全国研究生统一考试日语203真题.docx
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全国研究生统一考试日语203真题
Ⅰ.きそちしき基礎知識(20てん点)
つぎ次のぶんしょう文章をよ読んで、1~20の問いにこた答えなさい。
こた答えはせんたくし選択肢[[A][][B][][C][D]からもっともてきとう適当なものをひとつ1つえら選びなさい。
ここすうねん数年、ひとりぐ一人暮らしのひと人たちがふ増えている。
がくせい学生、けっこん結婚できない30だい代のおとこ男たち、シングルキャリアウーマン、(1)しょうしんしょうめい正真正銘のどくしんしゃ独身者から、りこん離婚やはいぐうしゃ配偶者にさき先にし死なれたたんしんしゃ単身者にいた至るまで、ひとりぐ一人暮らしのなかみ中味(2)いろいろである。
たんしんしゃ単身者のわりあい割合は、ぜんこく全国では20%ということになる。
このすうじ数字はねんねん年々の伸びていくようなき気がする。
なぜなら、じょせい女性のしゃかいしんしゅつ社会進出にともな伴い、けっこん結婚しないじょせい女性がきゅうぞう急増するだろう(3)、そのえいきょう影響をう受け、けっこん結婚してもらえないだんせい男性もふ増えるとおも思われるからである。
また、めでたくけっこん結婚した(4)、ともかせ共稼ぎなどのじかんてき時間的、けいざいてきじじょう経済的事情により、こども子供をつく作らないふうふ夫婦もふ増えており、しゅっせいりつ出生率はげんしょう減少のいっと一途をたどり、かぞく家族のたんい単位はすく少なくなるばかり。
そこにきて、いま今のわか若いひと人たちは、おや親とどうきょ同居することをこの好まないので、ひとりぐ一人暮らしをよぎ余儀なくされるこうれいしゃ高齢者のかず数もふ増えてくるというわけである。
(5)、そんなしゃかい社会のへんか変化にもかかわらず、いま今のにほんしゃかい日本社会はひとり一人にとって、とてもす住みにくいしゃかいこうぞう社会構造になっている。
つまり、しゃかい社会のしく仕組みがすべてかぞく家族をぜんてい前提としてなされているのである。
たと例えば、いえ家をか借りるばあい場合、たんしんしゃ単身者はたいへんくろう大変苦労する。
せんじつ先日、わたし私はこのもんだい問題にみずか自らちょくめん直面し、ひどくおどろ驚いた。
じぶん自分でいうのもへん変だが、わたし私はいん引っこ越しま魔で、20代、30代はアパート、マンションをてんてん転々としていた。
そのとき時はべつ別にふじゆう不自由なおも思いをしたことがなく、いっしょう一生、ちんたいせいかつ賃貸生活(6)いいとおも思っていた。
いま今にしておも思えば、これはわたし私がわか若かったからふつごう不都合をかん感じなかった(7)のことだったのである。
おな同じたんしんしゃ単身者でも、とし年とともにしゃかい社会のう受けい入れじょうたい状態はわる悪くなる。
わか若さゆえ、(8)にわたし私はき気がつかなかったのである。
(9)、いま今、わたし私は40だい代なかばである。
ついすうじつまえ数日前、じたく自宅がせま狭くなったので、あぱアパーとトをか借りようとおも思いた立ち、ふどうさんや不動産屋にい行った。
4じょうはん畳半1かん間だが、3まんえん万円とやす安いのでか借りることにき決めると、おどろ驚いたことに、れんたいほしょうにん連帯保証人をもと求められたのである。
それもおや親かきょうだい兄弟、つまりけつえん血縁ということだ。
わたし私はしゃかいじん社会人としてひとな人並みにせいかつ生活しているつもりだった。
それなのに、じぶん自分のちから力だけではへやひと部屋一つか借りられないのである。
わたし私のばあい場合、おや親がまだい生きているからいい。
(10)、おや親のいないひと人はどうしたらいいのか。
