Lueapu日语综合教程五六册部分课文中日对照.docx
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Lueapu日语综合教程五六册部分课文中日对照
生命中,不断地有人离开或进入。
于是,看见的,看不见的;记住的,遗忘了。
生命中,不断地有得到和失落。
于是,看不见的,看见了;遗忘的,记住了。
然而,看不见的,是不是就等于不存在?
记住的,是不是永远不会消失?
日语综合教程第五册第一课
海の中に母がいる
山好きの血が父方から流れているとすると、海好きは間違いなく母から伝わっている。
終戦間もなく、不忍池のほとりを通りかかると、池端に、ははがしゃがみこんで池の面をじっと見ている。
声をかけると、母は照れたような顔で立ち上げり「ちょっと海がみたくなって」と言って笑った。
当時、東大のそばに住んでいたので、買い物のついでに不忍池で休んでいたのだろうが、その時の母の言葉が妙に忘れられない。
小学六年の夏、母の故郷の鹿児島の辺鄙な漁村で一月暮らしたことがある。
母の父は背の高い、強い人で、そこでずっと医者をしていた。
家から五十メートルほどで海に出る。
桜島や開聞岳の見える美しい浜辺だった。
母が海を見たいと言ったのは、その故郷の浜辺のことを考えていたのかもしれない。
今なら二時間もかからない鹿児島は、その頃は夜行や連絡船で二日かかる遠い国だった。
望郷の思いに駆けられても当然だったような気がする。
海好きといっても、心ゆくまで海と親しんだのはその夏だけで、あとは学校から海水浴にゆく程度だった。
おそらく海と切り離された状態がかえって海への憧れを掻き立てたのだろう。
大学を出る年、なんとしても海に関係する職業につきたいと重い、日本郵船に入社できないか聞きに行った。
対応に出た人事課長は「うちも、ほかの会社と同じですよ。
文学出身では、どうもね」と気の毒がってくれた。
船会社だから、全員が船にのれるものと勘違いしていたわけだ。
それでも、船に乗って、海を思いのたけ味わいたいと言う気持ちは、いっこうに衰えなかった。
幸いフランスに行くことになり、留学生は船に乗るように、という指示があった。
マルセイユまで三十三日の船旅――考えただけでも嬉しさで気が遠くなりそうだった。
しかし仲間の留学生たちは、なんでそんな無駄なたびをさせるのか、と不満だった。
私は一人海の喜びを満喫するため、四等船室を選んだ。
ここは季節労働者用の船室で、留学生が近寄らないばかりでなく、船底なので、海に近く、丸窓をふさぎにくる。
ベッドは鉄パイプの二段棚にカンバスを張っただ。
飾りなど何もなく、牢獄さながらだ。
しかし文明の居心地よさはつねに、大自然との直接の接触を遮断する。
例えば灼熱の紅海では、船底は四十度を越え、甲板でも燃える暑さだ。
勿論一、二等船室は優雅に冷房されているが、それでは、コンラッドの描くこの熱帯脳見という荒々しい野獣のようなものの実体にふれることはできない。
限りなく強烈な、素肌ならすぐに火傷を起こす太陽の下でしか、紅海の目くるめく壮大さは味わえないのである。
私は朝、甲板で激しい海の風に吹かれながら飲む大カップのコーヒーに満足した。
中国人、マレー人、インドネシア人、ウエトナム人たちの喧噪のなかで、甲板に寝そべってへミングウエイを読むのが、堪らなく嬉しかった。
舳先に立って風を受けていると、まるで大航海時代の冒険者になったような気がした。
東シナ海の冷酷な青い波、くらげの浮かぶボルネオ海の白緑色のねっとりした波、インド洋の壮麗な落日の下で黄金色に砕けていた波、地中海の凄みを帯びた青黒い波――いずれも刻々に私の魂を奪ってやまなかった。
朝から晩まで私は舷側からただ海の青さ、広さに見入っていた。
人間は愛する物のは、ひたすら愛する物を失ったからではないだろうか。
この大航海の間、私は自然の素晴らしさと同時に人生の過し方も学んでいたようなきがする。
あれからもう三十年。
今も海が恋しい時、懐かしい三好達治の詩を読む。
「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がいる。
そして母よ、フランス人の言葉では、あなたの中に海が在る。
」〔フランス語の母はmere、海はmer〕
(『生きて愛するために』中央公論社より)
大海中有妈妈
如果说喜欢大山是继承了父亲的血统,那么爱好大海一定是从母亲那里传承下来的。
那是战争结束后不久,恰好经过不忍池附近时,妈妈会在池塘边深深蹲下,两眼死死地盯着水面。
假如我喊她,她的脸上似乎显得很难为情,站了起来,笑着说:
“想看一会儿海呀!
