日本语言叶の违いWord文件下载.docx
《日本语言叶の违いWord文件下载.docx》由会员分享,可在线阅读,更多相关《日本语言叶の违いWord文件下载.docx(16页珍藏版)》请在冰豆网上搜索。
リング」、「アイ?
ラブ?
ユー」、「ウェルカム」)の表音表記にも用いられています。
但、外国語の表記に関しては、アルファベットで表記することも多くなっています。
特に、固有名詞についてはアルファベット表記の方が一般的であるようにも思います。
外国語のアルファベット化が外来語の表記に影響するかどうかはわかりませんが、将来的にカタカナ表記された語の比率は減少してゆくと、私は予測しています。
「々」は何と読むのですか?
まず、文字の〈読み〉というときに、「読み上げ方」(家辺1998の用語による)と「呼び方」とを区別して考える必要があります。
例えば、『外』という文字(漢字)を、「『そと』という字」と呼ぶことがあるでしょう。
しかし、『外』には「そと」「ほか」「と」「はず(す)」「ガイ」「ゲ」などの様々な読み方があります。
つまり、ある文字をどのように呼ぶかということ(=呼び方)と、その文字をどのように読むかということ(=読み上げ方)とは、異なるものなのです。
一般に、あらゆる文字はそれぞれの〈呼び方〉を持っていますが、〈読み上げ方〉を持っているとは限りません。
このことは、文字が原理的に発音可能である(何らかの音声に置き換えることができる)ものに過ぎず、音声を表わすためのものではないということを意味していると解釈できます。
例えば、『、』には「読点」や「テン」という〈呼び方〉がありますが、「私は、学生です」という文を「ワタシハトウテンガクセイデス」「ワタシハテンガクセイデス」のように読み上げることはありません。
これは、『、』を「トウテン」や「テン」という音声に置き換えることはできても、『、』が特定の音声を表わしているのではないということです。
つまり、『、』には、固有の〈呼び方〉はありますが、固有の〈読み上げ方〉はないのです。
日常的に使われる文字のうち、このように〈呼び方〉だけがあって〈読み上げ方〉のないものを、特に、「表記符号」と呼ぶことがあります。
句読点やカッコの類、『?
』や『!
』はすべて表記符号であるといえます。
「々」という文字も、表記符号の一種であるといえます。
これは、漢字の繰り返しを示す表記符号で、「同の字点(同《どう》ノ字点)」と呼ばれます(『くりかへし符号の使ひ方〔をどり字法〕(案)』による呼び方)。
俗には、その字形を分解して「ノマ」と呼ぶこともあります。
また、「々」「ゝ」「〃」などの同字反復を示す表記符号は、「繰り返し符号」と総称されます(「重文《じゅうもん》」「畳字《じょうじ》」「重ね字」「おどり字」ともいいます)。
「先生」と「教師」はどう使い分けるのでしょうか?
「教師」は、主に学校で職業的にものを教える人です。
「私の職業は高校の教師です。
」
一方、「先生」は、ものを教える人を一般的に指します。
「今日は、お花の先生(=茶道を教える人)に会いに行きます。
また、弁護士?
政治家や医師などは「先生」ですが「教師」ではありません。
「弁護士の先生/*教師に相談する。
」、「衆議院議員の○○先生/*教師」、「内科の先生/*教師」
また、「先生」と「教師」の違いに、呼びかけができるかどうかということがあります。
「先生」は呼びかけに使えますが、「教師」はダメです。
「先生/*教師、さようなら。
「十分」は、「じっぷん」ですか?
「じゅっぷん」ですか?
これは「十分」という漢字(熟語)の〈読み〉の問題です。
現在、「10分」は[ジュップン]と発音されるのが普通です。
話しことばは、書きことばのように正式のものではありませんから、単に「10分」という意味を表わす場合には、[ジュップン]でも[ジップン]でも、好きなように発音して構わないといえるでしょう。
また、話しことばで[ジュップン]という発音が一般的である以上、「10分」を「じゅっぷん」と読んだり、平仮名で「じゅっぷん」と書くのも間違いとはいえません(現在の仮名遣いの規範では、発音通りに書くのが基本です)。
「十分」という漢字の読みを「じゅっぷん」とするのは正しいとはいえないというだけです。
まとめると次のようになります。
∙“10minutes”を表わす語:
「じゅっぷん」?