ふどうさんや不動産屋がい言う(11)、けつえん血縁のいないばあい場合は、ともだち友達でもいいが、みもと身元とけいざいてき経済的にしっかりしたほう方ということである。
つまり、ねんしゅう年収がすく少なくても、ぎゃんぶるギャンブルであ明けく暮れているひと人でも、かぞく家族のあるサラリーマンはしんよう信用するが、じゆうぎょう自由業のたんしんしゃ単身者はしんよう信用できないということになる。
あんしん安心できるひと人にか貸したい。
おおや大家さんのきも気持ちもわからないではないが、いくらおや親やきょうだい兄弟(12)、れんたいほしょうにん連帯保証人にされるのはめいわく迷惑なはなし話である。
かぞく家族だからほしょうにん保証人になるのはあ当たりまえ前というかんが考えかたじたい方自体、まちが間違っている。
ふどうさんや不動産屋とけんかケンカしているわけにはいかないので、おや親にしょるい書類をおく送ったが、おたが互いにき気まずいおも思いをした。
たんしんしゃ単身者の(13)は、へや部屋をか借りるとき時ばかりではない。
びょうき病気でにゅういん入院するとき時もどうよう同様である。
(1)~(12)にい入れるのにもっともてきせつ適切なものはどれか。
1.[A]いわゆる[B]たんなる[C]あるゆる[D]いかなる
2.[A]を[B]が[C]も[D]で
3.[A]と[B]が[C]に[D]し
4.[A]だけで[B]につけ[C]にせよ[D]ばかりに
5.[A]もしくは[B]ところが[C]それとも[D]すなわち
6.[A]を[B]に[C]は[D]で
7.[A]など[B]もの[C]まま[D]まで
8.[A]そのこと[B]そのまま[C]そのもの[D]そのたび
9.[A]また[B]さて[C]では[D]かつ
10.[A]しかし[B]だから[C]それで[D]さらに
11.[A]とは[B]では[C]には[D]ので
12.[A]とみても[B]だからといって[C]だからこそ[D]といえば
13.[A]不注意(ふちゅうい)[B]不都合(ふつごう)[C]不合理(ふごうり)[D]不作法(ふさほう)
14.ぶんちゅう文中の「し死なれた」の「(ら)れる」とおな同じづか使いかた方のものはどれか。
[A]きょう今日は、いそが忙しいときに、きゃく客にこ来られて何もできなかった。
[B]あした明日のかいぎ会議は、ごご午後3じ時にひら開かれることになっています。
[C]あさ朝5じしゅっぱつ時出発するなんて、そんなにはや早くはお起きられないよ。
[D]こんかい今回のろんぶんはっぴょう論文発表のけん件について、せんせい先生はどうおも思われますか。
15.ぶんちゅう文中の「すべてかぞく家族をぜんてい前提として」の「として」とおな同じづか使いかた方のものはどれか。
[A]そふ祖父はさんぽ散歩をにっか日課としてまいあさ毎朝6じ時にはいえ家をで出て、こうえん公園へむ向かう。
[B]きのう昨日からのおおゆき大雪は、いちやあ一夜明けたいま今もいぜん依然としてふ降りつづ続いている。
[C]こうきゅうひん高級品ばかりで、ひと一つとしてわたし私がか買えそうなしなもの品物はみあ見当たらない。
[D]こんかい今回のじこ事故については、かいしゃがわ会社側としてできるだけのほしょう補償をします。
16.ぶんちゅう文中の「ひとな人並みにせいかつ生活しているつもり」の「つもり」とおな同じづか使いかた方のものはどれか。
[A]ことし今年のボーナスはりょこう旅行したつもりでちょきん貯金することにしました。
[B]わたし私もさんか参加するつもりだったのだが、つごう都合でい行けなくなりました。
[C]よくしら調べてか書いたつもりだが、まだまちが間違いがあるかもしれない。
[D]わたし私はことしけっこん今年結婚するつもりでいたが、つごう都合でらいねん来年のはる春にえんき延期した。
17.ぶんちゅう文中の「しっかりしたほう方」の「しっかり」とおな同じいみ意味のものはどれか。