”
当时,因为住在东大附近,去买东西时就顺便在不忍池休息一下,不可思议的是,我一直没有忘记那时妈妈说的话。
小学六年级的暑假,我曾去母亲的故乡,鹿儿岛上一个边远的渔村住了一个月。
外公个子高高的,非常强壮,一直在那里行医。
距家大约五十米处便是大海,从那景色秀丽的海滨,看得见樱岛和开闻火山。
母亲说想看大海,我想也许就是那故乡的海滨吧。
如是在今天,去鹿儿岛用不了两个小时,而在那时,那里是一个遥远的地方,需要坐夜间火车和联运船才能到。
在思乡之情的驱使下,似乎妈妈那种举动是理所当然的。
虽说喜欢大海,但尽情与大海亲密相处也只有在那个暑假,后来仅达到了从学校去洗海水浴的程度。
也许是因为与海隔绝的状态,反而激发起我对大海的憧憬吧。
大学毕业的那年,不知为什么,想要寻找与大海有关系的职业,便去打听能不能在日本邮船公司工作。
出来接待我的人事课长非常遗憾地说:
“本公司与其他公司一样,对文学出身的大学生,一概不受。
”我将船公司误认为全体职员都在船上工作了。
尽管如此,希望乘船,我对大海的痴情却有增无减。
幸运的是,我即将去法国,根据指示,留学生将乘船前往。
去马赛有三十三天的航程——想到这个,我高兴得几乎要晕过去,可是其他留学生们不知为什么对这样耗费时间的旅行却一脸的不高兴。
我为了一个人尽情玩味航海的喜悦,选择了四等舱的铺位,那是季节工人用的船舱,留学生从不靠近,不但如此,因为在船底,靠近大海,舷窗外蓝色的波涛近在咫尺,汹涌起伏。
海上起风浪时,船员将蒙上铁皮的舷窗关死。
所谓床位,是用铁管制成的两层架子上绑上帆布,室内什么装饰也没有,简直像牢狱一样。
但是,文明的舒适环境,常常隔断了我们与大自然的直接接触。
如果说红海是炙热的话,我们所在的船底超过了四十度,而甲板上是火一样的酷暑。
不用说,一、二等舱是优雅的,有冷气的房间。
这就是康拉德所描写的热带海洋,是像粗暴的野兽一样的不可接触的实体。
如果不是在那无比强烈的、光着膀子就马上会被烫伤的太阳底下,就无法体会到红海那令人眼昏目眩的宏伟景象。
早上,我被甲板上强烈的海风吹着,喝着大杯的咖啡,感到很满足。
在中国人,马来西亚人,印度尼西亚人,越南人的嘈杂声中,我躺在甲板上读着海明威的书,开心得不得了。
我站在船首迎着海风,觉得自己简直就像大航海时代的冒险家。
东印度支那海那冷酷无情的蓝色海浪,婆罗洲海那漂浮着水母的,淡绿色的,粘乎乎的波涛,印度洋那壮丽的落日底下荡漾着金色的碎波,还有地中海那带着可怕神情的蓝黑色的浪涛——不管我走到哪里,每时每刻都在震撼着我的灵魂,无法逃脱。
从早到晚,我都站在船舷边,一刻不定地注视着那蔚蓝,广阔的大海。
我认为,人们只要长久呆在所爱的东西旁边,只要它存在就会感到幸福。
人们感到无聊,是因为失去了一味宠爱的东西吧。
在这次航海期间,我觉得自己见识了自然的美丽,同时学到了如何度过人生的方法。
从那以后,三十年过去了。
现在,当我眷恋大海的时候,就读起令人怀念的三好达治的诗。
“大海啊,在我们使用的文字中,在您之中有妈妈。
然而妈妈啊,在法国人的语言中,在您之中有海洋。
”(法语中母亲是mere、海洋是mer)
日语综合教程第五册
(二)
庭
庭というものは住まいの外にありながら、室内の雰囲気に少ながらぬ影響を与える住まいのである。
例えば居間などに座って何気なく外に視線を投げる時、そこにあるのが明るい芝生の広がり装置であるか、こんもりとした松の茂みであるかによって住まいの気分はかなり異なるであろう。
僕は親の庭先に家を建てて住んでいるので自分の庭と言えるものを持たないのだが、それでも窓辺の食卓から父母の庭を望むことができる。