「じっぷん」(現在では「じゅっぷん」の方がふつう)
∙「10分」という語の読み方:
∙「十分」という語の読み方:
「じっぷん」
「見れる」などの「ら抜きことば」は正しい表現だと思う?
「見れる」についていえば、「見られる」が正しい言い方です。
可能動詞形にできるのは五段活用の動詞だけだと思います。
一段活用の「見る」を「見れる」としてはいけません。
記述的な見方をすれば、「見られる」と「見れる」との関係は、ことばの「ゆれ」だということになりそうです。
実際に両形が用いられ、どちらが正しいという性質の問題ではありません。
他方、規範的な見方をすれば、「見られる」のみが正しいわけで、「見られる」と「見れる」との間に「ゆれ」などはありえないのです。
もちろん、実際には「見られる」と話す人は少なくなってきており、特に若い世代ではほとんどいないでしょう。
しかし、「『見れる』が正しい」ということができるようになるためには、まだ時間が必要です。
「『見られる』が正しい!
」と考える人は、少なからず生存していますから(わたくしもその一味です)。
ことばが社会的なものであるとすると、上の世代は標準形を下の世代に伝達する文化的な責務があると考えます。
ことばの規範が変化するには、世代交代が完全になしとげられなければなりません。
もちろん、世代交代はできるだけ速やかであるほうが良いのでしょうが、実際にはそれほど簡単でもないのです。
「見られる」が正しいといっても、必ずしも「『見られる』といわなければならない」とは思いません。
いうまでもないことかもしれませんが、ことばは正しく使わなければならないという性質のものではないからです。
「文は人なり」といわれますが、すがたかたちが人と違っても構わないように、言葉づかいも人それぞれでよいものでしょう。
特に、話しことばが公式のものであることはまれですから、好きなように話せばそれで良いわけです。
しばしば、ことばは時代によって変わってゆくものだといわれます。
ただ、〈変わる〉ということと〈変わるべき〉ということとは違うでしょう。
ことばが〈変わる〉かどうかは、記述の視点をどこに置くかという問題で、ことばが〈変わるべき〉かどうかは、規範に対してどのような立場をとるのかという問題ではないでしょうか。
また、後者は、ことばを〈変えるべき〉かどうか(言語改良)という議論とも関わってくるかもしれません。
なお、わたくしはことばが〈変わるべき〉だとは思いませんが、表記や敬語の複雑さなどを〈変えるべき〉だという意見には必ずしも反対しません。
「…代」と「…料」はどう使い分けますか?
値段を表わす接尾語には「代」「料」や、「費」「賃」などがあります。
おおまかな傾向をまとめると次のようになりそうです。
ただ、これらの使い分けには、慣用によるところが大きく、明確なルールがあるとはいえないように思います。
「…代」と「…料」とを自然に使い分けるためには、それぞれの用例をよく確認しておく必要があるでしょう。
「…代《だい》」何かと交換に支払う(または、受けとる)お金を表わす。
商品(経済的に価値のあるもの)に対して支払う金額であることが多い。
電話代、バス代、ガソリン代、部屋代、電気代、ガス代、お茶代、バイト代
「…料《りょう》」何かの利益(サービスなど)を受けた(または、与えた)ことに対して支払う(または、受けとる)お金を表わす。
あらかじめ決まった一定の値段である場合が多い。
使用料、レンタル料、入場料、紹介料、授業料、送料、サービス料、延滞料
「…費《ひ》」(自分または相手が)何かをするために必要なお金を表わす。
支払わなければならない(または、用意しておかなければならない)お金という意味合いがある。
医療費、教育費、交通費、学費、会費、生活費、食費、交際費
「…賃《ちん》」労働や借りものに対して支払うお金を表わす。
家賃、電車賃、手間賃《てまちん》、運賃、船賃《ふなちん》、借賃《かりちん》
例えば、アルバイトの報酬として受けとるお金に対しては、「バイト代」と「バイト料」という言い方が一般的だと思いますが、「バイト費」や「バイト賃」といわれることもあります。
「バイト代」「バイト料」「バイト費」「バイト賃」の間に明確な意味の違いがあるようには思えませんので、これらの使い分けは、おおむね個人的なもの(人によってどの語を使うかが違う)なのではないでしょうか。
また、「バイト代」と「バイト料」とは(一般的な言い方であるため)同じ話の中で混用されることがありますが、その場合の使い分けも語感や語呂によるものだと思います。
「学生」と「生徒」はどう違いますか?