[A]もう少ししっかりべんきょう勉強しないと、らくだい落第するよ。
[B]授ぎょうちゅう業中は、せんせい先生のはなし話をしっかりき聞きなさい。
[C]いちろう一郎さんはまだわか若いけど、しっかりしている。
[D]ほこり埃がおお多いので、まど窓はしっかりし閉めてください。
18.ぶんちゅう文中の「けんかケンカしているわけにはいかない」のかいしゃく解釈として、もっと最もてきせつ適切なものはどれか。
[A]ケンカするはずがない。
[B]ケンカするつもりがない。
[C]ケンカすることができない。
[D]ケンカしないではいられない。
19.ぶんちゅう文中「好まない」の「よしみ好」のよ読みかた方はどれか。
[A]こ[B]す[C]すき[D]この
20.ぶんちゅう文中「みもと身元」のよ読みかた方はどれか。
[A]しんげん[B]しんもと[C]みもと[D]みげん
3
読解
[一]
せかいてき世界的にみ見れば、たいしてひろ広くないこくど国土に、にほん日本ほどたよう多様なたいぷタイプのもり森がそんざい存在するところはすく少ないといわれている。
しんりん森林がたよう多様であるということは、じゅもく樹木のしゅるい種類のおお多さのしょうめい証明である。
ゆた豊かなしんりん森林とは、そうしたたしゅるい多種類のきぎ木々によってつくられるさまざま様々なめぐ恵みをも持っている。
そしてそれは、そのめぐ恵みによって、とり鳥やけもの獣やしょうどうぶつ小動物、こんちゅう昆虫、きんるい菌類、さらにおお多くのしょくぶつ植物たちがい生きてゆくことのできるきょだい巨大なせいめいたい生命体といっていいだろう。
にんげん人間は、そのしぜん自然のおんけい恩恵をう受けてきたのである。
なんぜんねん何千年、なんまんねん何万年というさいげつ歳月の、もり森とひと人とのかか関わりが、いま今のにんげん人間のぶんめい文明やぶんか文化のきそ基礎となったのはいうまでもないが、ここにしんりん森林のたようせい多様性がなかったならば、いま今のく暮らしにあるふくざつ複雑でたよう多様なぶんか文化はできなかったにちが違いない。
だが、じっさい実際ににほん日本のもり森をたび旅してみて、そのしぜん自然のないよう内容のとぼ乏しさにらくたん落胆せざるをえ得なかった。
せんご戦後、とく特にこうどけいざいせいちょうじだい高度経済成長時代の、すうじじょう数字上のせいさんせい生産性をじゅうし重視するせいさく政策によって、いま今、にほん日本のほんらい本来のもり森はけ消しさ去られようとしている。
しんりんめんせき森林面積はたし確かにひろ広い。
だが、そのしんりん森林のないよう内容はすぎ杉、ひのき桧、からまつ落葉松のみとい言えるほど、たんちょう単調なじんこうりん人工林のつら連なりである。
あまりにあんい安易なじんこうりん人工林がおお多い。
い生きもの物のく暮らすことのできない、けんちくざい建築材をえ得るためのかたよ偏ったせいさん生産のば場となってしまっている。
もちろんじんこう人工のもり森はひつよう必要である。
ひと人のて手によるげいじゅつ芸術にちか近いしんりん森林にであ出会えることもある。
ヨーロッパのしぜん自然をみ見ると、それがさらにせんめい鮮明である。
もしよヨーろっぱロッパのしぜん自然がゆた豊かだとかん感じるならば、それはのうち農地がつく作りあ上げたでんとうてき伝統的なび美である。
み見るべきほんらい本来のしぜん自然はこくりつこうえん国立公園のいちぶ一部にしかのこ残っていない。
だがいま今のにほん日本では、こくりつこうえん国立公園ですらしんりん森林のばっさい伐採がつづ続き、ひ日ごとにしぜん自然はうしな失われている。
たし確かに、いまとかい都会でせいかつ生活するひと人にとって、しんりん森林はい生きるためのせつじつ切実なしぜん自然とはかん感じられないのではないだろうか。