この庭は“庭園”風に整えられてはいない雑木ばかりの広がりだが、それがかえって四季折々の移り変わりを鋭敏に映しだすことになって好ましく感じられ、春先にひょろりとした梅が思いもかけぬ片隅を小さく彩ったり、枯木立が冬の入り日をチヂに裂いたりするのを眺めやることで、ささくれ立った気分が和む思いをすることが多い。
庭を眺めるという一見目立たない行為は、僕を含む日本人の日常生活の流れの中で意外に重要な一種の節目になっているらしい。
例えば山口瞳の哀切きわまりない私小説集『庭の砂場』中の同名の短編はその典型的な例の一つであろう。
この小説は次のように書き出される。
「今年の梅雨は殊更に長く感じられた。
三月にも四月にも雨が多かったせいだろう。
私は陰鬱な気分で暮らしていた。
梅雨時は必ずしも嫌いではなかった。
それは繁った樹木のせいだ。
青葉の繁った樹木に雨が降りかかるのを見るのは好い気持ちのものだった。
紫陽花は好きだし、紫式部の薄いピンクの花が咲くのもいい。
私は樹木が間近に見える居間の長椅子に坐って庭に降る雨を見ていた。
そうしていると気分が沈んでくる。
......」
作者の分身である主人公は、こうして庭を眺めているうちに最近次々と亡くなった肉親たちに思いを馳せていく。
つまり気分がますます沈みこんでいくわけで、これは先に述べた「気分が和む」のとは逆のように思えるかもしれないが、実は、普段は押し殺していた感情が庭の眺めに誘い出され、一種の放電を起こすことによって抑圧が解消されるのだから、本実的には「和む」のと同じ現像である。
そのことは、ひとしきり死者を思った後に風呂場で頭を洗っている主人公が、葬式では決して泣かなかった自分が涙を流していることに気付く、という結末によっても明らかだ。
思いに庭の大きな効用の一つは、このような治癒効果にあるのではないだろうか。
そのために最低限り必要なのは、住まいに接して、特に美しいものや素晴らしい眺めではなくとも、視線を受け止めてくれるに足る私的に囲われた自然の断片が存在することである。
それを見て心が和むのは、自然の営みというものが、いかに断片であっても、人間の日常生活の偶発的な喜怒哀楽と独立したリズムを持って動いており、僕たちはそのリズムを感じ取ることで自分の感情なにがしか相対化できるからではないか。
つまりこの場合、視線を受け止めてくるということは感情を受け止めてくるというのにぼば等しい。
勿論、こうした効用は庭の外に遠望する風景や公共緑地にもないことはない。
しかし、ここが微妙なところで、私的領域である庭とその外とではどうも効きめが違うようだ。
それは多分、感情を託す側の意識が自ずから異なるからだろう。
外の対象に投げかけることによって結果的に治癒する感情の波というものは、たいてい、取り立てて深刻なものとは限らぬにせよ、当の本人にとっては他人に知られずに秘めておきた、高度にプライベートな類のものである。
だから、そうおした感情の放電を自分に許すためには、人間は他人の干渉をあたう限り免れた、心理的に安全に保護された境地にいる内にあるほうが有利なので、自宅を眺めている状態が一番適していることになる。
不思議なもので、庭の外の草木に感情を託してもそうたやすく他人に悟られるわけはないのだが、人里離れた一軒家の周囲の大自然ならともかく、公園の緑や街路樹が相手では感情を放電するのがちょっと恥ずかしい、というのが、人間の、少しなくとも都会人の一般的心理であるたしい。