関連する語を含めて、辞書的な定義をのせると次のようになるでしょう。
「学生」
1.年齢の高い就学者
2.大学や専門(専修)学校などに在学している者
「生徒」
1.年齢の低い就学者
2.中学校?
高等学校に在学している者
3.個人教授の教え子
「児童」
1.小学校に在学している者
2.18歳未満の就学者
「学童」
1.小学校に就学している者
「学徒」
1.学生と生徒
2.学問を研究している人
一般に、「学生」は「生徒」より年長で、「生徒」は「児童」より年長です。
また、個人教授(ピアノの先生に教わる、習字の先生に教わる)の習い事については、年齢に関係なく「生徒」となります。
但、茶道や華道(生け花)などの伝統的な習い事、いわゆる「お稽古ごと」では「弟子」と呼ばれることが多くなります。
「いく」と「ゆく」の違いは何ですか?
「いく」と「ゆく」とは、上代(奈良時代)から両形が用いられてきました。
当時の用例では「ゆく」が圧倒的に多数ですが、「いく」の例もあります。
『万葉集』では「いく」の系統に、「伊可(行か)」が2例、「伊加(行か)」が3例、「伊久(行く)」、「伊気(行け)」各1例の計7例が確認されます。
古語での「いく」と「ゆく」との使い分けに関しては、「いく」を主に意志的な動作に使い、「ゆく」を主に自然な事象の推移に使うと見る考えがあります。
しかし、万葉集に「我が兄子《せこ》は玉にもがもな手に纏《ま》きて見つつ行《ゆ》かむを置きて往《い》かば惜し」(巻十七3990:
表記は『校注国歌大系』による)という例(同じ歌に両方の形があるもの)があり、確実なことはわかりません(但、東歌などに「いく」が見られることから、「ゆく」より「いく」が卑俗なイメージを持っていたのではと推測することはできます)。
また、「いく」の方が歴史的に新しい形だという説があるものの、逆に「いく」を古形とする解釈もあり、歴史的な発生の先後関係についても確実なことはわかりません。
「いく」と「ゆく」との違いは、意味や発生においては明確にできませんが、「ゆく」に促音便の「ゆって」という形がない(但、訓点資料ではイ音便の「ゆいて」の例があります)という点では明らかです。
「いく」に促音便の「いって」があり、「ゆく」にないということは、両者が異なる環境(ジャンルやスタイル)で用いられる傾向があったことを示しています。
音便に関しては、和歌で他の文章より例が少なく、訓点資料(漢文)で特殊な形(特殊な音便形)が使用されるなど、ジャンルによって現われ方に違いのあることが知られています。
また、文章語と口頭語とのスタイルの違いによっても音便形の出現に違いがあると考えるのが自然です。
音便は、より発音しやすい形へと語形が変化する現象と見なしうるものですから、音便形の有無は口頭語での使用頻度を反映するものと推測することができるのです。
実際に、「いく」と「ゆく」との用例を見ると、室町時代を過ぎるまでは「ゆく」が一般的で、特に和歌や訓点資料(いわゆる漢文体の書き言葉)では「ゆく」が圧倒的に多くなっています。
逆に、中古の和文系の資料(源氏物語など)では「いく」の例もかなり見られます(ただ、全体的には「ゆく」が優勢です)。
その後、近世になると、「いく」は口頭語を中心に用いられるようになり、次第に「ゆく」を凌駕してゆきます。
現代語でも「いく」がより口頭語的だという語感があると思われます。
そのため、現代語でも「去りゆく(季節)」「散りゆく(桜)」など文章語的な色彩の濃い表現では「ゆく」が使われ「いく」とはいえません。
「知ってる」と「分かってる」の違いは何ですか?