はちう鉢植えのみどり緑、こうえん公園のきぎ木々、ほどう歩道のかだん花壇といったみ身のまわ回りのじんこうてき人工的なしぜん自然にな慣れため目には、みどり緑とはひと人がめんどう面倒をみ見なければだめ駄目になってしまうのだ、というかんかく感覚がしはい支配している。
これではしぜん自然とにんげん人間のかんけい関係が、かん完全にぎゃくてん逆転したはっそう発想がう生まれてしまう。
いま、ふたた再びもり森へで出かけ、もり森とひと人のみらい未来をみ見つめてみたいものである。
21.ぶんちゅう文中の「それ」とはなに何をさ指すか。
「A」たよう多様なしょくぶつ植物「B」たよう多様などうぶつ動物「C」たよう多様なしんりん森林「D」たよう多様なおんけい恩恵
22.ぶんちゅう文中の「しぜん自然のおんけい恩恵」とはなに何をさ指すか。
「A」しょくぶつ植物たちからのおんけい恩恵「B」どうぶつ動物たちからのおんけい恩恵
「C」ほんらい本来のもり森からのおんけい恩恵「D」きょだい巨大なせいめいたい生命体からのおんけい恩恵
23、ぶんちゅう文中の「ほんらい本来のもり森はけ消しさ去られようとしている」とあるが、それはなぜか。
「A」こうどけいざいせいちょうじだい高度経済成長時代、しんりんばっさい森林伐採のすうじじょう数字上のせいさんせい生産性だけをじゅうし重視するせいさく政策をとり、もり森がきゅうそく急速にげんしょう減少したから
「B」けんちくざいりょう建築材料をえ得るために、たんちょう単調なじんこうりん人工林はもちろん、げいじゅつ芸術にちか近いしんりん森林などをつら連なるようにおお多くつく造りすぎているから
「C」にほん日本では、こくりつこうえんない国立公園内もほんらい本来のしんりん森林とおな同じようにばっさい伐採がつづ続き、ひ日ごとにしぜん自然はうしな失われつつあるから
「D」もり森はけんちくざい建築材をえ得るためのかたよ偏ったせいさん生産のば場となってしまい、い生きもの物がしょう生きにくくなってしまっているから
24、だいごだんらく第五段落のヨーロッパのしぜん自然をと取りあ上げたいと意図はなに何か。
「A」にほん日本のしんりん森林がげんしょう減少しているだけでなく、こくりつこうえんない国立公園内でのじんこうりん人工林がおお多くなりつつあるということをなげ嘆いている。
「B」ヨーロッパのしぜん自然とにほん日本のしぜん自然は、あまりにもせんめい鮮明であるということをひとびと人々に教え、にほん日本にものうち農地のび美をつく造ろうとよ呼びかけている。
「C」ヨーロッパでは、にほん日本のようにほんらい本来のしんりん森林が、こくりつこうえん国立公園のいちぶ一部にしかのこ残っていないということをきょうちょう強調するところにある。
「D」いま今のにほん日本では、い生きもの物がく暮らすことのできるしんりん森林が、よヨーろっぱロッパいじょうきゅうそく以上急速にうしな失われているということをきょうちょう強調するところにある。
25、ぶんちゅう文中の「いま、ふたた再びもり森へで出かけ、・・・・・・、……ものである」とあるが、それはなぜか。
「A」とかいせいかつ都会生活をつづ続けていると、じんこうてき人工的なしぜん自然をみ見るのがす好きになってしまうから
「B」とかいせいかつ都会生活をつづ続けていると、はちう鉢植えもしぜん自然そのものであるとおも思ってしまうから
「C」とかいせいかつ都会生活をつづ続けていると、しぜん自然とにんげん人間のかんけい関係がはんたい反対にかん感じられてしまうから
「D」とかいせいかつ都会生活をつづ続けていると、しぜん自然にせっ接するたの楽しさをわす忘れがちになってしまうから
[二]
じんせい人生のみち道でわたしどもがであ出会うわかれみち道は、たくさんある。
そして、おお多くはそれとも(あア)、みぎ右へひだり左へむいしき無意識にそれをえら選んですす進んでいる。