庭は雑木林風にさり気ないのがいい、と思っているせいで、僕は庭つくりを任された場合でも樹木の種類を細かく指定したりはしないのだが、そうおいう、大雑把さの中でやや強く執着するのは、室内から見渡せるほど良い位置、特に日常生活の中の中心になる居間、食堂の前に落葉樹の大木を配することである。
これは樹種は問わぬにしても、その姿には注文を付け、可能ならば実物を見て選定する。
僕の理想は太い幹が人の背丈ぐらいまでスッと伸び、そこから上に枝の広がりを持つ木である。
もっとも予算の制約でこうした思いが叶うわず、サイズが不十分な物を将来の成長に期待して植えることもある。
この一本の木への執着は、一つには季節に応じて身づくろいを変える落葉樹が、前に記したような、庭の精神てき治癒効果に不可欠な自然のリズムを最も象徴的に映し出すからだ。
落葉樹は夏に厚い茂みで涼しい木陰をつくり、冬には葉をふるい落とした陽光を透かさせる。
言うまでもなく、春の木の芽どきや、秋に色づく葉には、その時々の眺めがある。
しかしそれと並んで重要な物一つの理由は、大きな落葉樹の季節変化は当然、その樹に面する部屋の陽当りを自然の営みによって実に具合よく調整することにもなるのだ。
僕はこの落葉樹の恩恵を自分の家で年年実感しつづけている。
両親の家の庭先に南北に細長く建っているわが家は南端がほとんど敷地境界に接し、その面に庭を持たないのだが、幸い隣地は公園で、その落葉樹の木立ちが陽当り調整効果をもたらしてくれる。
夏はうっそうと茂る葉が室内を緑の反映でほの暗く満たし、冬は枯れ枝を透かしてくる低い陽射しが奥まで差し込んで、晴れた日の昼過ぎまでは暖房も要ならないほど暖かい。
ここまで記してきたように、にわに四季の反映を強く求め、それを「眺める」ことに庭の最大の意義を見出すのは、どうも日本人特有の庭園観であるようだ。
いかに私的に囲われていようと、また人の手が加えられていようと、日本人が庭に求めるのは自然のミニチュアであり、その自然志向は石を山に、砂を水に見立てた枯山水のような屈折した操作を含む庭まで一貫している。
これは結局、自然を克服すべき対象としてではまく、親和的な環境としてとらえる日本的自然観に由来するもので、むろん僕の雑木林好みもその影響下にあると言えるだろう。
(『住まい方の演出』中央公論社より。
)
庭院
所谓庭院,就是建在住宅的外面,给予室内的氛围很大影响的住宅设施。
比如说在起居室等地方坐下,无意中将视线投向外面的时候,那里有开阔明亮的草地,长着茂盛树叶的松树,这样住宅的氛围就相当不一样了吧。
我在父母的庭院前面盖了房子住着,如果说自己的庭院嘛,我还没有,不过我在窗户边的饭桌上能看到父母的庭院。
这个庭院不是按照“庭园”的样子打理的,院内只有些杂树,非常宽阔,那样反而可以将四季应时的变化敏锐地显示出来,给人以惊喜的感觉。
早春纤弱的梅花出人意料地在角落里开了一小片,放眼望去,树叶落尽的树木将冬天的夕阳撕成千万片,于是许多情况下,原来暴躁的心情变得平和了。
在庭院中瞭望,咋一看是并不引人注目的行为,似乎成了包括我在内的日本人在日常生活中格外重要的一种节目。
比如说,在山口瞳的悲哀无穷尽的小说集《庭院中的沙场》中的同名短篇小说,就是这样的一个典型例子。
该小说中有以下的描述:
“今年的梅雨感到特别长,是因为三月和四月的雨特别多吧。
我在忧郁的气氛中生活着,虽然是梅雨季节,却未必感到讨厌,这是茂密的树木的缘故吧。
在长满绿叶的树木中,看着雨降下来,保持了良好心情。
我喜欢紫阳花,紫式部那淡红色的花也开了,真好!