「知る」と「わかる」の基本的な意味から考えてみましょう。
辞書的に記述すると次のようになります(参考文献:
『基礎日本語』など)。
「しる」
1.知識?
情報?
経験の獲得
2.理解する
3.(…テイルの形で)知識?
経験の所有
4.(…テイルの形で)記憶する
「わかる」
1.事柄の実態を理解する
2.実態を解明する
3.判明する
4.判断する
5.識別する
「知る」の例文
∙その時に、ことばの意味を/彼のことを/酒の味を知った。
(知識/情報/経験の獲得)
∙一を聞いて十を知る。
(理解する)
∙方程式のときかたを/試合の勝敗を/人生の悲惨さを知っている。
(知識/情報/経験の所有)
∙君の名前を(彼の電話番号を)知っている。
(記憶として保持)
「わかる」の例文
∙違いが/日本語が/人の心のわかる男だ。
話せばわかる。
(事柄の実態の理解)
∙辞書を引けばわかる。
癌発生のメカニズムがわかる。
(実態の解明)
∙事故の原因が/彼におこられた理由がわかった。
(判明)
∙行くかどうかわからない。
(判断)
∙暗くてどこに何があるかわからない。
あの人なら本物か偽物かわかるはずだ。
(識別)
ここで、「知る」と「わかる」の違いは、次のように考えられます。
例えば、「よく知らない人」とは、〈面識のない人?
どこの誰か不明な人物〉という意味ですが、「よくわからない人」というと〈面識はあるが不思議な人/変わった人〉ということになります。
つまり、〈未知の事実が既知になる〉のが「知る」で、〈既知の事実の本質に達する〉のが「わかる」です。
そのため、「考えればわかります。
」とはいえても「*考えれば知ります。
」とはいえません。
また、「これからどうなるかはいずれわかりますよ。
」とはいえますが、「?
?
これからどうなるかはいずれ知りますよ。
」はおかしな表現です。
「わかる」には、無意志的な作用という意味合いが含まれるからです。
「これからどうなるかはいずれわかりますよ。
」という文は、〈意志的に理解しようとしなくても自然に理解可能になる〉という意味です。
一方、「知る」には、意志的な動作という意味合いがあるものと考えられます。
また、「知る」と「わかる」には文法(語法)上の違いも見られます。
「わかる」は、自動詞の状態動詞であり、「が」格をとります(例:
「答えがわかる。
」)。
規範的には、「わかりたい」「わかられる」「わかりうる」とはできません(ただし、実際には、「知りたい」を強調した表現として「わかりたい」が使われることがあります。
例「わかりたいなら、この本を買って勉強しなさい。
一方、「知る」は、他動詞の動作動詞であり、「を」格をとります(例:
「答えを知る。
また、希望(「知りたい」)?
受身(「知られる」)?
可能(「知りうる」)の形にできます。
「知る」を動作動詞であるといいましたが、「知る」は瞬間的な動作をあらわす語です。
そのため、相手の知識や記憶を問うときに「*~を知りますか?
」ということはできません。
「知っていますか?
」とテイル形にする必要があります。
「知る」は、テイル形で使われたときに〈知識?
経験を持っていること〉を表わすのです。
例えば、「夏目漱石を知っていますか?
」という文は、夏目漱石に関する知識を持っているかどうか質問しています。
この場合の「…テイル」は、結果の状態の存続を示しているものと考えられます。
注意しなければならないのは、「知る」は、テイル形の否定ができないということです。
「*知っていない」とはいえません。
そのため、「知っていますか?
」という質問に否定で答える場合は、「いいえ、知りません/*知っていません。
」ということになります。
一方、「わかる」は「わかりますか?
」とも「わかっていますか?
」ともいうことができます。
に対しては、「わかりますか?
