高校の2種類があった。

普通科卒業生の大多数は大学に進学する。

専門高校卒業生は就職する。

しかし1980年代には、工業や商業、農業などの専門高校でも、大学進学を希望する者が多くなった。

そのため、多くの専門高校では、大学進学希望者を対象とする普通コースを設けるようになった。

普通コースでは、機械工学や電気工学は少ししか学習せず、国語や数学、理科や社会、外国語などを多く学ぶ。

専門高校は、卒業後技術者になることを目的とした教育を行ってきたが、その存在基盤が揺らぎはじめた。

さらに、定時制高校や通信制高校も変化した。

これまでのように昼間会社で働きながら夜間の定時制高校に進学する者の割合は徐々に減少した。

むしろ、働かないで定時制高校だけに就学する者が増加した。また、労働形態が多様化し、夜間に働く者も増加した。増加した高校中退者の中には、再び高校で学習したい者も現れている。

昼間に授業をする定時制高校に対するニーズが生まれた。

このように、従来の普通科高校と専門高校、全日制と定時制・通信制という制度的枠組みが崩れてきた。

1980年代には、高校教育は普遍化の段階を超え、高校生の多様なニーズに対応した、新しい高校教育が求められるようになった。

1986年に創設された臨時教育審議会は6年制中等学校と単位制高校を答申した。

1991年3月の中央教育審議会の答申「新しい時代に対応する教育の諸制度の改革について」は、普通科・職業科の他に第3の総合学科の設置と単位制の活用などが提唱された。

これを受けて、1990年代には、総合学科高校、単位制高校、多様な学科・コース・授業科目を有する学校が創設された。総合制高校では、単位制が導入され、幅広い学問領域の授業科目を自由に選択して学習するカリキュラムが用意された。中高一貫教育学校も新設された。

第2次ベビーブーム世代は、1980年代半ばに大量に高校に進学するようになった。

そのため、全国各地で、多数の高校が新設された。1970年に4798校であった高校数は、1980年に5208校、1990年には5506校に増加した。しかし、1989年に高校生はピークの564万人を迎えた後、翌年から減少に転じた。2006年には349万人にまで減少し、ピーク時の62%になっている。高校生の数の減少は都市部よりも地方で著しい。

そこで、全国的に、高校数の減少と再編成が不可避となっている。最近の傾向は、第1に、普通科に複数のコースの設置、専門高校の拠点校への集約、工業や商業などを包含する総合専門高校の設置、通信制課程と定時制課程を併せ持つ新しい定時制高校、独立した定時制高校や通信制高校、などである現在の日本の高校は、表5のようなさまざまな類型に分類される。

第2に、地方では、高校生の減少が著しく、大規模高校の学級数減少(中規模化)、小規模校の廃止と統合が計画され、実施に移されている。統廃合された高校は、新しいタイプの高校へと姿を変えている。

表5 多様な高校類型

 

4 教育人口減少期の新しい問題と展望

 大学全入時代と受験戦争の終焉

日本の初等中等教育の質の高さは、国際学力評価学会(IEA)やOECDのPISAによる国際学力調査において、過去、世界の上位にあった。

それは、これまで、児童生徒が勤勉に学習してきたからであろう。

これは、受験競争と密接に関連している。

日本の教育は、100年以上の長い間、受験競争の体制下にあった。

上級学校への志願者数は入学者募集数を常に上回り、大学に入学するにも高校に入学するにも厳しい入学試験があった。

そのため、児童生徒は、志望校への不合格への恐怖が動機づけとなって、外発的ではあったが、熱心に勉強した。

ところが、我が国の教育を支配していたこのような図式が崩れてきた。

1990年以来、高校生の数は減少を続けている。

高等教育への進学率は上昇しているが、大学と短大への入学志願者数は、減少傾向にある。

その結果、近い将来、大学と短大への入学志願者数と大学短大の入学定員数が等しくなることが確実な状況である。

つまり、大学・短大への志願者は全員大学短大に入学できるようになる。

これを「大学全入時代」と呼んでいる。

初等中等教育への影響

大学全入時代は、高等教育だけでなく、初等中等教育にも大きな影響を与えるであろう。

全体として、大学への受験競争は易化する。

志願者が多い一部の有名大学は依然として競争率は高いが、短期大学や地方の私立大学では、志願者の確保が難しくなる。

事実、入学者数が入学定員を下回る「定員割れ」に苦しむ大学短大が増加している。

それらの大学・短大では事実上、無試験入学になっている。

入学願書を提出した者は、大きな問題がない限り、入学を許可される。

これまで長い間、激しい大学入試は、初等中等教育を「応試教育」にしていると批判された。

しかし、歯車は逆転し始めた。

大学入試は易化した。

その結果、高校生は、受験勉強しなくても、どこかの大学短大に入学できるようになる。

入学試験への不合格という恐怖がなくなり、勉強への「外発的な」圧力がなくなると、平均的な児童生徒は、勉強しなくなるだろう。

このような兆候は既に現れている。

例えば、2000年には、1990年や1996年よりも、小・中・高校生の学校外の学習時間や家庭で学習する日数は減少し、逆にテレビを見る時間は増加していた(ベネッセ教育研究所,2001年11月)。

大学全入時代の到来は、生徒に対する教師の指導力を弱めるであろう。児童生徒に「勉強しないと大学に入学できないよ」という教師のことばは効果がなくなる。

教室の秩序は現在以上に崩れてくるだろう。

受験勉強から児童生徒が解放されるのは望ましいことである。

しかし、学校や学級の秩序維持や生徒指導など、教師は、授業以前のことがらに大きな力を注がねばなくなる。

学力低下の危惧と学力向上政策

1999年に出版された『分数ができない大学生』

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