我在起居室的长椅子上坐了下来,那里能就近看见树木,看着庭院里下雨,这样呆着心情感到很郁闷……”
作为作者分身的主人翁,这样眺望着庭院时,神情驰骋,想起了最近死去的亲人们。
也就是说,是因为心情越来越消沉的缘故,这也许就是与前面所说的“心情平和”相反的想法吧。
实际上,平常压制下去的感情,在眺望庭院时被引诱了出来,根据一种放电现象,将压抑消解了,本质上是同“平和”相同的现象。
这件事情,在思念一会儿死者之后,到浴池去洗头的主人翁,觉察到自己在葬礼上决不流泪,而在现在却流泪不止,这样结果就清楚了。
庭院对感情的巨大作用,也许就是具有这样的治疗效果吧。
为了达到这个目的,最低限度的必要条件是与住宅相连接,如果没有特别美丽的风景与极好的瞭望条件,那么在视线被遮挡的情况下,必须存在足够将私人氛围围绕起来的自然片断。
看到这一切,心里感到平和,那都是自然的造化,无论是怎样的片断,它们与人们日常生活中偶发的喜怒哀乐保持着独立的节奏运动着,我们如果感受到了这种节奏,那么自己的感情不就可以与无论什么都相对化了吗?
也就是说在这种场合,视线受到阻挡与感情受到阻挡大致是相同的。
毋庸置疑,这样的功能在庭院外瞭望风景和公共绿地是做不到的。
但是,这里的微妙之处是,作为私人领域的庭院和这以外的场所效果是不同的。
这也许是因为我们托付感情一方的意识是各不相同的吧。
根据投向外面的对象,结果感情波涛得到治疗的案例,尽管大部分提升了的深刻的感情是无限的,但作为当事人,想要保留他人所不知道的秘密,是高度私密的一类感情。
因此,为了允许自己这样的感情放电,人们就避免了他人可能的干涉,有必要保留这样一片保护心理安全的境地。
这样,在有自己的场所,感情的托付对象也在私人领域内是有利的。
瞭望着自己住宅的庭院状态,是最合适的。
不可思议的是,对庭院以外的草木托付感情是容易的,他人却没有理由领悟,姑息不论远离村庄的一间屋子周围的大自然,即使在公园绿地和行道树中与对手进行感情放电,也觉得有点害羞,人们好像多少都有点都市人的一般心理。
对庭院的杂木林风格还是以不讲究的态度为好,之所以这样考虑,是因为在本人担任庭院修建的情况下,从不详细指定树木的种类,不过,在粗略之中也有很强的执着追求,从室内放眼望去的良好位置,特别是作为日常生活的中心的起居室,在饭厅前面配种了落叶的大树。
我不问树的种类,但树木的形态要根据预定交付,可能的话,先看了实物后再选定。
本人的想法是,粗壮的树干可以使人的背脊充分舒展,是那种上面树枝伸展很宽的树。
由于受到最高预算的制约,也用那种树叶尚未长出,尺寸不够的树木,种植这样的树是对其将来成长的期待。
对这样一棵树的执着,一是为了适应季节需要修剪的落叶树,就是前面提到的那些,作为庭院的精神治疗效果,不可缺的是自然的节奏,最具象征性地反映出来。