そして、ときどき時々、何かふつごう不都合なことやしっぱい失敗がお起こったときに、じぶん自分のあゆ歩んできたみち道をぎゃく逆にたどってみると、みぎ右へい行くべきところをひだり左へおこな行っていたり、きゅう急ぐべきところでぐずぐずしていたりしたといった、ふつごう不都合やしっぱい失敗のげんいん原因がおも思いあ当たるものである。
すべてのしっぱい失敗のげんいん原因が、それにき気づかなかったじぶん自分のないぶ内部にのみあるとだんてい断定してしまうことはない。
にんげん人間としてよち予知できないことがげんいん原因となっていることもおお多い。
そして、そのために、かえってしあわ幸せをつかみとることもある。
(いイ)、わたしどもは、じぶん自分についても、うん運がよかったとか、うん運がわる悪かったとか、そういうことば言葉をつか使って、じぶん自分のよろこ喜びをさらにおお大きなものにしたり、あるいはじぶん自分のくる苦しみやつらさをなぐさ慰めたりする。
しかし、た食べもの物をた食べす過ぎてはら腹をこわしたとなると、それをた食べているときにわ分かれみち道があったはずである。
すこしひか控えめ目にた食べておけばよかったものを、うまいうまいと、まんぷく満腹してもなおつ詰めこ込んだのがよくなかった。
つまり、わたしどものまえ前にもうし後ろにも、わかれみち道はたくさんあるけれども、そのなか中でじぶん自分ではよち予知できないものもあるし、またき気をつけていれば、お落ちつ着いてかんが考えて、どっちのみち道をとればいいか、じぶん自分でせん選べるものもあるということである。
じぶん自分でみち道をえら選ぶちから力、これがたいせつ大切である。
いま、もう40、50になっているおとな大人のなか中には、みち道をまちが間違えたとい言ってこうかい後悔をしているひと人がおお多い、ただあきらめ、じぶん自分のえら選んだみち道はまちが間違っていたけれど、いま今さらもんく文句をい言ってもなげ嘆いてもしかたがないとかんが考えて、ふつう普通はだま黙っている。
けれども、ときどき時々そのことを思いだ出して、たにん他人をうら恨んでいる。
これはつまらないことだとおも思う。
ところで、わかれみち道のことで、もうひと一つたいせつ大切なことをつ付けくわ加えておかなければならない。
ひだり左へい行くほうがよいか、みぎ右へすす進むほうがじぶん自分にはふさわしいか、それでまよ迷ってどっちかへき決めたあと、またかんが考えがか変わって、やっぱりむかい向こうのほうがよかったのではあるまいかと、いつまでもくよくよするひと人がいる。
これはいちばんおろ愚かではないかとおも思う。
そういう人は、いつまでもわかれみち道のところ所でうろうろしていて、どっちへもすす進めないひと人である。
26、ぶんちゅう文中の(あア)にい入れるものはどれか。
「A」き気づかずに「B」気づいて
「C」気づくように「D」気づかないように
27、ぶんちゅう文中に「みち道をぎゃく逆にたどってみる」とあるが、どんなとき時にみち道をぎゃく逆にたどるか。
「A」じんせい人生のとちゅう途中で、よそう予想どおりにいかず、つまずいたりしたとき
「B」じんせい人生のわかれみち道で、じぶん自分でせんたく選択したみち道をいそ急いでいるとき
「C」じんせい人生のわかれみち道で、みぎ右へい行くかひだり左へい行くかためらっているとき
「D」じんせい人生のとちゅう途中で、わかれみち道にであ出会い、ぐずぐずしているとき
28、ぶんちゅう文中の(いイ)にい入れるものはどれか。
「A」だから「B」ただし「C」むしろ「D」または
29、ぶんちゅう文中に「ふつう普通はだま黙っている」とあるが、それはなぜか。
「A」もんく文句をい言いたくてもい言うあいて相手がみ見つからず、どうしようもないから
「B」すでにけっか結果がで出てしまい、こうかい後悔してもどうすることもできないから
「C」ふつう普通、じぶん自分ではげんいん原因がわ分からず、うら恨みたくてもうら恨むたいしょう対象がないから