」には「わかる/わからない」、「わかっていますか?
」には「わかっている/わかっていない」と答えることになります。
「知る」「わかる」
質問答え質問答え
×
「わかりますか?
「はい。
わかります。
「いいえ。
わかりません。
「知っていますか?
知っています。
知りません。
「わかっていますか?
わかっています。
わかっていません。
また、「知っている」は、〈知識を持っている=記憶している〉ことをあらわすだけではありません。
〈情報を持っている〉場合にも、「知っている」ということができます。
ですから、「光一君の電話番号を知っていますか?
」という質問に、「はい。
知っていますが、今はちょっとわかりません。
」のように答えることができます。
これは、例えば、電話番号を書いた紙を持っているけれども記憶(暗記)はしていない(今は、電話番号を書いた紙が手もとにないので教えることができない)ということを言っています。
「知って(い)る」けれども「わからない」ことがあるのです。
一般に、知識は「知る」ことから「わかる」ことへと深まってゆきます。
そのため、「知っている」は、既知であることを示しますが、「わかっている」は既知の事実の本質を掴んでいる(深く理解している)ことを示します。
例えば、「知っているつもり」は、十分な量の知識があると思っている状態を指し、「わかっているつもり」は、知識の内容を十分に理解していると思っている状態を指します。
まとめていうと、
∙「知って(い)る」=あることがらを知識として保持した状態にある
∙「わかって(い)る」=あることがらの本質を理解した状態にある
ということになるでしょうか。
「言う/話す/しゃべる」の違いは何ですか?
一般的な意味を辞書的に記述すると次のようになります(参考:
『基礎日本語』など。
なお、質問の語以外に関連する語も含めました)。
「いう」
1.口頭で表現する
2.(手段を問わず)表現する
3.音がする
4.名付ける
「はなす」
1.(まとまった内容を)口頭で表現する
2.会話する
「しゃべる」
2.(望ましくない状況で/事柄を)口頭で表現する
「かたる」
1.(まとまった内容や感情を)言語的に表現する
2.物語る(伝える?
示す)
「のべる」
1.(思考の内容を)言語的に表現し展開する
2.陳述する
次に、具体例を見ていきます。
∙「おはようという/*はなす/*しゃべる」
→「いう」は、短い単位にも使えるが、「はなす」「しゃべる」はある程度まとまった長さがないと使えない
∙「寝言を(文句を/独言を/言い訳を)いう/*話す/?
しゃべる」
→「はなす」「しゃべる」は、一方的な伝達には使いにくい
→「はなす」は協調的な行為で、「いう」は一方的な行為になる
1.そのため、「二人で話す」と「二人でしゃべる」とは〈二人で互いに話をする〉という意味になり、「二人で言う」は〈二人が同時にあるいは協力してそれ以外の人にものを伝える〉という意味になる
2.また、「二人で話しあう」は〈相談する?
議論する〉意味になり、「二人で言いあう」は〈口論する?
けんかする〉意味になる。
「しゃべる」にはもともと〈雑談をする〉という意味合いがあるので、「*二人でしゃべりあう」とはいえない
∙「今日あったことを全部いいなさい/はなしなさい/しゃべりなさい」「事情をくわしく話しなさい/?
言いなさい/しゃべりなさい)」
→「いう」よりも「はなす」の方が説明的な意味合いになる。
これは、「はなす」が短い単位には使えないためと思われる
→「しゃべる」を使うと俗な感じになる(スタイルが低い)。
例えば「秘密をぺらぺらとしゃべるな!
」「よくしゃべる男だ。
」「しゃべってばかりいないで仕事をしなさい。
」のように、「しゃべる」には、マイナス評価が含意されることが多い
∙「この文章の筆者がいう/*はなす/*しゃべるところでは~。
→「はなす」「しゃべる」は書きことばには使えない(口頭での表現に限られる)が、「いう」は書き言葉の客観的な表現についても使える
∙「おなかがグーグーいっている/*はなしている/*しゃべっている。
→「いう」には、〈音がする〉という意味もある
∙「資格がものをいう/*は