夏天,落叶树有厚厚的树叶,造就了遮荫纳凉的场所,冬天,枯叶抖落,让阳光能够透过。
更不用说,春天是树木的发芽季节,秋天的树叶色彩尽染,有着随着季节变化的风景。
但是与此并列的一个重要理由是,大的落叶树对室内气候有着良好的影响。
当然,落叶树根据季节的变化,面朝树木的房间,需要对向阳的自然营运作实质性的调整。
对于落叶树的恩惠,我在自己的家里年年都有持续的实感。
父母家的庭院前面,是以南北细长的格局建的,我家的南端几乎与地基的边界连接,在这一面没有庭院,幸运的相邻的地块是公园,那里立着的落叶树使我享受到了向阳的调整效果。
夏天,郁郁葱葱的茂盛树叶将绿色反映在室内,显得微微有点暗,冬天透过枯枝淡淡的阳光向屋内射进来,如是晴天,直到白天过去后,屋内连暖气也不需要,暖融融的。
正如我所记述的那样,庭院强烈要求反映四季的变化,在这里可以看出“风景”是庭院的最大意义所在,这好像是日本人特有的庭院观。
如何将私人氛围围绕起来,再加以人工,日本人对追求庭院的风格有着自然的微型模型,这种自然志向在选择以石喻山,以砂喻水的枯山水之类的包含了曲折操作的庭院中,是一贯如此的。
这样的结果,作为对象,不应该克服自然,而是要营造亲和的环境,这就是日本人的自然观的由来,当然,可以说我对杂木林的喜爱,就是受了它的影响。
作者介绍:
渡边武信,1938年生于横滨市,1962年毕业于东京大学工学部建筑学科,1969年完成同大学大学院博士课程,同年作为个人工作室开设渡边武信设计室,五年后改组成法人组织。
目前正从事以个人住宅为中心的设计活动。
山口瞳,1926至1995,小说家,东京出生,国学院大毕业。
以《コピーライター》最为著名,善于描写都市小市民,一般的日本人的感情生活。
鲜花介绍:
紫阳花,又称八仙花,绣球花,ユキノシタ科的观察落叶灌木。
初夏开球状的集散花序,只有四枚萼片,挂着许多发达的装饰花。
花色有从青到紫红七种变化。
紫式部,クマツヅラ科的落叶灌木,秋天结出球形的果实,成熟后为紫色。
据说这是从《源氏物语》的作者名字紫式部模仿而来的。
日本人的自然观:
日本人不认为自然和人类要对立起来,相反,他们将自然围起来,一边沐浴这它的恩惠,一边生活,他们认为要与自然调和、共存。
日语综合教程第六册第六课
生命
阿部昭
一.
我家眼下有三只猫咪。
近来的孩子都很现实,他们问父亲:
“养猫究竟有什么用?
”
我无言以对。
确实,这么说来,养狗可以防贼,可以将扔出去的球捡回来,多少为人干点事。
可是猫呢?
由于最近老鼠也很少出现,所以猫们吃了就睡,出去走走,饿了就回来,然后再吃了睡。
如此而已,对人什么贡献也没有。
“什么用也没有不也很好吗?