「D」さいしょ最初からじぶん自分がえら選んだみち道であり、いま今もそれがいいとおも思っているから
30、ひっしゃ筆者がこのぶんしょう文章でもっともい言いたいことはなに何か。
「A」しんちょう慎重にかんが考えるのはいいが、うろうろしないことがもっともだいじ大事である。
「B」みち道をき決めたあと後は、む向こうがよかったのだとこうかい後悔しないことがだいじ大事である。
「C」わか分れみち道のところでた立ちどめ止まってしまわないことがもっともだいじ大事である。
「D」すす進むべきほうこう方向をせんたく選択できるのうりょく能力をみ身につけることがもっともだいじ大事である。
[三]
わたしがAこく国からきこく帰国してまもなくみ見たしんぶん新聞に、「もうな泣きねい寝入り(にんいきどんこえ忍气吞声)すまい」というとうしょ投書がの載っていた。
こうつうじこ交通事故で、じぶん自分がわる悪くないのにあやま謝ったりしてはおおぞん大損(きつだい亏吃大亏)だというたいけんだん体験談である。
Aこく国のひと人があれをよ読んだら、そのあまりにもにほんてき日本的なげんしょう現象におどろ驚きあきれるだろう。
みんぞく民族がちが違うと、もののかんが考えかた方もこのようにちが違う。
それはにほん日本とAこく国と「とちらがよ良い(あるいはわる悪い)」ということではなく、「ちが違う」というじじつ事実がじゅうよう重要なのである。
ふつう普通わたしたちはじぶん自分のことを「にほんじん日本人」ときてい規定している。
しかしにほんじん日本人としてのわたしたちとは、ぐたいてき具体的にはどういうみんぞく民族なのだろうか。
どこのくに国にかぎ限らず、じぶん自分たちのみんぞくてきせいかく民族的性格やとくちょう特徴はあんがいし案外知らないものだ。
なに何かをし知るということは、その「なに何か」を「ほか他」からしきべつ識別し、と取りだ出すことでもある。
まず「ほか他」をし知らなければ「なに何か」をしきべつ識別することはできない。
わたし私たちじしん自身をし知るためにはたみんぞく他民族をし知ることがそのだいいちほ第一歩なのだ。
ちきゅうじょう地球上のさまざまなみんぞく民族とせっ接してみると、わたしたちがあたりまえとおも思っていることがたみんぞく他民族にはまった全くつうよう通用しないれい例がよくある。
そうしたじじつ事実をし知ってはじ初めて、わたし私たちはみずか自らをきゃくかんか客観化し、し知ることができるようになる。
かんたん簡単なれい例をあ挙げよう。
わたしたちがこめコメとい言うとき、それはに煮るまえ前のコメツブのことであって、た食べるときのメシ(ゴハン)のことではない。
しかしえいご英語ではとちらもrice(ライス)である。
もう少しふくざつ複雑なれい例をあ挙げよう。
さかな魚のぶりブリは、にほんご日本語だとそのせいちょうだんかい成長段階におう応じてシオワカナ、ツバス、ワカナ、ハマチ、モンダイ、ブリ(あかしちほう明石地方のばあい場合)とよびわ分ける。
しかしえいご英語ではすべてyellowtail(イエローティル)だ。
もっとふくざつ複雑なれい例として、ベドウィン(さばく砂漠をゆうぼく遊牧しているアラブじん人をさ指す)によるラクダのよび方がる。
にほんご日本語では「ラクダ」のいちご一語だが、アラビアご語ではそのかくせいちょうだんかい各成長段階はもちろん、「じょうよう乗用」や「にはこ荷運び」のようなようとべつ用途別、さらに「にんしん妊娠したラクダ」「くさ草をく食っているラクダ」など、じつ実に200とおり近くものたんご単語にさいぶん細分されている。
えすきもエスキモー(爱しもとまじん爱斯基摩人)のばあい場合はゆき雪がそれにあ当たるだろう。
「はげ激しくふ吹きつ付けるゆき雪」「ふ吹きだまりのゆき雪」「じめん地面をひろ広くおお覆うゆき雪」「いんりょうすいよう飲料水用にと溶かすためのゆ