因为它们呆在这里就很有趣。
”在不得不回答时,我只能这样回答,这恐怕不是对孩子们的问题的解答吧。
总之,只要看看动物们的活动,就会使我感到快乐。
每当看到它们沿着松树或刺槐的树干,垂直地一气上窜好几米,为捕捉飞着的昆虫而高高跳在空中时,似乎只有在这时才会发出感叹:
它们的动作是多么准确,决无徒劳之举。
卑鄙如畜生,如此之类的话在人们的语言中是有的,但也不能说都是这样。
有些作为母亲的人,讨厌生儿育女,甚至有弃儿或任其死去的事情,在这样的世界上,猫眯的育儿却充满了细心的情爱和无限的耐心。
说是育儿,也不是老猫让小猫吃点心,买玩具,而只不过是将自己在草地上捕捉到的四脚蛇叼过来给小猫而已。
它们用奇妙的叫声召唤小猫,小猫来了,便将猎物“啪”地一声放了下来,然后,自己不经意地看着小猫玩耍四脚蛇。
恰如人类的母亲照看孩子时,以一种满足、放心的表情,呆呆地看着。
另外,在小猫吃着盘子里的食物时,老猫一直拉开距离等待着,等小猫吃完后,才去吃期待已久的残羹剩饭。
在规劝小猫的时候,老猫是那么温柔地咬着小猫,用缩进脚趾的前爪那么有分寸地敲打着小猫,而决不会对小猫体罚什么的。
“连周围不会说话的兽类对子女也如此怜爱,何况人乎?
”歌人源实朝的这句诗,说得真是千真万确。
不仅如此,可怜的是它们还要日夜受到人类文明的惊吓。
听到吸尘器的声音就会吓得浑身发抖,遇到喷气机在头上低空飞过,便慌忙躲到隐蔽处,那副低眉俯首,无地自容的样子,使它们显得更加矮小。
如果说人类的生存不易,那么它们的生存就更加不易了。
二.
自从猫咪增加了,家里到处可见散落的小动物的尸骨,从四脚蛇开始,什么蜉蝣,蝗虫,螳螂,蜂子,金龟子,蝴蝶,蛾子,蟋蟀,有时甚至还有蝼蛄之类。
在外面玩玩就行了吧,可是猫咪一有机会就会将它们带到屋里来做世界。
在海边暖洋洋的草地上,好像有许多四脚蛇。
而落到猫咪爪子中的四脚蛇大多被咬断了尾巴。
这并不是猫咪要吃它们,而是长时间将它们作为玩具来玩的缘故。
它们在猫的爪子里受伤,变弱,直到最后死去,猫咪将它们忽而叼起,忽而用前爪去抓,如逃跑的话再追上前抓住,或是用两只爪子夹起来抛向空中。
玩腻了,就将它们弃之不顾,再也不去管它们了。
有运气好的捡了一条命,好不容易才爬了出去,但更多的是想逃也逃不了,留在家具后面,坐垫底下,变得像干鱼似的,干巴巴的样子。
我感觉到,也许在那以后,也有在家里哪个地方生存下来的。
某日某时,一条四脚蛇突然从隐蔽处窜出,使我吓了一跳。
多亏这件事,我才与四脚蛇变得十分亲密起来。
本来一看见爬虫类就会感到心情不快,要用棍子之类来将它处理掉才算完事。
可是最近,不管是死的活的,都敢拿在手上了。
这么一来,四脚蛇这样的东西也成了不拘泥于长相的可爱动物了。
不仅如此,我觉得四脚蛇还真是个不简单的家伙。
某日,我见到了平日总是被猫咪玩弄,拼命要逃走的四脚蛇勇敢地与猫咪对抗的场面。
那只四脚蛇用小小的上下颚紧紧咬住猫咪的前爪——即猫爪后面露出的皮肤部分。
猫咪对这样意想不到的反击与其说是畏缩,倒不如说是束手无策的样子,它不断地甩那只爪子,想把四脚蛇甩掉,可是四脚蛇就是不松口。
我不禁笑了起来,何止猫斗困鼠,如果四脚蛇被逼得走投无路,也会对猫这样庞大对